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第24話 父は、全部知っていた
澪標の丘は、朝の光の中にあった。
燃えた余白の部屋の煙も、白蝶会のざわめきも、会見のフラッシュも、ここまでは届かないみたいだった。
緩やかな丘。古い水路。苔のついた石碑。風に揺れる草。
千歳の母、水緒さんが「余白」と呼んだ場所。
そして、灯庭舎へ続く地図の一角。
俺と千歳が、同じ地図に立っていると知った場所。
その丘の上に、男が立っていた。
玻璃宮玄理。千歳の父。
海外で活躍する財閥総帥。
ここまでずっと、物語の外側にいたはずの男。
なのに、その背中だけで分かった。
この人は、たぶん最初から盤面の外にいたんじゃない。
盤面の一段上から、全部見ていた。
「来たか」
玄理は振り返った。
千歳とよく似た目をしていた。
ただ、千歳より少し柔らかくて、少し腹立つくらい余裕がある。
俺は一瞬で思った。
あ、面倒くさいタイプだ。
千歳が隣で低く言う。
「父さん」
声が硬い。当然だ。
ずっと不在だった父親。
母の死後、海外へ行き、玻璃宮を千歳に任せていた男。
それが今さら「よくやった」と言って、澪標の丘に呼び出した。
千歳が怒らないわけがない。
玄理は穏やかに笑った。
「久しぶりだな、千歳」
「ええ。ずいぶんと」
「背が伸びた」
「三十歳の息子に言うことですか」
「では、顔が険しくなった」
「あなたのせいもあります」
初手から刺す。
千歳、強い。
けれど玄理は、少しも怯まなかった。
むしろ、嬉しそうに目を細めた。
「いい顔をするようになった」
「褒められても嬉しくありません」
「だろうな」
玄理の視線が俺に向く。
「君が架橋纏くんか」
「はい」
俺は頭を下げた。
「はじめまして。……で、いいんですよね?」
玄理が笑う。
「直接会うのは、はじめましてだ」
やっぱり。この人、何か知っている。
千歳の目が冷える。
「父さん。説明を」
「せっかちだな」
「あなたに似たので」
「私はもう少し優雅だ」
「自称ですか」
「親子だな」
「不本意です」
俺は黙って聞いていた。
親子喧嘩なのに、なぜか財閥の会議みたいな品がある。いや、普通に怖い。
しかも昨日、俺たちは初めてキスをしたばかりだ。
関係は「まだ恋人ではない共犯者」から、「恋人」に訂正されたばかり。
つまり、俺は今、恋人の父親と初対面している。
しかも相手は財閥総帥。さらに言うと、過去の全部を知っていそうな男。
冷静に考えると、胃が痛い。
「纏」
千歳が小さく言った。
「何」
「顔がうるさい」
「顔に音量ある?」
「君はある」
「緊張してるんだよ」
「珍しいな」
「恋人の父親だぞ」
言った瞬間、千歳の耳が少し赤くなった。
玄理が目を細める。
「恋人か」
「父さん」
千歳の声が危険になった。
「余計な反応をしないでください」
「いい響きだと思っただけだ」
「黙ってください」
「手厳しい」
この親子、本当に面倒くさい。そして似ている。
玄理は澪標の丘を見渡した。
「ここは、相変わらず風がいい」
「母さんの場所です」
「私の場所でもある」
千歳の表情が、少しだけ変わった。
「あなたが、それを言うんですか」
「言う資格がないと思うか」
「少なくとも、簡単に言っていい言葉ではありません」
玄理は、少し黙った。
その沈黙だけは、さっきまでの余裕とは違った。
「そうだな」
風が吹いた。
草が揺れる。
千歳は動かない。
俺も、隣に立つ。
今日は千歳の番だ。
千歳が父親と向き合う番。
俺は口を出さない。そう決めていた。最初は。
玄理は言った。
「私は、全部を知っていたわけではない」
「では、どこから知っていたんですか」
「白蝶リゾート構想が動き始めた頃からだ」
「十分、早いですね」
「瑠璃香が玻璃宮に入り込んだ時点で、完全に信用はしていなかった。斎門が彼女に傾いた時も、危ういとは思っていた」
「なら、なぜ止めなかったんですか」
千歳の声が低くなる。
「あなたなら、止められたはずだ」
「止められた」
玄理は認めた。
「でも、止めなかった」
「そうだ」
千歳の指が、ほんの少し震えた。
袖口の影で。
他人には見えないくらいの、小さな震えだった。
でも、俺には見えた。
最初に握手した時の、冷たい指先。
余白の部屋で「怖いまま、信じる」と書いた手。
会見前に、俺を現実に戻してくれた手。
昨日、初めてのキスのあとで、熱を落ち着かせるために重ねた手。
その手が、今、父親の前で震えている。
俺は口を出さなかった。
代わりに、千歳の手の甲へ、指先だけをそっと触れさせた。
握らない。引っ張らない。言葉を奪わない。
ただ、ここにいると伝えるだけ。
千歳の睫毛が、わずかに揺れた。
「確かめていいか」
俺は、唇だけで言った。
声にはしない。
玄理に聞かせるためじゃない。
千歳にだけ届けばいい。
千歳は、父親から目を逸らさないまま、ほんの少しだけ指を開いた。
許可。
俺は、手の甲に触れたまま、すぐに離れた。
千歳は振り払わなかった。それだけで十分だった。
「どうして」
千歳が言った。
「お前が、どうするか見たかった」
その瞬間、千歳の顔から表情が消えた。
俺の中で、何かが切れかけた。
見たかった?
それだけ?
千歳が、どれだけ一人で戦ってきたと思っている。
母の場所を守るために。
玻璃宮の名前を背負うために。
鏡味さんが傷つけられて、余白の部屋が燃えて、それでも逃げずに立ってきた。
それを「見たかった」?
俺は口を開きそうになった。だが、千歳が先に言った。
「ずいぶんと、趣味の悪い観察ですね」
「そう言われても仕方ない」
「仕方ない、で済ませるんですか」
「済まない」
玄理の声が、少し低くなった。
「私は、お前に傷ついてほしかったわけではない」
「でも、傷つきました」
「そうだな」
「鏡味も傷ついた」
「聞いている」
「余白の部屋も燃えた」
「知っている」
「灯庭舎も、母さんの場所も、奪われかけた」
「その通りだ」
千歳の声が、静かに震えた。
「なら、なぜもっと早く戻らなかったんですか」
玄理は答えなかった。
長い沈黙。
俺は、手の中に力が入るのを感じた。
千歳は、まだ立っている。
綺麗な顔で。冷静な声で。
でも、それが逆に痛かった。
泣かないように立つことに慣れすぎている。
この人は、ずっとそうしてきたのだ。
玄理は、ゆっくり口を開いた。
「水緒を失った後、私は一度、かなり壊れていた」
千歳の目が、わずかに動いた。
「情けない話だが、玻璃宮玄理ではいられても、夫ではいられなかった。父でもなかった」
風が、丘を撫でる。
玄理の声は穏やかだった。
でも、初めてそこに弱さが見えた。
「お前を見ると、水緒を失った事実を何度も突きつけられた。お前の目は、水緒に似ていた。お前の静かな怒りも、彼女に似ていた」
千歳は黙っている。
「私は、耐えられなかった」
「だから、俺を置いていったんですか」
「そうだ」
千歳の顔が歪んだ。
怒り。痛み。
ずっと奥に押し込めてきた、子供の頃の傷。
「俺は」
声が、少しかすれた。
「俺は、あなたに置いていかれたと思っていました」
「その通りだ」
「母さんがいなくなって、父さんも遠くに行って、玻璃宮だけが残った」
「うん」
「俺は、玻璃宮でいれば、あなたに見てもらえると思っていた」
玄理の顔から、ようやく余裕が消えた。
千歳は続ける。
「だから、ずっと玻璃宮千歳でいました。母さんの場所も、家も、会社も、全部守れば、あなたが戻ってくる理由になると思っていた」
言葉が痛かった。
俺は何も言えなかった。玄理も、言えなかった。
「でも、戻ってこなかった」
「……すまない」
「瑠璃香さんのことは」
千歳が、静かに言った。
その名前が出た瞬間、玄理の表情が少しだけ変わった。
「父さんは、どこまで分かっていたんですか」
「……彼女に、愛人がいることか」
千歳の指がわずかに動いた。
「知っていたんですね」
「ああ」
「いつから」
「かなり前からだ」
「なら、なぜ」
千歳の声が冷えていく。
「なぜ、放置したんですか」
玄理は、すぐには答えなかった。
草が揺れる。丘の空気が少し重くなる。
「水緒を失った後、私のそばにいたのは、瑠璃香だった」
千歳の表情が止まった。
「彼女が本当に私を支えたのか、玻璃宮に入り込む機会を見ていたのか。今となっては、どちらだったのか分からない」
玄理は目を伏せた。
「おそらく、両方だったのだろう」
「両方」
「そうだ。打算もあった。野心もあった。凍蝶院の名をもう一度高みに戻したいという欲もあった」
玄理は、自分の言葉から逃げなかった。
「だが、当時の私が彼女の言葉に救われたことも、事実だった」
千歳の顔から、さらに表情が消えていく。
「だから、切れなかったんですか」
「そうだ」
「愛していたからではなく」
「違う」
「恩があったから」
「そうだ」
「そして、その恩を利用された」
「そうだな」
玄理の声は低かった。
「今の私に、瑠璃香への愛情はない。彼女に狗飼錆人という愛人がいたことも知っていた。だが、私は口を出さなかった」
「なぜ」
「資格がないと思っていた」
「資格?」
千歳の声がさらに冷えた。
「自分もまた、水緒から逃げ、息子から逃げた男だったからだ」
沈黙。
重かった。俺は、息をするのも忘れそうになった。
玄理は続けた。
「彼女を責める資格がない。彼女を切る資格がない。そう言い訳していた」
「言い訳」
「そうだ」
「その言い訳の間に、瑠璃香さんは白蝶会を使い、狗飼を使い、母さんの場所を奪おうとした」
「その通りだ」
「灯庭舎も巻き込まれた」
「ああ」
「鏡味も傷ついた」
「ああ」
「俺も」
千歳の声が、そこで一瞬だけ止まった。
また、指が震えた。
今度は、はっきり分かった。
言葉にしようとしている痛みが、手から漏れている。
俺は、千歳の手に触れた。
今度は、ほんの少しだけ握った。
強くはない。
千歳の言葉を止めないように。
父親と向き合う邪魔をしないように。
ただ、ここにいる。
言え。
俺が隣にいる。
そう伝えるだけの手だった。
千歳は、一瞬だけ俺の指を握り返した。
そして、父親を見た。
「俺も、傷つきました」
玄理は目を閉じた。
「すまない」
「謝れば済むと思っていますか」
「思っていない」
「では、どうして」
千歳の声がかすれた。
「どうして、そんなに遅いんですか」
玄理は答えられなかった。
俺は、もう限界だった。
「すみません」
口が勝手に動いていた。
千歳が俺を見る。
玄理も俺を見る。
俺は一歩前に出た。
その時、千歳の指が俺の手首へ軽く触れた。
止めるためではない。
確認だった。
本当に言うのか、という確認。
俺は千歳を見る。
「言う」
短く告げた。
千歳は、ほんの少しだけ目を伏せた。
許可、だと思った。
「部外者が言うことじゃないのは分かってます。でも、言います」
「纏」
千歳が低く呼ぶ。
俺は止まらなかった。
「瑠璃香さんに恩があったことは、分かりました」
本当に、分かった。
弱っている時に誰かに支えられたら、それがたとえ打算混じりでも、簡単には切れない。
俺だって、人の弱さくらいは知っている。
「でも、そのうしろめたさの置き場所を、千歳にしていいわけじゃない」
玄理の目が、わずかに揺れた。
「あなたが後妻さんを切れなかったことと、千歳が一人で戦わされたことは、別の話です」
言葉が熱くなる。
「千歳は、あなたの恩義の代償じゃない」
千歳が、小さく息を呑んだ。
俺は止まらなかった。
「あなたが瑠璃香さんに悪いと思っていた分まで、千歳が背負わされた。母親の場所を守って、玻璃宮を守って、傷ついても綺麗な顔で立って」
喉が痛い。
「それを“見たかった”とか“信頼していた”で済ませるなら、俺はあなたを許せない」
玄理は黙っていた。
少し長い沈黙のあと、彼はゆっくり息を吐いた。
「……その通りだ」
玄理は、俺ではなく千歳を見た。
「千歳。私は、瑠璃香への負い目を処理できなかった。その結果、お前を傷つけた」
千歳の目が揺れる。
「それは、私の罪だ」
玄理は、深く頭を下げた。
財閥総帥としてではない。千歳の父親として。たぶん、初めて。
「置いていって、すまなかった」
風が吹いた。
千歳の髪が揺れる。
「もっと早く、お前の隣に立つべきだった」
千歳は、長い間何も言わなかった。
それから、静かに言った。
「俺は」
声が、少し震えていた。
「母さんの代わりになりたかったわけではありません」
玄理の顔が、痛そうに歪んだ。
「玻璃宮の後継者としてなら、いくらでも立てた。けれど、父さんが瑠璃香さんへの負い目を処理できない間、俺はずっと、父さんの戻らない家を守っていた」
「……ああ」
「それが、一番腹立たしい」
「すまない」
「今は、許せません」
「分かっている」
「分かっている、も腹が立ちます」
「そうだな」
「そこで素直に認めるところも、腹が立ちます」
玄理は、ほんの少しだけ笑った。
「親子だな」
「今それを言うから、さらに腹が立つんです」
俺は思わず少し笑いそうになった。
いや、笑う場面ではない。
でも、この親子、本当に親子だ。
面倒くさい。似ている。
そして、互いに傷ついている。
千歳は、俺の方を少しだけ見た。
その目はまだ揺れていた。
でも、一人で立っている目ではなかった。
「でも」
千歳は言った。
「今なら、俺は一人ではありません」
胸が熱くなる。
玄理も、俺を見た。
「そのようだ」
「だから、あなたを許すかどうかも、一人で急いで決めません」
玄理は目を細める。
「そうか」
「俺は、今すぐ父さんを許すほど、できた息子ではありません」
「分かっている」
「でも、話は聞きます」
玄理は、少しだけ頭を下げた。
「ありがとう」
それは、財閥総帥の礼ではなかった。
父親の礼だった。
たぶん。
少なくとも、そう見えた。
****
少し落ち着いたあと、玄理は俺たちを丘の上の古い東屋へ案内した。
そこには、なぜかテーブルと三つの椅子が用意されていた。
しかも、温かい飲み物まである。
俺は思わず言った。
「準備よすぎません?」
玄理は涼しい顔で答える。
「待っていたからね」
千歳がじろりと見る。
「いつから」
「今朝から」
「そういう意味ではありません」
「お前たちがここに来ることは、昨夜のうちに決めていた」
「あなたが呼んだんです」
「だから準備した」
「……」
千歳が額に手を当てた。
この人と会話するの、疲れそう。
玄理は楽しそうだった。
「君はコーヒーでいいかな、架橋くん」
「はい。……あの、インスタントですか?」
千歳が俺を見る。
「なぜ聞く」
「いや、余白の部屋ではインスタントだったから」
玄理が笑った。
「残念ながら、豆からだ」
「ですよね」
「だが、次はインスタントも用意しよう」
「父さん、余計なところで張り合わないでください」
「張り合ってはいない。研究だ」
「何の」
「息子を落とした味の」
俺はコーヒーを吹きそうになった。
千歳が真っ赤になる。
「父さん!」
「おや、違ったか」
「違います」
「そうか。架橋くんの方が落ちたのかな」
「あなた、全部知っているような顔で茶化すのをやめてください」
玄理は、本当に楽しそうに笑った。
この人、性格が悪い。
そして千歳は、確実にこの人の血を引いている。
東屋に座ると、玄理は本題に戻った。
「さて。隠していた支援について話そう」
千歳の顔が引き締まる。
「やはり、あなたでしたか」
「全部ではない」
玄理は言った。
「君たちが勝った分は、君たちのものだ。そこは誤解してほしくない」
「では、どこまで介入を?」
「安全網だ」
玄理は指を折る。
「狗飼錆人の関連会社を調べるための海外資料ルート。
鏡味救出後の医療手配。
白蝶会内部で、瑠璃香を切る判断を促すための裏連絡。
会見場の一部調整。
そして、灯庭舎の保全に必要な法的資料の収集」
千歳が目を細める。
「それだけやっていて、よく“見ていただけ”と言えましたね」
「見ていただけではない。落ちる前に受け止める準備はしていた」
「落ちる前に助けてはくれないんですね」
「お前なら、落ちないと思っていた」
「過大評価です」
「信頼だ」
千歳は言葉を止めた。
信頼。
その言葉は、千歳にとってまだ少し怖いものだ。
俺は千歳の横顔を見た。
玄理も、それを分かっているようだった。
「ただ、その信頼の仕方が間違っていた」
玄理は言った。
「お前に任せることと、お前を一人にすることは違う」
千歳の指が、膝の上でわずかに動いた。
俺は、テーブルの下でその手に触れようとして、止めた。
今は、千歳が自分で受け取る場面だ。
手を出せば楽になるかもしれない。
でも、千歳の言葉まで俺が支えてしまうのは違う。
千歳は、自分で父親を見る。
「その違いに気づくのが遅すぎた」
「……本当に」
「すまない」
玄理は、もう一度謝った。
千歳は、今度は目を逸らさなかった。
「次からは、事前に言ってください」
「何を」
「支援するなら、支援すると」
玄理は少し驚いたように瞬きした。
それから、嬉しそうに笑った。
「分かった」
「勝手に裏で動かれると、腹が立ちます」
「親子だな」
「それも腹が立ちます」
「分かった。では、今後は報告する」
「必ず」
「約束する」
約束。
その言葉が出た時、千歳の表情がほんの少し変わった。
俺たちが何度も交わしてきた言葉。
約束する。
玄理がそれを軽く扱っていないことだけは、分かった。
玄理は、次に俺を見た。
「架橋くん」
「はい」
「灯庭舎についてだが」
俺は姿勢を正した。
「澪標の丘全体の保全計画に組み込む。斎門が中心となって再設計するが、君にも現場側の意見を聞きたい」
「俺でいいんですか」
「君でなければ困る」
胸が鳴った。
「灯庭舎を“かわいそうな施設”として残すつもりはない」
玄理は言った。
「地域の記憶を持つ場所として、子供たちの生活の場として、そしてこの土地に未来を残す拠点として守る。そのためには、金持ちの理屈だけでは足りない」
俺は言葉に詰まった。
「……俺、難しい会議とか向いてませんよ」
「知っている」
「だが、人がどこで息をするかを見る目はある」
千歳が、横で静かに言った。
「そうです」
俺は千歳を見る。
「君は、逃げ道を作るのがうまい」
玄理が頷く。
「なら、その逃げ道を設計に入れてほしい」
何だ、それ。
そんな言い方をされたら、断れない。
「……やります」
俺は言った。
「灯庭舎のためにも。千歳のためにも」
千歳の気配が揺れた。
俺は少しだけ笑う。
「あと、俺のためにも」
玄理は満足そうに頷いた。
「いい答えだ」
「試験だったんですか」
「少し」
「親子そろって性格悪いですね」
千歳がすぐに言う。
「俺を含めるな」
「含めるだろ」
「不本意だ」
玄理は楽しそうに笑った。
「仲がいいな」
「ええ」
千歳が即答した。
俺の心臓が跳ねる。
「否定しないのか」
玄理が言うと、千歳は涼しい顔で白い息を吐いた。
「恥ではありませんので」
父親の前で言うな。いや、言っていい。
でも、心臓に悪い。
玄理は少しだけ目を細めた。
「本当に、いい顔になった」
今度は、千歳は反発しなかった。
ただ、少しだけ目を伏せた。
****
東屋を出たあと、玄理は俺たちを丘の奥へ案内した。
そこには、小さな白い布が風に揺れていた。
花のアーチ。
木の椅子。
簡素だけれど、丁寧に整えられた空間。
俺は足を止めた。
「……何ですか、これ」
千歳も固まっていた。
玄理は当然のように言う。
「式場だ」
沈黙。
俺と千歳は同時に玄理を見た。
「式場?」
千歳の声が低い。
「そうだ」
「何の」
「君たちの」
「父さん」
千歳の声が、今日一番危険だった。
「順序というものがあります」
「告白は済んだと聞いている」
「誰から」
「会見」
「それは公の説明です」
「昨夜、恋人に訂正したのだろう」
俺と千歳は同時に固まった。
「なぜ知っている」
千歳の声がさらに低くなる。
玄理は笑った。
「冗談だ」
「本当に冗談ですか」
「半分」
「最悪です」
俺は額を押さえた。
この父親、本当に最悪だ。
いや、でも。花のアーチは綺麗だった。派手ではない。
高価ではあるのだろうが、それを見せつける感じではない。
澪標の丘の風に馴染むように作られている。
遠くには、灯庭舎の屋根が少しだけ見える。
ここで式を挙げる。
その想像が、胸の奥に静かに落ちた。
千歳は、まだ固まっている。
「父さん」
「何かな」
「俺たちは、まだ何も」
「結婚しろとは言っていない」
「では、これは」
「祝福する準備だ」
玄理は、少しだけ真面目な顔になった。
「お前たちは、これからまだ忙しい。法的な処理、事業再設計、灯庭舎の保全、狗飼の後始末。だから、先に場所だけ作っておいた」
「勝手に」
「そうだ」
「本当に勝手ですね」
「父親なので」
「理由になっていません」
玄理は、それでも笑っていた。
「使うかどうかは、お前たちが決めればいい」
千歳は黙った。
俺も黙った。
使うかどうか。選べる。
勝手に決められたのではなく、選べる。
千歳は俺を見る。
俺も千歳を見る。
「纏」
「何」
「どう思う」
「めちゃくちゃ腹立つ」
千歳の口元が、少しだけ動いた。
「同感だ」
「でも」
「でも?」
俺は花のアーチを見た。
「綺麗だな」
千歳は、しばらく黙っていた。
それから、静かに頷いた。
「そうだな」
玄理が満足そうに言う。
「では、使うか」
「まだ決めていません」
千歳が即座に言う。
「そうか」
「ただ」
千歳は、少しだけ目を伏せた。
「候補には、します」
玄理は、今度こそ本当に嬉しそうに笑った。
「十分だ」
俺は千歳の横に立った。
花のアーチの向こうに、澪標の丘が広がっている。
灯庭舎の方から、遠く子供たちの声が聞こえた気がした。
たぶん気のせいだ。でも、そう聞こえた。
「千歳」
「何」
「手、取っていいか」
千歳の目が揺れる。
「理由は?」
「ここで、隣に立ちたい」
千歳は、少しだけ微笑んだ。
「許可する」
俺は千歳の手を取った。
父親の前で。
澪標の丘で。
水緒さんの余白の場所で。
遠くに灯庭舎がある場所で。
千歳は、逃げなかった。俺も、逃げなかった。
手の意味は、さっきとは違った。
さっきは、言葉を奪わず、ここにいると伝えるための接触だった。
今は、選ぶための手だった。
この場所で、隣に立つ。
これから先も、隣に立ちたい。
そういう力だった。
千歳の指が、俺の手を握り返す。
強くはない。でも、確かに。
「ここにいる?」
千歳が小さく聞いた。
「いる」
「この先も?」
心臓が鳴った。
「いる」
千歳は前を向いた。
花のアーチを見たまま、静かに言った。
「俺もいる」
玄理は、何も言わなかった。
ただ、少し離れたところで俺たちを見ていた。
たぶん、父親の顔で。
****
その日の夜、新しい部屋に戻ると、俺たちは真っ先にメモ帳を開いた。
煙の匂いが残るメモ帳。
今ではもう、俺たちの本当の記録そのものだ。
俺は書いた。
ーー
玻璃宮玄理、登場。
父は、全部知っていた。支援していた。でも、千歳を一人にした。俺、怒った。
水緒さんを失った後、玄理さんは瑠璃香さんに救われた。たぶん、利用もされた。でも、救われたことも事実だった。
その恩と負い目を処理できなくて、瑠璃香さんを切れなかった。
千歳は、そのうしろめたさまで背負わされていた。
千歳、父に置いていかれた痛みを言えた。
玄理、謝った。約束した。
途中、千歳の手に触れた。理由:言葉を奪わず、ここにいると伝えるため。
澪標の丘に式場ができていた。腹立つ。でも綺麗だった。
手を取った。理由:ここで、隣に立ちたかったから。
ーー
千歳は横で読んでいた。
「読める?」
「読める」
「本気の字?」
「かなり」
千歳はペンを受け取った。
少し考えてから、その下に書いた。
ーー
父を、まだ許してはいない。だが、話すことにした。
瑠璃香への負い目は、俺のものではない。
纏が怒ってくれた。俺の代わりに。
手に触れられた。言葉を奪われなかった。だから、言えた。
式場は、候補。
ーー
俺は最後の一文を見て笑った。
「候補なんだ」
「候補だ」
「腹立つけど?」
「腹立つが、綺麗だった」
「だよな」
千歳は白いマグを持ち上げた。
「それに」
「何」
「君と立つには、悪くない場所だった」
心臓が鳴った。
「……そういうの、さらっと言うな」
「軽くない」
「分かってる」
「では、困れ」
「もう困ってる」
千歳は少しだけ笑った。
その笑顔が、今日は少しだけ子供みたいに見えた。
父親に傷つけられた子供ではなく。
父親とようやく話せた、大人になった息子の顔。
俺はそれを見て、胸が温かくなった。
「次は」
俺が言うと、千歳がこちらを見る。
「何かな」
「式、どうする?」
千歳は白いマグを置いた。
耳が少し赤い。
「急かすな」
「候補だろ」
「候補だ」
「俺は、けっこういいと思った」
「……」
「灯庭舎の近くで、澪標の丘で、みんなが来られるなら」
千歳は黙っている。
俺は続けた。
「俺、あそこでお前の隣に立ちたい」
千歳の目が、大きく揺れた。
「纏」
「何」
「それは、求婚か」
俺は一瞬止まった。
「……たぶん」
「たぶん?」
「いや」
俺は息を吸った。
逃げるな。
「千歳。俺は、あそこでお前の隣に立ちたい。式でも、これから先でも」
千歳は、長い間俺を見ていた。
それから、静かに言った。
「俺もだ」
胸が熱くなる。
「では、候補から昇格だな」
「式場が?」
「式が」
千歳は、少しだけ笑った。
「ただし、父の段取り通りにはしない」
「そこ大事?」
「大事だ」
「御曹司様、負けず嫌い」
「今さらだ」
俺たちは笑った。
白いマグと青いマグを軽く合わせる。
小さな音がした。
その音は、新しい部屋にまたひとつ余白を作った。
父は、全部知っていた。
全部ではないと言いながら、かなり知っていた。
腹立つ。
でも、彼もまた、千歳を失いたくなかった人だった。
遅すぎるけれど。
不器用すぎるけれど。
そして、彼の弱さが、千歳を傷つけたことも事実だった。
瑠璃香を完全な悪として切り捨てられなかった負い目。
水緒さんを失った痛みから逃げたこと。
千歳を一人にしたこと。
その全部は、簡単には消えない。
でも、千歳は父と話すことにした。
俺は、その隣にいる。
次は、式だ。澪標の丘で。灯庭舎の近くで。俺たちが守った場所で。
俺たちは、ようやく恥ではない愛を、祝福に変える。
ともだちにシェアしよう!

