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第23話 彼が逃がした女たちが、愛を守りに来る
会見の翌日、世間は真っ二つに割れた。
玻璃宮千歳は堂々としていた。
俺も、逃げなかった。
けれど、それで全部が綺麗にひっくり返るほど、世の中は優しくない。
ネットには、切り取られた言葉が並んだ。
若当主、ホスト男性への好意を認める。
財閥後継者の公私混同か。
灯庭舎問題は恋愛スキャンダル隠しか。
白蝶リゾート構想に私情介入の疑い。
吐き気がした。
「俺は、玻璃宮千歳が好きです」と言った俺の声が、何度も切り抜かれている。
千歳が「俺が選んだ人です」と言った場面も、面白おかしく拡散されていた。
でも、不思議と後悔はなかった。
恥ではない。醜聞ではない。
それはもう言った。
あとは、その言葉を守るだけだ。
新しい部屋のテーブルには、白いマグと青いマグが並んでいる。
煙の匂いが少し残るメモ帳。
黒い作戦ノート。
蓮太の絵。
そして、会見後に届いた大量の報道資料。
千歳は白いマグを両手で包み、端末を見ていた。
顔色は悪くない。
でも、目元に疲れが出ている。
「寝てないだろ」
俺が言うと、千歳は画面から目を離さないまま答えた。
「少し寝た」
「少しって何分」
「三十分」
「寝てない判定」
「君は?」
「二時間」
「誇るな」
「お前よりマシ」
千歳は少しだけ笑った。
でも、その笑みはすぐに消える。
「白蝶会が動いている」
「瑠璃香さんか」
「狗飼を切った上で、今度は俺たちの関係そのものを攻撃材料にしている」
「狗飼に裏切られたのに、まだやるのか」
「彼女にとっては、むしろ今ここで引けない」
千歳は端末を俺に見せた。
白蝶会内部向けらしい文書。
そこには、玻璃宮グループの倫理問題、後継者としての適格性、財団支援への悪影響など、綺麗な言葉で俺たちへの攻撃が並んでいた。
そのすべてが、遠回しに同じことを言っている。
男同士の関係は恥だ。
夜職の男を隣に置く御曹司はふさわしくない。
「腹立つな」
俺が言うと、千歳は頷いた。
「かなり」
「でも、狗飼の件は効いてるんだろ」
「効いている。瑠璃香は愛人に裏切られた女として、白蝶会内部でも傷を負った」
「なのに、まだ力がある」
「古い社交界では、恥を外へ押し出すことで身内を保つことがある」
千歳の声が少し冷える。
「彼女は、狗飼に裏切られた恥を、俺たちの関係の方へ押しつけようとしている」
俺は青いマグを握った。
恥。
またその言葉だ。
どこまで行っても、敵はそこを突いてくる。
でも、もう決めている。
恥にはしない。
その時、俺のスマホが震えた。
美緒里からだった。
『今日、動きます。私たちに任せて』
俺は画面を見て固まった。
千歳が気づく。
「誰から?」
「美緒里さん」
「何と?」
俺は画面を見せた。
千歳の目が、少しだけ揺れた。
「私たち、か」
さらに通知が来る。
沙月。
他の女の子たち。
かつて俺が悪い男から逃がした人たち。
店で泣いていた人。
投資話に巻き込まれかけた人。
家名を盾に脅されていた人。
狗飼錆人の関係者から逃げた人。
その一人一人から、短い連絡が届く。
『マトイさん、今度は私たちが話します』
『恥にされるのは、もう終わりにしたい』
『あなたに逃げ道を作ってもらったこと、隠しません』
『玻璃宮さんにも伝えてください。あなたたちは間違ってないです』
喉が詰まった。
俺が作った逃げ道が、戻ってきた。
千歳が前に言った言葉が、胸の奥で反響する。
本当に戻ってきた。
今度は、俺たちを守るために。
「纏」
千歳が静かに呼んだ。
「何」
「泣きそうな顔をしている」
「……してるかも」
「泣いてもいい」
「今は無理」
「なぜ」
「今泣いたら、たぶん止まらない」
千歳は少しだけ黙った。
それから、白いマグを置いた。
「触れる?」
俺は息を止めた。
「理由は?」
「君を戻すため」
俺は少し笑った。
「今は言葉でいい」
「分かった」
千歳は、まっすぐ俺を見て言った。
「君がしたことは、戻ってきている」
その一言で、結局かなり危なかった。
俺は目元を手で押さえた。
「……千歳」
「何」
「そういうの、会見の翌日に言うな」
「今日だから言う」
「ずるい」
「知っている」
****
その日の午後、白蝶会の臨時評議会が開かれた。
表向きは、白蝶リゾート構想と玻璃宮グループの今後に関する意見交換会。
実際には、凍蝶院瑠璃香が俺たちを最後に追い落とすための場だった。
場所は、古い洋館。
白蝶会の本拠に近い社交クラブ。
招待客は限定されている。
旧家、貴族筋、財界関係者、財団理事。
そして、なぜか俺にも招待状が届いた。
もちろん罠だ。
だが、罠なら行く。千歳と二人で。
会場に入った瞬間、視線が刺さった。
昨日の会見を見た者たちの視線。
好奇。嫌悪。同情。警戒。
その全部を受けながら、俺は千歳の隣を歩いた。
千歳は濃いグレーのスーツ。
俺は黒。派手な色はない。
でも、二人並ぶだけで、ざわめきが起きる。
「緊張しているか」
千歳が低く聞いた。
「少し」
「俺もだ」
「御曹司様でも?」
「君と一緒なら、少しは緊張する」
「それ、どういう意味」
「良い意味と悪い意味が半分ずつ」
「せめて七三にしろ」
千歳が小さく笑った。
その笑いで、少し息がしやすくなる。
瑠璃香は、会場の中央にいた。
白いドレス。白い手袋。
昨日よりもさらに完璧に整えた姿。
裏切られた女にも、追い詰められた女にも見えない。
白蝶会の女王。
そういう顔をしていた。
「千歳さん」
瑠璃香は優雅に微笑んだ。
「お越しくださったのね。昨日はずいぶん勇ましい会見でしたこと」
「必要な説明をしたまでです」
「愛を語るには、ずいぶん公的な場所でしたわね」
「俺はまだ、そこまでは言っていません」
千歳の声は静かだった。
瑠璃香の目が、ほんの少し細くなる。
「そう。では、あの方だけが先走ったと?」
視線が俺に刺さる。
会見で俺が言ったのは「好き」だ。愛している、までは言っていない。
けれど、瑠璃香はわざとその言葉へ近づけてくる。
俺たちの大事な言葉を、汚れた場所に引きずり出そうとしている。
俺が口を開く前に、千歳の指が俺の手の甲へ触れた。ほんの一瞬。
見せつけるためじゃない。止めるためでもない。
ここにいる、と伝えるための接触。
俺は息を吐いた。
「先走ってませんよ」
瑠璃香が俺を見る。
「昨日言ったことは、全部本気です」
「まあ。美しいこと」
「あなたには、そう聞こえないでしょうけど」
空気が少し張りつめた。
千歳が小さく言う。
「品よく」
「善処する」
「約束」
「……約束する」
瑠璃香は扇子を開いた。
「けれど、世間はどうかしら」
彼女は会場を見回した。
「玻璃宮の名を背負う方が、夜の男に入れ込んで、判断を誤る。しかも、その男は最初、金で近づいたと自ら認めた」
視線が俺に集まる。刺さる。
でも、逃げない。
「そのような関係を、私たちは美談として受け取るべきなのかしら」
瑠璃香の声は甘い。
甘い毒だった。
「玻璃宮グループにとって、白蝶リゾート構想にとって、そしてこの国の古い家々にとって、本当にふさわしい判断なのか。皆様にも考えていただきたいのです」
会場がざわつく。
白蝶会側の人間たちが小さく頷く。
瑠璃香は続けた。
「狗飼錆人については、わたくしも被害者ですわ。彼に欺かれたことは認めましょう。けれど、それと千歳さんの不適切な関係は別問題」
「別問題にしたい、の間違いでは?」
声がした。
会場の後方から。
美緒里だった。
淡い青のドレス。背筋を伸ばして立っている。
その隣に、沙月。
さらに数人の女性たち。俺が知っている顔。
かつて、Club Perigeeで泣いていた顔。
逃げたいと言えずに笑っていた顔。
俺の前から逃げていったあと、それぞれの場所で生き直していた顔。
その彼女たちが、今、正面から白蝶会の場に立っていた。
「あなた方は」
瑠璃香の目が動く。
美緒里が静かに名乗った。
その名字を聞いた瞬間、会場の空気が変わった。
旧家の娘だった。
俺は知っていたようで、ちゃんとは知らなかった。
美緒里がどんな家の人間か、俺はあえて聞かなかった。
逃げてきた人間に、余計な名前を背負わせたくなかったからだ。
でも今日、彼女は自分から名乗った。
「私は、狗飼錆人の関係者から投資話を持ちかけられ、家名と過去の交友関係を利用されそうになりました」
会場が静まる。
「その時、私を逃がしてくれたのが、架橋纏さんです」
瑠璃香の顔が一瞬固まる。
美緒里は続けた。
「彼は、私の家名を利用しませんでした。口止め料も要求しませんでした。むしろ、二度と同じ男たちに戻らないようにと、逃げ道を作ってくれました」
沙月が一歩前に出る。
「私もです」
彼女も名乗った。
また会場が揺れる。
「私は、狗飼錆人に近い男から、住居と仕事を餌に縛られかけました。恥だから黙っていろと言われました。家には言えないだろうと笑われました」
沙月の声は震えていた。
でも、折れていなかった。
「マトイさんは、私に“恥じゃない、逃げろ”と言いました」
胸が痛くなった。
覚えている。あの夜。
沙月は泣きながら、「私が馬鹿だったんです」と言った。
俺は確かに言った。
馬鹿じゃない。
恥じゃない。
逃げろ。
それだけだ。
ただ、それだけだった。
沙月は続けた。
「だから今、私も言います。玻璃宮さんとマトイさんの関係は、恥ではありません」
会場が、しんとした。
俺は千歳の隣で、息ができなかった。
千歳も、黙っている。
でも、隣にいる彼の気配が少し揺れている。
美緒里が、さらに資料を出した。
「狗飼錆人と、その関連会社が女性たちを利用して資金を動かしていた証拠です。私たちは、すべて実名を出すことはできません。けれど、匿名証言と契約書の写し、送金記録は提出します」
瑠璃香が声を冷やす。
「あなた方は、そのホストに入れ込んだ女性たちではなくて?」
その言葉に、空気が凍った。
ホス狂い。
そう言いたいのだ。
夜職の男に騙された女たち。
そういう枠に押し込めたいのだ。
美緒里は、静かに微笑んだ。
「ええ。私は一時期、彼の客でした」
堂々と認めた。
「でも、彼は私を食い物にしませんでした。私が間違った場所へ落ちる前に、止めてくれました」
沙月も言う。
「夜の店で救われたことを、恥だと思いません」
また。
恥ではない。その言葉が、この会場で繰り返される。
俺たちだけではない。
彼女たちも、自分の過去を恥にしないと言っている。
瑠璃香の顔から、少しずつ余裕が消えていく。
そこへ、別の女性が進み出た。
「私も証言します」
さらに一人。
「私も」
また一人。
彼女たちは次々に、狗飼錆人の手口を語った。
支援者を装った接近。
住居の提供。投資話。紹介料。弱みの利用。
家名への脅し。
そして、それらが白蝶会の社交の場とつながっていたこと。
瑠璃香の周囲にいた何人かの男たちが、露骨に顔色を変え始めた。
斎門も会場にいた。
彼はその様子を見ながら、静かに立ち上がった。
「凍蝶院瑠璃香殿」
瑠璃香が斎門を見る。
「玻璃宮斎門様。あなたまで」
「白蝶リゾート構想について、私は再検討を正式に進める」
会場がざわめく。
「狗飼錆人および、その関連会社が関与した資金設計はすべて凍結。白蝶会経由の後援も、調査完了まで受け入れない」
瑠璃香の顔が白くなる。
「あなた、自分が何を言っているのか分かっているの」
「分かっている」
斎門は言った。
「私は、利用されたまま終わるつもりはない」
その言葉は、以前、新しい部屋で千歳と作った戻り道の先にあるものだった。
斎門は、戻ってきた。
完全ではなくても。今この場では、確かに。
千歳が少しだけ目を伏せる。
俺はその横顔を見た。
彼は何も言わない。
でも、どこか救われたように見えた。
瑠璃香は扇子を握りしめた。
「皆様、冷静になってくださいませ。これは玻璃宮千歳さんと、その男が仕組んだ茶番ですわ。女性たちの証言も、夜の男に惑わされた感傷に過ぎません」
「感傷ではありません」
美緒里が言った。
「証拠です」
沙月が続ける。
「そして、私たちは恥を利用されることに、もう従いません」
別の女性が言った。
「狗飼錆人が逃げ道を焼いたなら、架橋さんは逃げ道を作りました」
さらに別の女性。
「玻璃宮さんは、その逃げ道を守ろうとしてくれています」
「だから、今度は私たちが守ります」
最後の一言で、俺は完全に駄目だった。
目の奥が熱くなる。
やばい。
本当に泣きそうだ。
千歳が、すぐに気づいた。
小さく、俺にだけ聞こえる声で言う。
「纏」
「何」
「呼吸」
「……してる」
「していない」
「今した」
「よろしい」
こんな状況で、少し笑いそうになった。
でも、その笑いが涙を止めた。
美緒里たちの証言は、会場の空気を完全に変えた。
瑠璃香は、狗飼に裏切られた被害者の位置を取ろうとしていた。
だが、女性たちの証言によって、彼女は「知らなかった女」ではなく、「見ないふりをして利用していた女」に変わった。
白蝶会の何人かが、彼女から距離を取り始める。
目に見えるほどに。
古い社交界は残酷だ。
風向きが変わった瞬間、羽の白さを守るために、汚れた蝶を切り捨てる。
瑠璃香はそれを、誰よりも知っているはずだった。
だからこそ、彼女の顔から血の気が引いた。
「瑠璃香様」
白蝶会の重鎮らしき老婦人が言った。
「しばらく、お休みになられては」
それは優しい言葉ではなかった。
追放の宣告に近い。
「白蝶会としても、今回の件は看過できません」
別の男が続ける。
「狗飼錆人氏との関係、資金経路、玻璃宮グループへの働きかけ。すべて調査が必要です」
瑠璃香の手袋が震えていた。
「わたくしを切るのですか」
誰も答えない。
それが答えだった。
「没落した家を、ここまで戻したのはわたくしです。白蝶会に名を戻したのも、玻璃宮に食い込んだのも、全部」
声が荒くなる。
「全部、わたくしが」
千歳が静かに言った。
「そのために、母の場所も、灯庭舎も、人の逃げ道も踏み台にした」
瑠璃香が千歳を見る。
「あなたに何が分かるの」
「分かりません」
千歳の声は冷たかった。
「あなたが何を失い、何を取り戻そうとしたのかは」
瑠璃香の目が揺れる。
「ですが、失ったものを取り戻すために、他人の居場所を燃やしていい理由にはなりません」
余白の部屋。灯庭舎。澪標の丘。
全部が、その言葉に重なる。
瑠璃香は何も言わなかった。
いや、言えなかった。
会場の扉が開く。
白蝶会の係員が、彼女へ近づく。
「凍蝶院様。こちらへ」
瑠璃香は動かなかった。
しばらく、千歳を見ていた。
そして、俺を見た。
「夜の男ごときが」
最後に、そう言った。
俺は逃げなかった。
「その夜の男に、あなたの愛人は負けましたよ」
会場が凍った。
千歳が隣で小さく言う。
「品よく、と言われただろう」
「善処した」
「していない」
「でも殴ってない」
「そこは褒める」
瑠璃香は、唇を噛んだ。
そして、白いドレスの裾を翻し、会場を出ていった。
白蝶会の人間たちは、誰も追わなかった。
凍蝶院瑠璃香は、社交界の中心から落ちた。
狗飼錆人を失い、白蝶会の後ろ盾も失い、玻璃宮グループへの影響力も崩れた。
完全な決着には、まだ法的な手続きと調査が必要だ。
けれど、今この瞬間。
彼女は追放された。
会場の空気が緩んだあと、美緒里が俺のところへ来た。
「マトイくん」
俺は言葉に詰まった。
「……ありがとう」
それしか言えなかった。
美緒里は笑った。
「言うのはこっち」
沙月も来た。
「昔、逃げろって言ってくれてありがとう」
「俺は」
「うん。知ってる。仕事だった部分もあるんでしょ」
沙月は少しだけ笑う。
「でも、それでも助かったのは本当だから」
俺は何も言えなかった。
千歳が隣で静かに立っている。
美緒里は千歳へ向き直った。
「玻璃宮さん」
「はい」
「マトイくんは、軽く見えるけど、逃げ道を作ってくれる人です」
「知っています」
即答だった。
胸が鳴った。
美緒里が少し笑う。
「なら、よかった」
沙月も言う。
「彼を、恥にしないでくれてありがとうございます」
千歳は、少しだけ目を伏せた。
「俺の方こそ」
声が柔らかかった。
「彼に救われました」
俺は息を止めた。
美緒里たちが微笑む。
完全に見られている。
かなり恥ずかしい。
でも、嫌ではない。
恥ではない。本当に。
会場を出る時、斎門が千歳を呼び止めた。
「千歳くん」
「叔父上」
「瑠璃香の件は、私にも責任がある」
千歳は黙っている。
斎門は続けた。
「白蝶リゾート構想の再設計、正式に進めたい。澪標の丘と灯庭舎を含む文化保全型の計画として」
千歳の表情が、少しだけ動いた。
「叔父上が中心で?」
「君が嫌でなければな」
千歳は少し黙った。
それから、静かに答えた。
「嫌ではありません」
斎門は苦笑した。
「相変わらず可愛げがない」
「よく言われます」
「だが、悪くない」
斎門は俺を見た。
「架橋くん」
「はい」
「君にも意見を聞くことになる。灯庭舎の現場を知る者として」
「俺が?」
「そうだ。逃げ道を作るのが得意なのだろう」
俺は少しだけ笑った。
「じゃあ、使ってください」
千歳が横から見る。
「君はすぐ自分を使わせる」
「今回は正式発注だろ」
斎門が少し笑った。
「正式に頼む」
そう言われると、少し胸が熱くなった。
ホストとしてでも、餌としてでも、スキャンダルの男としてでもなく。
灯庭舎を知る人間として。
俺はこの計画に関われる。千歳の隣で。
****
その夜、新しい部屋に戻ると、俺たちはしばらく何も言わなかった。
疲れすぎていた。
でも、重い疲れではなかった。
白いマグと青いマグにコーヒーを入れる。
インスタント。いつもの味。
千歳はソファに座り、白いマグを両手で包んだ。
「助ける?」
俺が聞くと、千歳は首を振った。
「今日は、大丈夫だ」
「本当に?」
「本当に」
「ならよかった」
千歳は少しだけ笑った。
「君は?」
「俺は、ちょっと危ない」
「何が」
「泣きそう」
千歳の目が柔らかくなる。
「触れる?」
「理由は?」
「戻すため」
俺は少し考えて、首を振った。
「今日は言葉で」
「分かった」
千歳は静かに言った。
「君が作った逃げ道は、今日、君の気持ちを守った」
駄目だった。
完全に。
俺は顔を手で覆った。
「千歳」
「何かな」
「言葉で殴るのうますぎる」
「褒めている?」
「全部」
千歳は少しだけ笑った。
でも、その目も少し赤かった。
たぶん、お互い様だ。
メモ帳を開く。
煙の匂いが残るページ。
俺は、いつもよりゆっくり書いた。
ーー
女の子たちが来てくれた。
美緒里さん、沙月、みんなが証言してくれた。
俺が作った逃げ道が、俺たちの気持ちを守りに来た。
瑠璃香、白蝶会から追放。
恥じゃないが、みんなの言葉になった。
ーー
千歳は黙って読んだ。
それから、ペンを取り、その下に書く。
ーー
彼が逃がした人たちが、彼を救った。
彼の気持ちを、俺ごと守った。
ーー
俺はその文字を見て、もう何も言えなかった。
千歳の字は綺麗だった。
でも、少しだけ震えていた。
「危険物ページだな」
俺が言うと、千歳は頷いた。
「かなり」
「でも、これは残す」
「当然だ」
白いマグと青いマグが、テーブルで並んでいる。
蓮太の絵も、壁際で笑っている。
新しい部屋は、まだ完全な余白の部屋ではない。
でも、今日また少し、余白が育った。
「次は」
俺が言うと、千歳が顔を上げる。
「何?」
「終わりが近い気がする」
「そうだな」
「狗飼は?」
「逃げた。だが、もう以前のような力はない」
「瑠璃香は?」
「白蝶会から切られた。玻璃宮への影響力も失った」
「白蝶リゾート構想は?」
「再設計される」
「灯庭舎は?」
「守る」
即答だった。
俺は胸が熱くなった。
「お前さ」
「何かな」
「本当に、守るって言うの似合うよな」
千歳は少しだけ目を伏せた。
「君もだ」
「俺は逃がす方」
「逃がすことも、守ることだ」
まただ。
この男は、すぐ俺の言葉に名前をつける。
そして、俺が自分では認められないものを、静かに肯定する。
「千歳」
「何」
「愛してる」
言ってから、自分で驚くくらい自然だった。
会見の時よりも。
ずっと静かに。ずっと当たり前に。
千歳の動きが止まった。
白いマグを持ったまま、俺を見る。
「……急だな」
「言いたくなった」
「理由は?」
「今日、みんなが来てくれて、俺がやってきたことは無駄じゃなかったって思った」
「うん」
「その隣に、お前がいた」
「うん」
「だから言いたくなった」
千歳は、ゆっくり白いマグを置いた。
「それは、勢いか?」
「違う」
「復讐の熱か?」
「違う」
「逃げか?」
「違う」
「では?」
俺はまっすぐ千歳を見た。
「俺が選んだ言葉」
千歳の目が揺れた。
長い沈黙。
そして、彼は静かに立ち上がった。
俺の前に来る。
近い。
でも、触れない。
「纏」
「何」
「俺も、君を愛している」
息が止まった。
ついに、言った。
玻璃宮千歳が、俺を見て。
誰もいない部屋で。
「君が完璧だからではない」
「またそれ?」
「最後まで言わせろ」
「はい」
「君は間違えた。嘘をついた。格好悪く逃げようとした。怒ると顔が怖いし、字も汚い」
「愛の告白?」
「そうだ」
千歳は、少しだけ笑った。
「でも、君は逃げ道を作る。人を雑に扱わない。俺の弱さを見ても、踏まなかった。俺が壊れそうになった時、止めてくれた」
声が少し震える。
「俺は、君の隣でなら、玻璃宮ではなく千歳でいられる」
胸の奥が壊れそうだった。
「だから、愛している」
静かな告白だった。
でも、今までで一番強かった。
俺は、ゆっくり息を吐いた。
「触れていいか」
千歳の目が揺れる。
「理由は?」
「愛してるから」
千歳は少しだけ笑った。
「それは、保留ではないな」
「許可?」
「まだだ」
俺の心臓が跳ねる。
「まだ?」
「確認する」
千歳は、俺をまっすぐ見た。
「好きだと言えるまでは、勢いでキスしない」
余白の部屋で書いたルール。
その言葉が、今ここで戻ってきた。
俺は喉を鳴らした。
「覚えてたのか」
「忘れるわけがない」
「俺も」
「今は?」
千歳が聞いた。
「勢いか?」
俺は首を振った。
「違う」
「逃げか?」
「違う」
「慰めか?」
「違う」
「では?」
俺は、もう一度言った。
「愛してるから」
千歳の睫毛が、わずかに震えた。
「俺も」
その声は、かすかに甘かった。
「君を愛しているから」
千歳は、俺の手に触れた。
今度は、俺からではなかった。千歳からだった。
白い指が、俺の指先に重なる。
「許可する」
俺は、笑いそうになった。
泣きそうにもなった。
「御曹司様、最後まで許可制」
「契約は大事だ」
「恋愛も?」
「なおさら」
そのやりとりが、あまりにも俺たちらしくて。
ようやく、怖さがほどけた。
俺は千歳の手を握った。
もう片方の手で、彼の頬に触れる。
触れた瞬間、千歳の息が小さく止まった。
近い。
ずっと近づきたかった距離。
でも、ずっと守ってきた距離。
触れない約束。
理由を聞く約束。
勢いでキスしない約束。
その全部を、今、破るのではなく満たして越える。
「千歳」
「何」
「キスする」
「……うん」
千歳は目を閉じなかった。
最後まで俺を見ていた。
俺も目を逸らさなかった。
そして、ゆっくり
唇を重ねた。
最初は、ただ触れるだけだった。
本当に、ただそれだけ。
なのに、その瞬間、胸の奥で何かが外れた。
ずっと打ち込まれていた楔が、音もなく抜けるみたいに。
触れてはいけない。
まだ早い。
勢いにするな。
逃げにするな。
慰めにするな。
そうやって何度も何度も自分に言い聞かせてきたものが、千歳の唇の温度ひとつで、全部ほどけていく。
「……っ」
千歳の指が、俺の袖を掴んだ。
強く。いつもの確認みたいに。
でも、違う。
今日は、ここにいるかを確かめるためじゃない。
離れるな、と言っている指だった。
俺は一度、唇を離そうとした。
このくらいでいい。
最初だから。大事だから。
丁寧に終わらせた方がいい。
そう思った。
けれど、離れきる前に、千歳が俺を引き止めた。
「……まだ」
声が、ひどく小さかった。
でも、逃げていなかった。
「千歳?」
「今さら、そんな綺麗に終わらせるな」
心臓が、強く鳴った。
千歳の目が揺れている。
頬が赤い。
息も乱れている。
それでも、彼は俺を見ていた。
「俺も」
千歳は、俺の袖を掴んだまま言った。
「俺も、ずっと我慢していた」
その一言で、駄目だった。
俺の中に残っていた最後の理性が、甘く折れた。
「……千歳」
「理由は、もう言った」
千歳の声が震える。
「君を愛しているからだ」
今度は、俺から距離を詰めた。
さっきより深く。
でも、乱暴にはしなかった。
乱暴にしたくなかった。
大事にしたい。
でも、もう抑えきれない。
その矛盾ごと、千歳へ渡すみたいに唇を重ねた。
千歳が、息を呑む。
俺の手を握る力が強くなる。
触れた唇が、さっきより熱い。
一度知ってしまった距離を、身体がもう忘れられない。
好きだと思った。
愛していると思った。
守りたいと思った。
逃がしたくないと思った。
その全部が、言葉になる前に溢れて、キスに変わっていく。
白いマグも、青いマグも。
蓮太の絵も。
煙の匂いの残るメモ帳も。
全部が遠くなる。
ただ、千歳がいる。
俺の袖を掴んで、俺を求め返している千歳がいる。
唇が離れた時、二人とも少し息が乱れていた。
千歳は目を伏せた。
でも、手は離さなかった。
俺も、手を離せなかった。
「……今のは」
「うん」
「少し、予定外だった」
「俺も」
「だが」
千歳は、赤い顔のまま俺を見た。
「嫌ではない」
俺は笑いそうになって、でも胸が苦しすぎて笑えなかった。
「高評価?」
「……かなり」
「最高評価は?」
千歳は俺の袖をまだ掴んだまま、小さく言った。
「もう一度、確認してからだ」
終わった。完全に。
「千歳」
「何」
「それ、自分で言う?」
「言った」
「御曹司様、強すぎる」
「今は、御曹司ではない」
千歳は、少しだけ目を細めた。
「君の恋人だ」
胸が撃ち抜かれた。
完全に。
「……今、訂正した?」
「した」
「まだ恋人ではない共犯者から?」
「訂正する、と言っただろう」
「ここで?」
「今が使いどころだ」
俺は顔を覆いそうになった。
でも、手を離したくなかった。
千歳も離さなかった。
「恋人」
俺が呟くと、千歳の耳がさらに赤くなった。
「復唱するな」
「恋人か」
「するなと言っている」
「千歳が俺の恋人」
「纏」
声が低い。
でも、怒っていない。
照れているだけだ。
俺は笑った。
かなり幸せだった。
泣きそうなくらい。
「じゃあ、確認する?」
言ってから、自分で心臓が跳ねた。
千歳の目も揺れた。
「何を」
「最高評価」
千歳は一瞬黙った。
それから、俺の袖を握ったまま、ほんの少しだけ俺に近づいた。
「……する」
その返事が、あまりに小さくて、甘くて。
俺はもう一度、千歳にキスをした。
三度目のキスは、さっきより少しだけ落ち着いていた。
けれど、熱は残っていた。
抑え込んできたものがまだ胸の奥で揺れている。
千歳も同じらしく、唇が触れるたびに指先が少し震えた。
それでも、今度は焦らなかった。
逃げなかった。
愛しているから。
恋人になったから。
そして、もう我慢だけで自分たちを守らなくていいから。
唇が離れると、千歳は額を俺の肩に軽く預けた。
「……少し、疲れた」
「キスで?」
「今日一日だ」
「だよな」
「だが」
「うん」
「悪くない」
俺は笑った。
「最高評価?」
千歳は俺の肩に額を預けたまま、低く言った。
「かなり近い」
「まだ近いのかよ」
「伸びしろだ」
「御曹司様、採点厳しい」
「恋人なので」
「便利に使うな」
千歳が小さく笑った。
その笑いが、新しい部屋の壁に染みていく気がした。
余白が、また育った。
かなり大きく。
けれど、俺たちは抱きしめ合わなかった。
強い正面ハグに逃げたら、たぶんまた熱が上がる。
今は、キスの余韻を壊したくなかった。
俺は千歳の手を取った。
指を絡めるのではなく、手のひらを重ねる。
熱を逃がすみたいに。
でも、離れないように。
「確かめていいか」
俺が言うと、千歳は額を俺の肩に預けたまま、小さく答えた。
「許可する」
「ここにいる?」
「いる」
「俺もいる」
「知っている」
千歳の手は少し熱かった。
最初に握手した時の、冷たい指先が嘘みたいだった。
出会いのあの一瞬の熱が、今ここで全部戻ってきた気がした。
「手、温かいな」
俺が言うと、千歳が少し顔を上げる。
「君の影響だ」
「俺?」
「君の手は、いつも温かい」
それは、ずっと前に千歳が言った言葉だった。
俺は胸がいっぱいになって、何も言えなくなった。
しばらくして、千歳が顔を上げた。
「メモ帳に」
「書くのか?」
「当然だ」
「危険物どころじゃないぞ」
「残す」
「初キス記録?」
千歳の耳が真っ赤になる。
「君はなぜ、そういう言い方を」
「事実だろ」
「事実が一番刺さると言ったのは君だ」
「言ったけど」
千歳はメモ帳を開いた。
煙の匂いが残る、安いメモ帳。
俺はペンを取った。
手が震えていた
でも、怖くなかった。
ーー
俺、千歳に愛してると言った。
千歳、俺を愛してると言った。
理由:選んだから。
初めてキスした。理由:愛してるから。
好きだと言えるまでは、勢いでキスしない、守った。
千歳も、ずっと我慢していた。
袖を掴まれた。離れるな、だった。たぶん。いや、絶対。
恋人に訂正。
キス後、手を重ねて落ち着いた。落ち着いたかは怪しい。
ーー
千歳が横から読んだ。
「落ち着いたかは怪しい、は不要だ」
「必要だろ」
「本当の記録としては否定できない」
「否定できないのかよ」
千歳はペンを受け取り、その下に書いた。
ーー
許可:キス。理由:互いに愛しているから。
関係:恋人に訂正。
備考:予定外に熱が入った。だが、嫌ではない。
追加:手の温度は、初めて会った日から変わらず危険。
ーー
俺は、その文字を見て完全に固まった。
「備考」
「何だ」
「備考が強すぎる」
「本当の記録だろう」
「契約書みたいなのに甘すぎる」
「契約は大事だ」
「恋愛も?」
「なおさら」
俺は笑った。
千歳も笑った。
そして、白いマグと青いマグの間に、メモ帳を置いた。
危険物ページ。
過去最大。
いや、これからもっと増えるのかもしれない。
そう思えることが、幸せだった。
その時、千歳の端末が震えた。
画面を見た千歳の表情が、少し変わる。
「誰?」
俺が聞くと、千歳は画面を見たまま言った。
「父からだ」
玻璃宮玄理。
海外で活躍中の財閥総帥。
千歳の父。ここまで、ずっと不在だった男。
そして、たぶん。裏で何かを見ていた男。
メッセージは短かった。
『よくやった。次は、私の番かな』
俺と千歳は、同時に画面を見た。
「……お父さん?」
「父だな」
「軽くない?」
「昔から少し腹立たしい人だ」
千歳は眉を寄せていた。
でも、その声は思ったより固くなかった。
もう一通届く。
『澪標の丘で待つ。二人で来なさい』
千歳は、しばらく画面を見ていた。
俺も黙っていた。
次は、父親。
隠れていた支援者。
すべてを知っていたかもしれない男。
千歳が、ゆっくり息を吐いた。
「……本当に、腹立たしい」
「行く?」
「行く」
「二人で?」
千歳は俺を見る。
もう迷いはなかった。
「二人で」
俺は頷いた。
「じゃあ、手つないで行くか」
千歳の耳が赤くなる。
「調子に乗るな」
「恋人なので」
千歳が固まった。
完全に固まった。
「……君」
「何」
「覚えたての言葉を、便利に使うな」
「お前が夫なのでって使う未来が見えたから、先に練習」
「未来を勝手に見るな」
「見たいからな」
千歳は、呆れたように笑った。
その笑顔は、もう少しだけ柔らかかった。
女たちが、俺たちの気持ちを守ってくれた日。
俺たちは、ようやく互いに愛を告げた。
そして、初めてキスをした。
触れない約束を破ったのではなく。
愛しているから、越えた。
これまで抑えてきた楔が外れて、思いが溢れた。
それでも、怖くなかった。
千歳も同じだけ我慢していたと知ったから。
俺だけが落ちていたんじゃない。
俺だけが欲しがっていたんじゃない。
二人とも、ずっとここへ来たかった。
それは、俺たちらしい初キスだった。
ぎこちなくて。
確認だらけで。少し契約書みたいで。
途中からどうしようもなく熱くて。
それでも、ちゃんと愛だった。
そして次に待つのは、玻璃宮玄理。
父親。
隠れた支援者。
たぶん、最後にして最大に面倒くさい男。
物語は、終わりへ近づいている。
でもその前に、千歳が、父と向き合う番だった。
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