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第25話 落とすつもりが、人生ごと落とされた
澪標の丘に、白い花が咲いた。
いや、正確には咲いたわけじゃない。
玻璃宮玄理が、勝手に用意した。
白い花のアーチ。木の椅子。風に揺れる薄布。
灯庭舎の子供たちが走り回っても転ばないように整えられた芝生。
水緒さんが好きだったという古い水路のそばには、小さな花束が置かれている。
派手ではない。
でも、どこを見ても手がかかっている。
金の匂いはするのに、見せびらかす感じはない。
腹立つくらい、ちょうどいい。
「……本当に、準備が良すぎる」
俺が呟くと、隣にいた千歳が低く言った。
「父さんの悪い癖だ」
「悪い癖で式場作る?」
「作る人だ」
「財閥こわ」
「俺も少し怖い」
千歳は、今日は白の礼服だった。真っ白ではない。
少しだけ青みを含んだ、澪標の朝みたいな白。
長い睫毛。整った横顔。少し緊張した口元。
隣に立っているだけで、胸が変な音を立てる。
俺も白に近いスーツを着ていた。
螢いわく、「ホスト感を残しつつ、結婚式で親族に怒られないライン」。
冴いわく、「攻めのくせに顔が緊張しすぎ」。
余計なお世話だ。
緊張くらいする。だって今日は、式だ。俺と千の。
「纏」
千歳が俺を見る。
「何」
「顔が怖い」
「お前もな」
「俺は通常だ」
「嘘つけ。さっきから手袋の指先いじってる」
千歳の手が止まった。
「見ていたのか」
「夫になる男なんで」
言った瞬間、千歳の耳が赤くなった。
「まだ式の前だ」
「じゃあ予約夫」
「語彙が安い」
「高級ホストなのに?」
「語彙を磨けと何度言わせる」
俺は笑った。千歳も、ほんの少し笑った。
それだけで、緊張が少しほどけた。
丘の下から、灯庭舎の子供たちの声が聞こえる。
「マトイ兄ちゃん、まだー?」
「千歳さん、札束で汗ふくー?」
「こら、蓮太!」
院長先生の声。
俺は思わず顔を覆った。
「蓮太、まだ言ってる」
「答えを用意してある」
千歳が真顔で言った。
「やめろ。まさか本当に拭く気か」
「紙幣は衛生的に望ましくないので、専用のハンカチを用意した」
「まじめに返すな」
「子供の疑問には誠実に答えるべきだ」
「方向性が間違ってる」
そんな会話をしていると、鏡味静臣が静かに近づいてきた。
怪我はもうほとんど癒えている。
けれど、あの日の痕跡は完全には消えていない。
それでも彼は、今日も完璧な執事の姿だった。
黒い礼服。白い手袋。穏やかな表情。
「千歳様、架橋様。そろそろお時間でございます」
「鏡味」
千歳が少しだけ声を柔らかくする。
「無理はしていませんか」
「本日は、無理をしてでも立ち会う日でございます」
「そういうところです」
「存じております」
鏡味は静かに微笑んだ。
「ですが、本日はどうかお許しを。水緒様も、きっとご覧になりたかったはずですから」
千歳の表情が、ふっと揺れた。
「母さんが」
「ええ」
鏡味は丘の向こうを見た。
「この場所で、千歳様がご自身で選ばれた方と並ぶ姿を」
千歳は、しばらく何も言わなかった。
俺も黙っていた。
風が吹く。白い布が揺れる。
水緒さんの余白だった場所に、千歳の新しい時間が重なっていく。
鏡味は俺に向き直った。
「架橋様」
「はい」
「千歳様を、どうぞよろしくお願いいたします」
丁寧すぎるほどの礼。
俺は、背筋を伸ばした。
「こちらこそ」
声が少し震えた。
「俺を止めてくれる人でもあるので」
鏡味の目が少し細くなる。
「それは重責でございますね」
「かなり」
千歳が横から言う。
「二人とも、俺を何だと思っているんですか」
「大切な方です」
鏡味が即答した。千歳が言葉を失う。
俺は笑いそうになって、でも笑わなかった。
鏡味は本気だったからだ。
「ですから」
鏡味は続けた。
「どうか、一人で立とうとなさらないでください。これからは、お二人で」
千歳の目が、少しだけ赤くなった。
「……分かっています」
「本当に?」
俺が聞くと、千歳が俺を睨む。
「君まで」
「大事なところだから」
「分かっている」
「約束?」
千歳は、少しだけ息を吐いた。
「約束する」
その言葉を聞いて、鏡味が満足そうに頷いた。
丘の上の席には、もうみんな集まっていた。
灯庭舎の子供たち。院長先生。冴。螢。
美緒里さんたち。沙月たち。斎門さん。鏡味さん。
そして、少し離れたところに玻璃宮玄理。
玄理は今日も余裕そうな顔をしていた。腹立つ。
でも、その目は少しだけ優しかった。
昨日、千歳は父親と話した。
水緒さんを失ったこと。
瑠璃香への恩と負い目を処理できなかったこと。
そのうしろめたさの置き場所を、千歳にしてしまったこと。
父は謝った。千歳は、許してはいないと言った。
でも、話は聞くと言った。その翌日に、この式。
綺麗に解決したわけではない。
だからこそ、今日のこの場所には意味があった。
過去を消すためじゃない。
過去を抱えたまま、前へ進むための場所だった。
式が始まる直前、千歳の指がまた手袋の端に触れた。
さっきよりも、ほんの少しだけ強い。
俺はそれを見て、何も言わずに自分の手を差し出した。
「確かめていいか」
千歳が、少し目を見開く。
「今?」
「今」
「理由は?」
「お前がここにいるって、俺もここにいるって、式が始まる前に確かめたい」
千歳は、ほんの少しだけ目を伏せた。
それから、白い手袋のまま俺の指に触れた。
「許可する」
俺たちは、ほんの短い間だけ手を握った。
人に見せるためではない。逃げるな、と縛るためでもない。
これから歩き出す前に、互いの温度を覚えるための手だった。
千歳の手袋越しの指は少し冷たい。
でも、その奥にちゃんと熱があった。
出会いの握手を思い出す。
白い手袋を外して差し出された、冷たい手。
握り返された一瞬の熱。
あの時は、何が始まったのか分かっていなかった。
今は分かる。あの短い握手から、俺はもう落ち始めていた。
「ここにいる?」
俺が聞くと、千歳は静かに答えた。
「いる」
「俺もいる」
「知っている」
「この先も?」
千歳の指が、少しだけ強くなる。
「いる」
それだけで十分だった。
俺たちは手を離し、白い花のアーチの前へ進んだ。
玄理が、少し離れた場所から見ている。
たぶん全部見えていた。いや、見えていたに決まっている。
腹立つ。でも、今日だけは見逃してやる。
「準備はいいかい」
玄理が言う。
千歳が即座に返す。
「父さんが仕切るのは、最後まで納得していません」
「では、私が一歩下がろう」
「最初から下がっていてください」
「手厳しいな」
玄理は笑った。そして、俺を見た。
「架橋くん。千歳は面倒だろう」
「はい」
「即答するのか」
千歳がこっちを見る。俺は笑った。
「でも、そこが好きなので」
千歳が固まった。
玄理が大笑いした。
「いい答えだ」
「父さん、笑いすぎです」
「いや、これを笑わずにいられる父親はいない」
千歳は耳まで赤くなっていた。
かなりかわいい。
いや、今日は言わない。
言ったら式の前に刺される。
式は、思っていたよりずっと簡素だった。
神父も牧師もいない。宗教的な形式でもない。
ただ、澪標の丘の風の中で、俺と千歳が並んで立つ。
水緒さんの花束がそばにある。
灯庭舎の子供たちが前列でそわそわしている。
玄理が短く言った。
「今日は、二人が守った場所で、二人が選んだ関係を祝う日です」
少しだけざわめきが起きた。
祝う。その言葉が、胸に染みた。
俺たちの関係は、醜聞にされかけた。
動画で切り取られた。燃やされた。恥だと言われた。
でも、今ここにあるのは祝福だった。
玄理は続ける。
「二人は、嘘から始まりました。策略から始まりました。守るものを持つ者同士として出会い、傷つき、怒り、間違え、それでも互いを恥にしないと決めました」
千歳が、隣で息を吸う。
俺も、拳を握りそうになってやめた。
今日は戦う日じゃない。
でも、戦ってきた日々の上にある日だ。
「ですから」
玄理は少し笑った。
「ここでは、誰かに認めてもらうためではなく、二人が互いに選んだことを、皆で見届けます」
俺は千歳を見た。
千歳も俺を見ていた。
「まずは、架橋纏くん」
玄理が言う。
「君から」
「え」
「誓いの言葉だ」
「聞いてない」
「言ったら面白くないだろう」
「父さん」
千歳の声が低い。
「こういう不意打ちはやめてください」
「大丈夫だ。彼は口が回る」
「そういう問題では」
「信じよう」
玄理が言った。
千歳は一瞬黙った。
信じよう。その言葉に、反論できなかったらしい。
俺は息を吐いた。不意打ち。でも、逃げない。
俺は千歳に向き直った。
「千歳」
「……何」
「最初は仕事だった」
千歳の目が揺れた。
みんなが静かになる。
「金のためだった。灯庭舎を守るために、お前に近づいた。最低だったと思う」
「うん」
「でも、お前は俺を切らなかった。怒って、傷ついて、それでも俺が本当のことにできるか見てくれた」
千歳は黙って聞いている。
俺は続けた。
「俺は、逃げ道を作るのが得意だと思ってた。誰かを悪い場所から逃がすのが、自分の役割だって。でも、お前と出会って分かった」
声が少し震える。
「俺にも、帰る場所が欲しかった」
千歳の目が、少しだけ赤くなる。
「余白の部屋が燃えた夜、俺は思った。場所は燃える。物は壊れる。でも、一緒に持ち出せるものがあるなら、また作れる」
白いマグ。青いマグ。メモ帳。蓮太の絵。
千歳。俺。
「だから、俺はこれからも、お前と場所を作りたい。逃げない場所を。怒っても、泣きそうになっても、怖くても、戻ってこられる場所を」
喉が詰まる。
でも、最後まで言う。
「玻璃宮千歳。俺は、お前を愛してる。今日だけじゃなくて、これから先、何度でも選ぶ」
千歳の唇が震えた。
「だから」
俺は手を差し出した。
「俺の人生ごと、持っていってください」
一瞬、風が止まったような気がした。
冴が口元を押さえている。
螢が泣きそうな顔で笑っている。
灯庭舎の子供たちは、意味が分かっているような、分かっていないような顔で見ている。
千歳は、俺の手を見た。
それから、俺の顔を見た。
「……君は」
声が少し震えていた。
「本当に、時々腹が立つほど誠実だな」
「時々?」
「普段は口が悪い」
「ここでそれ言う?」
「言う」
千歳は、俺の手を取った。
その瞬間、俺の胸の中で、何かが静かにほどけた。
握られた手が、誓いになった。
逃げるな、ではない。止める、でもない。
一緒に行くぞ。そういう力だった。
千歳の指が、俺の手を強く握る。
いつもの確認より、少しだけ強く。
会見前の手より、ずっと迷いなく。
初キスの前に袖を掴んだ時とは違う。
これは、もう離れるなという焦りではない。
未来へ行くぞという、千歳の意思だった。
「俺も言う番だな」
「うん」
千歳は、俺の手を握ったまま、まっすぐ俺を見た。
「纏」
「うん」
「俺は、ずっと玻璃宮千歳でいようとしていた」
静かな声だった。
「母がいなくなって、父が遠くへ行って、俺には玻璃宮の名だけが残った。強く、美しく、冷静で、間違えない人間でいれば、いつか誰かが見つけてくれると思っていた」
玄理が、少し目を伏せた。
鏡味が静かに見守っている。
「けれど、君は俺の完璧ではない部分ばかり見つけた」
千歳は、少しだけ笑う。
「疲れているところ。悔しいところ。怖いところ。触れてほしいと言えなかったところ。父を許せないところ。叔父上を切り捨てられないところ」
俺は、黙って聞いていた。
「君は、俺が隠しているものを名前で呼ぶ。優しさも、甘さも、弱さも。腹が立つほど、勝手に見つける」
「悪い」
「悪くない」
千歳の手が、さらに少し強く俺の手を握る。
「それで、俺は玻璃宮ではなく千歳でいられる場所を知った」
胸が熱くなる。
「余白の部屋は燃えた。でも、君が言った通り、余白は持ち出せた。俺は君となら、また作れると思った」
千歳の声が、少しだけ震える。
「だから、俺も君を選ぶ」
俺は息を止めた。
「ホストの君も、間違えた君も、怒ると顔が怖い君も、字が汚い君も」
「まだ言う?」
「言う」
千歳は、泣きそうな顔で笑った。
「逃げ道を作る君も、俺を止める君も、俺の代わりに父へ怒ってくれる君も」
風が吹く。
白い花が揺れる。
「全部、俺が選ぶ」
千歳は、ゆっくり言った。
「架橋纏。俺は君を愛している。これから先、君が自分を雑に使おうとしたら止める。俺が一人で立とうとしたら、君が止めろ」
「うん」
「怒りも、怖さも、喜びも、逃げ道も、全部二人で持つ」
「うん」
「だから」
千歳は、少しだけ耳を赤くした。
「俺の余白に、これからもいてください」
駄目だった。完全に駄目だった。
俺は目元が熱くなって、笑うしかなかった。
「ずるい」
「君ほどではない」
「最高にずるい」
「知っている」
千歳が笑う。俺も笑う。
周りから拍手が起きた。
灯庭舎の子供たちが一斉に叫ぶ。
「おめでとー!」
「金持ちの人、泣いてるー!」
「泣いていない」
千歳が即答する。
蓮太が大声で言う。
「じゃあ札束で涙ふくー?」
「専用のハンカチがある」
「本当に答えた!」
子供たちが笑う。俺も笑った。
千歳も、とうとう笑った。その時だった。
拍手が少し落ち着いた頃、千歳が俺の手を握ったまま、小さく言った。
「纏」
「何」
「誓いの証が、まだだ」
心臓が跳ねた。
「……それ、父さんの段取り?」
「違う」
千歳は、まっすぐ俺を見た。目元はまだ赤い。
でも、逃げていない。
「俺の意思だ」
俺は息を吸った。
風が、白い花を揺らす。
水緒さんの花束。灯庭舎の子供たち。
鏡味さん。美緒里さんたち。斎門さん。玄理さん。
ここにいる全員が、俺たちの過去のどこかに触れている。
誰かに救われた。
誰かを傷つけた。
誰かに守られた。
誰かと戻り道を作った。
その全部が、この丘にいた。
千歳の指が、俺の手をもう一度強く握った。
さっきよりも強く。
痛くはない。でも、明確だった。
行くぞ。
逃げるなではなく。離れるなでもなく。
一緒に行くぞ。これからへ。未来へ。
俺は握り返した。
行こう。
そう返すように。
手のひらから、これまでの全部が伝わってくる気がした。
初めての握手。
触れられなかった夜。
正面から抱きしめた日。
後ろから支えた夜。
キスの前に袖を掴まれた瞬間。
そして今。
式の前に、未来へ行く合図として握られた手。
「千歳」
「何」
「これは、終わりのキス?」
千歳は、少しだけ目を伏せた。
それから、首を振った。
「違う」
「じゃあ?」
「過去を置いていくためのものでもない」
胸が静かに震えた。
千歳は俺の手を握り直した。
「嘘から始まったことも、俺が君を利用したことも、君が俺に近づいた理由も、余白の部屋が燃えたことも、鏡味が傷ついたことも、父が俺を一人にしたことも、全部なかったことにはしない」
「うん」
「瑠璃香さんへの負い目も、父の弱さも、俺が背負わされていたものも、消えたわけじゃない」
千歳の声は静かだった。
でも、そこには痛みだけではなく、強さもあった。
「でも、それだけで俺たちを終わらせない」
風が吹く。
千歳の白い礼服の裾が揺れる。
「この先へ持っていく」
「重いぞ」
「知っている」
「俺も面倒だぞ」
「知っている」
「俺、字も汚い」
「知っている」
「怒ると顔も怖い」
「かなり」
「そこは否定しろよ」
千歳は、ほんの少し笑った。
そして、すぐに真顔に戻った。
「それでも、君と行く」
その一言で、胸が詰まった。
「俺も」
俺は千歳の手を握り返した。
「お前の玻璃宮も、千歳も、父親との傷も、母さんの余白も、全部一緒に持つ」
千歳の目が揺れた。
「重いぞ」
「知ってる」
「俺は面倒だぞ」
「知ってる」
「簡単には、甘えられない」
「知ってる」
「それでも?」
「それでも」
俺は笑った。
「お前と行く」
千歳の唇が、少し震えた。
「では」
「うん」
「過去を消さずに、未来へ行く証に」
「うん」
「キスをする」
心臓が鳴った。
「理由は?」
千歳は、静かに答えた。
「これまでを胸に、これからへ歩くため」
それは、今までで一番重い理由だった。
でも、今までで一番、俺たちらしい理由だった。
「許可?」
「許可する」
「俺も、許可する」
千歳は、少しだけ笑った。
「では、来い」
その言い方が、あまりにも千歳で。
俺は泣きそうになりながら、少し笑った。
そして、白い花の下で
キスをした。
唇が触れた瞬間、いくつもの夜が胸をよぎった。
最初に差し出された仕事。攻略ログ。
余白の部屋の白いマグと青いマグ。
鏡味さんの落ちた手袋。燃える窓。会見のフラッシュ。
「恥じゃない」と言ってくれた女たちの声。
千歳の震える字。
「俺も、ずっと我慢していた」という声。
玄理が頭を下げた澪標の丘の朝。
「瑠璃香への負い目は、俺のものではない」と書いた千歳の文字。
そして、今。
その全部が消えたわけではなかった。
消えてほしくもなかった。
痛みも、嘘も、怖さも、守れなかった夜も。
全部、俺たちの後ろに並んでいた。
過去として。
歩いてきた道として。
唇を重ねながら、俺は思った。ここが分岐点だ。
逃げるための道じゃない。
戻るためだけの道でもない。
二人で未来へ向かう道の、最初の一歩。
千歳の指が、俺の手を強く握る。
俺も握り返す。
この手は、もう過去にしがみつくための手じゃない。
未来へ行く合図だ。
一緒に行くぞ。行こう。
何度もそう言い合う代わりに、手のひらで伝えた。
白い花が揺れる。
拍手が、今度は静かに広がる。
祝福の音が、風に溶けていく。
唇が離れた時、千歳は俺を見ていた。
泣きそうで、でも笑っていた。
「……行くぞ」
「どこへ」
「これからへ」
胸が熱くなった。
「うん」
俺は頷いた。
「一緒に行こう」
その直後、蓮太が大声で言った。
「今のキス、高いのー?」
丘の空気が一瞬止まった。
千歳が、真面目な顔で蓮太を見る。
「値段はつけられない」
「じゃあ一番高い?」
千歳は少し考えた。
「そうだな」
「千歳、真面目に答えるな」
俺が言うと、子供たちが爆笑した。
冴はもう完全に泣き笑いしている。
螢は「値段つけられないキス、強い」とか言っている。
鏡味さんは口元を押さえているけれど、たぶん笑っている。
玄理さんは満足そうに拍手していた。
斎門さんは呆れたように、それでも穏やかな顔をしている。
式のあとは、もうめちゃくちゃだった。
冴が俺の肩を叩きながら言った。
「攻略ログ、完結だね」
「まだ言うのかよ」
「言うよ。落とすつもりが、人生ごと落とされた男」
「うるさい」
「でも、よかった」
冴は笑っていた。
少しだけ泣いていた。
「纏、本当にいい顔してる」
「惚気?」
「違う。編集者目線」
「何の編集者だよ」
「人生?」
「重い」
その横で螢が、子供たちに囲まれていた。
「ホストってなにー?」
「夜の王子様みたいなもの?」
「違う違う、螢は王子じゃない」
「マトイ兄ちゃんは?」
「今日だけ王子」
「今日だけ?」
「明日から夫」
俺は吹き出した。
千歳が横で咳き込む。
「螢くん」
千歳の声が低い。
「はい、すみませんでした」
螢の謝罪が早かった。
美緒里さんたちも来てくれた。
沙月が花束を渡してくれる。
「おめでとうございます」
「ありがとう」
俺が受け取ると、美緒里さんが千歳に微笑んだ。
「彼を、よろしくお願いします」
千歳はまっすぐ答える。
「もちろんです」
俺は顔が熱くなる。
「俺、嫁に出されてる?」
「似たようなものでは?」
千歳が言う。
「お前もだからな」
「俺は迎える側だ」
「御曹司様、そこ張り合う?」
「重要だ」
美緒里さんたちが笑う。
彼女たちが笑っている。
過去を恥にされず、自分の足で立って、俺たちを祝ってくれている。
それだけで、胸がいっぱいだった。
斎門さんは、少し離れたところで玄理と何か話していた。
仕事の話だろう。
澪標の丘の再設計。灯庭舎の保全。文化保全型再生計画。
式の最中でも仕事の話をするあたり、玻璃宮の血はやっぱり怖い。
けれど、斎門さんは前より穏やかな顔をしていた。
戻り道は、ちゃんと続いている。
鏡味さんは、最後に俺と千歳の前へ来た。
「千歳様。架橋様。本日は、誠におめでとうございます」
「ありがとう、鏡味」
千歳が言う。
「あなたにも、見届けてもらえてよかった」
鏡味の目が、少しだけ柔らかくなる。
「こちらこそ。水緒様に、良いご報告ができます」
千歳は、ほんの少し目を伏せた。
「母さんは、怒るでしょうか」
「いいえ」
鏡味は静かに言った。
「きっと、笑われるかと」
「笑う?」
「千歳様が、これほど分かりやすく幸せそうなお顔をなさっているので」
千歳が固まる。
俺は笑いをこらえきれなかった。
「顔、幸せそうだって」
「君もだ」
「俺は隠してない」
「俺も隠していない」
お。言った。
千歳が、逃げなかった。
鏡味は、満足そうに微笑んだ。
最後に、玄理がやってきた。
「良い式だった」
「父さんが勝手に準備したことは、まだ許していません」
「候補から昇格しただろう」
「結果論です」
「結果は大事だ」
「本当に腹立たしい」
千歳が言うと、玄理は笑った。
そして、少しだけ真面目な顔になった。
「千歳」
「何ですか」
「幸せになりなさい」
短い言葉だった。
けれど、そこには父親としての願いだけではなく、これまで処理できなかった後悔も混じっていた。
水緒さんを失った痛みから逃げたこと。
瑠璃香への恩と負い目を言い訳に、彼女を切れなかったこと。
その結果、千歳を一人にしたこと。
全部を、今さら消すことはできない。
でも、玄理はその全部を分かった上で、息子に言った。
「今度は、誰かへの負い目ではなく、お前自身の幸せを選びなさい」
千歳は、すぐには返事をしなかった。
怒るでもなく、皮肉を言うでもなく。
ただ、父親を見ていた。
「……努力します」
「そこは、なると言っていい」
「では」
千歳は俺の手を取った。
今度は、人前で、迷いなく。
「なります」
玄理の目が、少しだけ細くなる。
千歳は、まっすぐ父を見た。
「ただし、父さんの罪悪感のためではありません」
玄理は黙って聞いていた。
「瑠璃香さんへの負い目を清算するためでもありません」
「……ああ」
「俺が選んだからです」
千歳の手に、少し力がこもる。
「俺が、纏と幸せになると決めたからです」
胸が熱くなった。
玄理は、静かに頷いた。
「それでいい」
短い言葉だった。
でも、今度は逃げていなかった。
「父さんも、今後は勝手に裏で動かないでください」
「善処する」
「約束です」
「約束する」
親子の約束。
まだ完全に修復したわけではない。
でも、道はできた。戻り道は、親子にもある。
****
夕方、式の人々が少しずつ帰っていったあと、俺と千歳は丘に残った。
白い花のアーチ。
水緒さんの花束。
遠くに灯庭舎の明かり。
風が優しい。
千歳は白い礼服のまま、隣に立っている。
日が傾くと、少し冷えた。
千歳は何も言わなかった。
ただ、遠くの灯庭舎を見ていた。
俺は、自分の上着を脱いだ。
「触れる」
千歳がこちらを見る。
「理由は?」
「今日は後ろから抱きしめない」
千歳の目が少し揺れる。
「では?」
「上着をかけるだけ」
「理由は?」
「お前が寒そうだから半分」
「残りは?」
俺は千歳の背後に立った。
以前にもあった。でも、あの時よりもずっと静かに。
「今日も、後ろにいるって言いたい」
千歳は、しばらく黙った。
それから、前を向いたまま、ほんの少しだけ笑った。
「許可する」
俺は、千歳の肩へ上着をかけた。
後ろから抱きしめるわけではない。
腕は回さない。
でも、背中にいることだけは伝える。
千歳の指が、上着の襟に触れた。
「温かいな」
「俺の上着だからな」
「君はいつも体温が高い」
「今日はお前も温かいけどな」
千歳が少しだけ振り返る。
「そうか」
「うん」
「君のせいだな」
反則。
最後まで反則。
俺は顔が熱くなるのを誤魔化すように、安いメモ帳を取り出した。
式にも持ってきていた。
煙の匂いは、もうほとんど消えている。
でも、焦げた夜の記憶は残っている。
「書くか」
千歳が言う。
「書くだろ」
「当然だな」
俺はページを開いた。
最後のページではない。
でも、一区切りのページ。手は震えていない。
ゆっくり書いた。
ーー
澪標の丘で式をした。
灯庭舎のみんな、冴、螢、美緒里さんたち、鏡味さん、斎門さん、玄理さんが来た。
式前に手を握った。理由:ここにいると確かめるため。
誓いの途中、千歳の手が強くなった。意味:一緒に未来へ行く合図。たぶん。いや、絶対。
俺、千歳に人生ごと持っていってくださいと言った。
千歳、俺の余白にいてくださいと言った。
誓いの証としてキスをした。理由:これまでを胸に、これからへ歩くため。
過去は消さない。二人で持っていく。
式後、千歳の肩に上着をかけた。理由:後ろにいるって言いたかったから。
千歳は、父さんの罪悪感のためじゃなく、自分で幸せを選ぶと言った。
夫になった。たぶん。いや、なった。
ーー
千歳が横から読んだ。
「字が」
「汚い?」
「今日は、丁寧だ」
「本気だからな」
「いつも本気では?」
「今日は特別」
千歳はペンを受け取った。
綺麗な字で、下に書いた。
ーー
落とすつもりだった男に、人生ごと落とされた。
だが、悪くない。むしろ、かなり良い。
今日のキスは、終わりではなく、始まりだった。
手を握られた。俺も握り返した。未来へ行く合図として。
瑠璃香への負い目は、俺の幸せとは関係ない。
肩に上着をかけられた。後ろハグ未満。効果:高。危険度:夫なので管理可能。
なお、値段はつけられない。
ーー
俺は最後の一文で吹き出した。
「そこ書くのかよ」
「本当の記録だろう」
「蓮太の質問まで残す?」
「重要だった」
「何が」
「答えに困った」
「だろうな」
千歳は少しだけ笑った。
俺はメモ帳を閉じかけて、ふと聞いた。
「かなり良い?」
「高評価だ」
「最高評価は?」
千歳は俺を見る。
夕方の光で、瞳が柔らかく見えた。
「夫だが?」
心臓が止まった。
本当に。
「……お前」
「何かな」
「それ、最後に持ってくるやつだろ」
「使いどころだと思った」
「強すぎる」
「夫なので」
さらっと言うな。
破壊力が高すぎる。
俺は顔を覆った。
千歳が少し楽しそうに笑っている。
「纏」
「何」
「顔が真っ赤だ」
「お前のせいだろ」
「夫のせいか」
「やめろ」
「嫌か?」
俺は顔を上げた。
千歳が、少しだけ不安そうに見ていた。
だから、ちゃんと答えた。
「嫌じゃない」
千歳の表情が柔らかくなる。
「では、続ける」
「ほどほどにしろ」
「善処する」
「約束」
千歳は笑った。
「約束する」
俺たちは、丘の上で手をつないだ。
理由は聞かなかった。
もう分かっているから。
愛しているから。
隣に立ちたいから。
これからも一緒に戻れる場所を作りたいから。
手のひらの温度が、ゆっくり混ざる。
式の前は、ここにいると確かめるためだった。
誓いの時は、一緒に未来へ行く合図だった。
今は、帰るための手だった。
遠くで、灯庭舎の子供たちがまた騒いでいる。
冴の笑い声が聞こえる。
螢が何か叫んでいる。
玄理と斎門がまた仕事の話をしている。
鏡味が静かにそれを止めている。
水緒さんの花束が、風に揺れている。
俺は千歳の手を握りながら、思った。
最初は仕事だった。
金に目がくらんだ。
落とすつもりだった。
攻略するつもりだった。
でも、気づけば俺の方が落とされていた。
顔だけじゃない。
言葉だけじゃない。
財閥の力でもない。
玻璃宮千歳という男の、孤独と強さと甘さと面倒くささに。
人生ごと落とされた。
そして今、全然後悔していない。
「千歳」
「何かな」
「俺、かなり幸せかも」
千歳は、少しだけ目を細めた。
「かも?」
「かなり幸せ」
「よろしい」
「御曹司様、採点厳しい」
「夫なので」
「便利に使うな」
千歳は笑った。
俺も笑った。
澪標の丘の夕方は、ゆっくり金色に変わっていく。
俺たちの影が、草の上で並んで伸びていた。
逃げない場所は、もう一つの部屋だけじゃない。
ここにもある。灯庭舎にもある。Club Perigeeにもある。
そしてたぶん、俺たちが一緒にいる場所なら、どこにでも作れる。
余白は、二人で持ち出した。
だから、これからも二人で育てていく。
白い花の下で、千歳が俺を見る。
「帰るか」
「どこに?」
俺が聞くと、千歳は少しだけ笑った。
「俺たちの場所に」
それがどこなのか、もう聞く必要はなかった。
俺は手を握り返した。
「帰ろう、夫」
千歳の耳が赤くなった。
「調子に乗るな」
「乗ってんのはお前の照れだろ」
「まだ磨けていない」
「一生かけて磨く」
千歳は、呆れたように、でも幸せそうに笑った。
「では、期待している」
「任せろ」
俺たちは丘を下り始めた。
手は離さなかった。
物語は終わる。
でも、俺たちは続いていく。
攻略ログは完結した。
復讐も、ほとんど終わった。
守りたい場所は守られた。
父の罪悪感も、後妻の影も、全部が今日で消えたわけではない。
それでも、千歳は自分で幸せを選んだ。
俺は、その隣に立つと決めた。
そして、俺は今日から、玻璃宮千歳の夫になった。
たぶん。
いや、なった。
** 攻略不能の御曹司を落とすはずが、俺が夫にされました ~ホスト攻め×策士御曹司受け、偽装恋人から始まる共犯純愛~ (終わり)
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