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■第1話「女だったらモテそう、って何だよ」
俺、朝比奈湊は、たぶん人生で一万回くらい「可愛い」と言われている。幼稚園の頃は「お人形さんみたいね」で、小学校では「女の子に間違えちゃった」と笑われた。
中学では「湊って男子校にいたら姫扱いされそう」と言われ、高校に入ってからは「朝比奈って女子の制服似合いそうだよな」が、なぜか冗談として成立するようになった。
別に、可愛いと言われること自体が全部嫌だったわけじゃない。母さんが新しい服を見て「似合ってる」と笑うのは嫌じゃなかった。
祖母が英語混じりに「You are pretty」と言うのも、家族の甘やかしとして受け取れた。問題は、そういう言葉のあとに、だいたい余計なものがくっついてくることだった。
「朝比奈って、女子より肌きれいじゃない?」
「分かる。手も小さいし、声も柔らかいし」
「というか、朝比奈は男子枠じゃなくて可愛い枠だよな」
教室の窓際で、誰かがそう言った。俺は、いつも通り笑った。
「勝手に妙な枠を作るな。俺を収納するな」
そう返すと、周囲が笑った。俺も笑った。
こういう時、笑っておいた方が早く終わる。真顔になると「え、怒った?」と聞かれるし、怒ったら怒ったで「褒めてるのに」と言われる。
だから、笑う。少し口を悪くして、ツッコミに変えて、傷ついていないふりをする。
それが一番、面倒が少ない。でも、笑うたびに、胸の中で薄い紙みたいなものが一枚ずつ積もっていく気がした。
可愛い。女子より。女の子みたい。
そう言われるたびに、俺は少しずつ、朝比奈湊という男から横にずらされていく。
俺は男だ。男子の制服を着て、男子として学校に通っている。なのに、みんなの言葉の中では、俺はいつも半歩だけ別の場所に置かれる。
その半歩が、地味に痛い。
「湊、また赤くなってる」
隣の席から、桐生朔がさらっと言った。
桐生朔。
成績優秀で、顔もよくて、教師からの信頼も厚い。性格だけが少しどころかかなり面倒で、何かにつけて一言多い男である。
「赤くなってない。人の顔を観察するな」
「してない。目に入っただけ」
「それを観察って言うんだよ、ばか」
言い返すと、朔はふっと口の端を上げた。余裕ぶった顔が腹立つ。
あと、俺が怒ると少し楽しそうなのも腹立つ。俺がシャーペンを取ろうとして机の端に手を伸ばすと、朔の視線が指先に落ちた。
「手、ちっさ」
「うるさい。お前の手が無駄にでかいだけだろ」
「無駄ではないけど」
「そこで否定の仕方を間違えるな」
俺は手を引っ込めた。朔は何か言いかけて、少しだけ黙った。
本当は、朔のその沈黙も嫌だった。からかうなら最後までからかえばいい。
途中で妙な顔をするから、こっちだけが変に意識してしまう。
「小さいとか言うな。普通に腹立つ」
「……悪い」
朔は短く言った。その謝り方が素直すぎて、俺は逆に返事に困った。
「いや、別に。怒ってないけど」
「怒ってるだろ」
「怒ってない。ちょっとだけ殺意が湧いただけ」
「それを怒ってるって言うんだよ」
朔は少し笑った。俺も笑った。
笑ったから、この話は終わり。終わりにしたことにした。
****
昼休み、俺は購買で買った焼きそばパンを開けた。うちの学校の焼きそばパンは、パンより焼きそばの主張が強い。
油断すると、ひと口目でソースが指につく。
「湊、食い方が子どもっぽい」
目の前に座った瀬名陽斗が、楽しそうに笑った。
瀬名陽斗。
明るくて、距離が近くて、誰とでもすぐ仲良くなる。犬っぽいと言われるタイプだが、本人に言うと「犬って褒め言葉?」と本気で聞いてくるので面倒くさい。
「食べてる人間に話しかけるな。事故るだろ」
「いや、今の顔おもしろかったから」
「俺はお前を楽しませるために昼飯を食ってるんじゃない」
「でも湊がいると昼休み楽しいよ」
そういうことを、陽斗は何も考えずに言う。何も考えずに言うから、こっちが一瞬だけ返事に詰まる。
詰まった自分が悔しくて、俺は焼きそばパンを少し乱暴にかじった。
「名前呼ぶなって言っただろ」
「え、なんで? 湊は湊じゃん」
「距離が近いんだよ、お前は全体的に」
「全体的にって何。俺の存在そのものが近いってこと?」
「理解が早くて助かる。三メートル離れろ」
「遠い。俺、そんなに離れたら寂しい」
陽斗は机に頬杖をついて、俺の顔をのぞき込んできた。近い。
本当に近い。近いと言われているのに近づいてくるあたり、こいつの耳は飾りかもしれない。
俺が少し身を引くと、陽斗は一瞬だけ目を細めた。それから、すぐいつもの顔で笑った。
「湊ってさ、女子より可愛い時あるよな」
その言葉に、焼きそばパンの味が少しだけ薄くなった。教室のざわめきは変わらない。
誰かが笑って、誰かがスマホを見て、誰かが先生の悪口を言っている。俺だけが、ほんの少し遅れて呼吸した。
「……お前、そういうこと普通に言うよな」
「え、だめだった?」
「だめっていうか、普通にうざい」
「ごめん。でも悪口じゃないよ」
それが、たぶん一番困る。悪口だったら怒れる。
明確に悪意があれば、こっちもちゃんと傷ついた顔ができる。でも「悪口じゃない」と言われると、俺の傷つき方だけが大げさみたいになる。
俺は笑った。
「はいはい、どうも。可愛い可愛い」
「それ、投げやりすぎない?」
「ありがたく拝聴しましたって顔だろ」
「全然ありがたくなさそう」
陽斗は笑っていた。俺も笑っていた。
でも、胸の奥に小さな紙片みたいなものが貼りついた。剥がそうとすると、皮膚ごとめくれそうな、妙に痛い紙片だった。
****
放課後、掃除当番でゴミ袋を持って廊下に出ると、階段の踊り場に神崎凪が立っていた。
神崎凪は、いつも静かだ。
必要なこと以外ほとんど話さないくせに、気づいたら近くにいる。影が薄いわけじゃない。
むしろ、黙っているのに存在感があるから怖い。
「朝比奈」
「……何。ゴミ捨てなら手伝わなくていいぞ」
「声、小さいね」
「第一声がそれなの、普通に失礼じゃないか?」
凪は表情を変えずに俺を見た。目が合うと、なぜか逃げ道を探したくなる。
怒っているわけでも笑っているわけでもないのに、こちらの心臓の動きまで見られている感じがする。
「さっき、教室で返事した時」
「いつの話をしてるんだよ」
「少し震えてた」
「してない。お前の耳がよすぎるだけ」
「泣きそうな顔してた」
その言葉で、足が止まった。泣きそう。
そう言われるのは、可愛いと言われるのと同じくらい嫌いだった。俺は泣いていない。
泣くほど弱くない。泣きそうだと決めつけられると、それだけで本当に目の奥が熱くなるから嫌だった。
「してないし。勝手に人の顔を読むな」
「読まれたくないなら、もう少し隠した方がいい」
「お前、本当に性格悪いな」
「そうかも」
「否定しろよ。そこは否定するところだろ」
俺はゴミ袋を持ち直して、凪の横を通り過ぎようとした。その時、ふっと凪がこちらに視線を落とした。
「女みたいな匂いがする」
息が止まった。たぶん、柔軟剤の匂いとか、シャンプーの匂いとか、そういう意味だったのかもしれない。
凪の声に悪意はなかった。むしろ、ただ事実を言ったみたいに淡々としていた。
だからこそ、きつかった。
「……気持ち悪いこと言うな」
「ごめん」
凪はすぐ謝った。その早さも、逆に俺を困らせた。
怒るタイミングを失った俺は、ゴミ袋を抱えたまま階段を下りた。踊り場を曲がる直前、背中に凪の声が落ちてきた。
「嫌なら、もう言わない」
振り返らなかった。そういうことじゃない。
そういうことじゃないのに、言葉にできなかった。
****
翌日の昼休み、決定打は唐突に来た。きっかけは、クラスメイトの女子が男子の誰がモテるかという、ものすごく平和でどうでもいい話をしていたことだった。
「桐生くんは普通にモテるよね。顔がいいし、成績いいし」
「瀬名くんもモテるよ。距離近いけど、あれ好きな子は好きでしょ」
「神崎くんは怖いけど、刺さる人には刺さりそう」
「朝比奈くんは?」
その瞬間、なぜか数人の視線が俺に向いた。やめろ。
こっちを見るな。俺はメロンパンと戦っている最中だ。
「朝比奈は女子枠じゃね?」
誰かが冗談っぽく言った。笑い声が上がった。
俺も一応、口の端を上げた。ここで真顔になると面倒くさい。
そう判断した時点で、俺はたぶん負けていた。
「おい、俺を勝手に女子枠に入れるな」
「だって朝比奈くん、肌白いし目も大きいし」
「声も柔らかいよね」
「写真だけ見たら女の子って言われても信じるかも」
「文化祭で女装したら、普通に優勝しそう」
「いや、朝比奈なら女子制服いけるでしょ」
冗談。軽口。悪意なし。
そういうラベルを貼れば、たぶん何でも軽くなる。貼られた側の中身が、どれだけ重くなっても関係ない。
「優勝とかいらない。俺を勝手に校内イベントに出場させるな」
そう返すと、また笑いが起きた。笑えた。
笑えてしまった。俺は自分のそういうところが、少し嫌いだった。
嫌なら嫌と言えばいいのに、空気を壊すのが面倒で、結局ツッコミに変えてしまう。その時、陽斗が俺の隣で、何気なく笑った。
「湊って、女だったら絶対モテるよな」
教室の空気が、そこで一瞬だけ遠くなった。女だったら。
その言葉が、やけに残った。俺は男なのに。
俺のままじゃ、だめみたいに聞こえた。
「……女だったらって何だよ」
自分でも驚くくらい、声が小さかった。陽斗がこちらを見た。
「え?」
「いや、なんでもない。今の発言、普通に減点な」
「ごめん、なんか怒った?」
「怒ってない。お前の国語力に絶望しただけ」
俺は笑った。笑うしかなかった。
朔が少しだけ眉を寄せた気がした。凪がこちらを見ていた気がした。
陽斗が何か言いかけた気がした。でも、俺は見なかった。
見たら、何かが顔に出そうだった。
****
放課後、俺は職員室横の進路相談室に逃げ込んだ。正確には、逃げ込んだというより、従姉妹の朝比奈澪に呼び出された。
澪はこの学校の教師で、俺にとっては従姉妹で、母さんにとっては「湊が変な方向に行きそうなら止めてね」と言われている監視役でもある。
つまり、かなり迷惑な身内だ。
「で、何があったの。顔がメロンパンに負けた人みたいになってる」
「そのたとえ、教師としてどうなんだよ」
「教師としてじゃなくて従姉妹として言ってるからセーフ」
「アウトだろ」
澪は机に肘をつき、俺の顔をまっすぐ見た。茶化すような口調のくせに、見る時はちゃんと見る。
それが昔から少し苦手だった。
「また可愛いって言われた?」
「またって言うな。常習被害者みたいにするな」
「常習被害者でしょ。で、今回は誰?」
「別に、誰とかじゃない」
「朔くん? 陽斗くん? 凪くん?」
「なんで三択が的確なんだよ」
俺が目をそらすと、澪は「あー」と妙に納得した声を出した。
「全員か」
「違う。いや、違わないけど、そういう話でもない」
「なるほど。面倒な年頃の男子たちが、好きな子への接し方を盛大に間違えているわけね」
「好きな子とか言うな。気持ち悪い」
「じゃあ、気になる子」
「もっと嫌だ」
澪は笑った。俺は笑えなかった。
進路相談室の窓から、校庭が見えた。部活の声が遠くで響いている。
普通の高校生活の音だ。俺もその中にいるはずなのに、たまに自分だけ透明な箱に入れられている気がする。
「湊はさ、可愛いって言われるのが嫌なの?」
澪の声が、少しだけ真面目になった。俺はすぐ答えられなかった。
「……可愛いって言われるのが、全部嫌なわけじゃない」
「うん」
「でも、女みたいとか、女子よりとか、女だったらとか言われると、俺が俺じゃないものにされる感じがする」
口に出した途端、思ったより胸が痛くなった。俺はそんなに傷ついていたのか、と自分で少し引いた。
もっと笑って流せると思っていた。実際、ずっと流してきた。
「俺は男だし。別に、背が低いとか、手が小さいとか、声が柔らかいとか、そういうのは事実かもしれないけど」
「うん」
「でも、それで俺が男じゃないみたいに言われるのは、違うだろ」
澪は茶化さなかった。それが逆に、ちょっとだけ泣きそうになるから困った。
俺は泣きそうな顔を見られたくなくて、机の端に置かれたボールペンを意味もなく転がした。
「今日、言われたんだよ。女だったら絶対モテるって」
「それは刺さるね」
「刺さるっていうか、普通に腹立った」
「腹立ったんだ」
「腹立った。めちゃくちゃ腹立った」
言ったら、少しだけ呼吸が楽になった。俺は椅子の背もたれに体重を預けた。
天井の白い蛍光灯が、やけに平然と光っていた。
「そんなに女みたいって言うならさ」
「うん」
「いっそ女になって騙してやりたい」
澪の目が、ぴくっと動いた。俺はその反応に気づかず、言葉を続けた。
「あいつらが女の子だと思って、ちょっとでも意識したところで、残念でした男ですって言ってやりたい。しかも朝比奈湊でしたって言って、ざまぁみろって」
「それ、かなり性格悪いね」
「知ってる。だから言ってるだけだよ」
「本当にやる?」
「……は?」
澪は、にっこり笑った。その笑顔を見た瞬間、俺は本能的にまずいと思った。
澪がこういう笑い方をする時は、だいたい話が変な方向へ飛ぶ。
「あたしに任せなさい」
「待て。何を任せろって言った?」
「制服、設定、転入手続きっぽいもの、教室への導入、全部こっちで整える」
「怖い怖い怖い。教師が言っていい台詞じゃない」
「細かいことはギャグで処理するから大丈夫」
「何が大丈夫なんだよ。現実にギャグ処理を持ち込むな」
澪は机の引き出しから、なぜか新品のノートを一冊取り出した。表紙はシンプルな黒で、やけに本格的だった。
「まずは作戦名を決めましょう」
「決めない。やらない。俺は何も言ってない」
「ミナ計画」
「勝手に決めるな」
「名前はミナ・クロフォード。湊と音が近いし、クロフォードはおばあちゃんの旧姓だから、完全な嘘でもない」
「待て待て待て。なんでそんな具体的なんだよ」
「湊がいつか爆発すると思って、三パターンくらい考えてた」
「身内に一番やばい奴がいた」
俺は頭を抱えた。普通なら、ここで全力で拒否するべきだった。
いや、普通じゃなくても拒否するべきだった。女装して交換留学生として学校に潜入するなんて、冷静に考えなくても意味が分からない。
でも、胸の奥に残っている「女だったら」という言葉が、まだ熱かった。女だったら。
そんなに女みたいって言うなら。その“女みたい”で、お前らを負かしてやる。
俺は顔を上げた。
「……仮に、仮にだぞ」
「うん」
「やるとして、絶対バレないのか」
澪の笑顔が深くなった。
「その確認をした時点で、湊はもう半分やる気だよ」
「うるさい。確認しただけだ」
「大丈夫。クラスは雑に受け入れるから」
「そこに一番大きな不安があるんだけど」
澪はノートの一ページ目を開いた。そして、黒いペンで大きく書いた。
――ミナ計画ノート。
「やめろ。タイトルからして終わってる」
「今日の成果、今日の反省、今日の勝敗、陥落度。項目はこの辺かな」
「陥落度って何だよ。俺は恋愛ゲームを始めるのか」
「復讐でしょ?」
「そうだけど、そういう単語にすると急に俺が残念な奴みたいになる」
「大丈夫。今もだいぶ残念だから」
「従姉妹じゃなかったら訴えてる」
俺は文句を言いながら、ノートを見た。白い紙面に、黒い文字が並んでいる。
ミナ計画。ふざけている。
めちゃくちゃふざけている。なのに、その文字を見ていると、腹の奥でくすぶっていた悔しさが、少しずつ形を持ちはじめた。
笑って流していた言葉。刺さっても、平気なふりをした言葉。
可愛い。女の子みたい。女子より。女だったら。
全部、俺の中に残っていた。
「……やるなら、ちゃんと勝つからな」
小さく言うと、澪が笑った。
「いい顔。復讐向いてなさそうだけど」
「向いてる。たぶん」
「たぶんって言っちゃうあたりが、すでに向いてない」
「うるさい、まずは作戦を立てるんだよ」
俺はペンを取った。そして、ノートの一ページ目に、自分の字で書き込んだ。
今日の成果。
俺は、女みたいと言われたことに、ちゃんと腹を立てた。
今日の反省。
笑って流したのは、ちょっと負けた気がする。
今日の勝敗。
たぶん負け。
でも、次は勝つ。
最後に、俺は少し迷ってから、もう一行だけ書き足した。
復讐対象。
桐生朔。
瀬名陽斗。
神崎凪。
書いた瞬間、なぜか三人の顔が浮かんだ。朔の余裕ぶった顔。陽斗の距離の近い笑顔。凪の何もかも見透かすような目。
胸が少し変な音を立てた気がして、俺は慌ててノートを閉じた。
「どうしたの、湊」
「なんでもない。復讐前に気合い入れただけ」
「顔赤いけど」
「赤くない。照明が悪い」
澪はにやにやしていた。俺はその顔を見ないように、ノートを鞄に突っ込んだ。
俺は男だ。朝比奈湊だ。
女みたいだと笑われるなら、その言葉ごと使ってやる。絶対に騙して、絶対に後悔させて、最後に言ってやる。
残念だったな。お前らが好きになったのは、女の子じゃない。
俺だよ、朝比奈湊だ。そう決めた瞬間だけは、少しだけ胸がすっとした。
ただ、その時の俺はまだ知らなかった。復讐というものは、相手が罠にかかって初めて成立する。
そして、罠にかけるつもりの相手が、最初から自分で中に入る気満々だった場合。
仕掛けた側が、一番ひどい目に遭うのだ。
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