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■第2話「ミナ・クロフォード、転入します」

朝比奈湊として生きてきて、十六年と少し。その中で俺は、何度か「人生終わった」と思ったことがある。 小学校の運動会で女子の列に間違えて並ばされた時。中学の文化祭で、クラス投票により勝手にメイド役にされかけた時。高校に入ってから、瀬名陽斗に「湊って女子より可愛い時あるよな」と悪意ゼロで言われた時。 だが、今朝のこれは、そのどれとも違った。 鏡の中に、知らない女子がいた。 「……誰だよ」 自分で言って、自分で傷ついた。いや、俺だ。どう見ても俺だ。 顔の造形は朝比奈湊だし、目の下に昨日寝不足でできた薄い影も、朝の牛乳を飲み忘れたせいで少し機嫌が悪い感じも、全部俺だ。 ただ、制服が違う。男子制服ではなく、女子制服だった。 白いブラウス。薄いリボン。チェックのスカート。肩にかかる程度に整えられたウィッグ。 いつもより少しだけ柔らかく見える髪色。澪が昨日の夜、やけに楽しそうに持ってきた一式である。 「湊、もうちょっと背筋伸ばして。あと、表情が復讐者じゃなくて迷子」 「迷子にもなるだろ、こんなの」 背後で澪がスマホを構えている。撮るな。今すぐ消せ。従姉妹だからって、許されることと許されないことがある。 「大丈夫。似合ってる」 「そこが一番嫌なんだよ」 「似合わない方がよかった?」 「それはそれで腹立つ」 「面倒くさいなあ、可愛い系男子は」 「今すぐその単語を撤回しろ」 澪は悪びれずに笑った。この人は教師である前に、俺の従姉妹で、従姉妹である前に、たぶん人の人生を面白がるタイプの大人だ。 絶対に進路指導を任せてはいけない。俺はもう一度、鏡を見た。 ミナ・クロフォード。 昨日、澪が勝手に名付けた、俺の復讐用の別人。 海外育ちの交換留学生。祖母の旧姓がクロフォードだから完全な嘘ではない。名前のミナは、湊と音が近いから自然。 英語ができるのも、俺がクオーターで祖母から教わっていたという裏設定があるから問題ない。問題ない、らしい。 いや、問題しかない。 「本当にバレないのかよ」 「一般生徒にはたぶんバレない」 「一般生徒には?」 俺が振り返ると、澪はすっと目をそらした。 「大事なのは勢いだから」 「今、不安になること言ったよな」 「湊、こういうのは堂々としてる方がバレないの。私はミナ・クロフォードです、文句ある? くらいの顔で行きなさい」 「そんなメンタルがあるなら、最初から傷ついてない」 澪は少しだけ黙った。その沈黙が、昨日の相談室を思い出させた。 女だったら絶対モテるよな。 あの言葉は、まだ胸の中に残っている。寝たら少しは薄くなるかと思ったけど、全然だった。 むしろ朝になって、女子制服を着た自分を見たせいで、余計にくっきりした。俺は男だ。 それなのに、女だったらと言われた。なら、その“女だったら”を使ってやる。 俺は鞄から黒いノートを取り出した。表紙には、澪の字で「ミナ計画ノート」と書かれている。 見るたびに冷静さを失いそうになるが、今の俺には必要なものだった。俺は一ページ目の続きを開いた。 今日の目標。 三人に、ミナ・クロフォードを女の子として認識させる。 今日の注意点。 朝比奈湊の癖を出さない。 特に、怒る時にすぐ「うるさい」と言わない。 今日の勝敗。 勝つ予定。 書いてから、少しだけ心が落ち着いた。文字にすると、作戦っぽくなる。 作戦っぽくなると、自分がとんでもないことをしようとしている事実が、少しだけ薄まる。 「よし」 「いい顔になったね」 「復讐者の顔?」 「いや、初めてのおつかいに行く子の顔」 「ふざけんな」 反射で言ってしまってから、俺はハッとした。澪がにやりと笑う。 「はい、ミナちゃん。今のアウト。女子留学生は『ふざけんな』って言わない」 「ミナちゃんって呼ぶな。あと、海外育ちなら言うかもしれないだろ」 「言うとしても、今の湊の言い方は完全に朝比奈湊」 くそ。俺は唇を結んだ。 朝比奈湊の癖を出さない。これが一番難しいかもしれない。 顔を変えるより、制服を変えるより、口の悪さを隠す方がずっと難しい。 澪は俺の肩に軽く手を置いた。 「大丈夫。失敗しても、あたしが適当にごまかす」 「教師の言葉として最低だな」 「従姉妹としては最高でしょ」 「……まあ、ちょっとだけ」 小さく言ったら、澪が満足そうに笑った。俺はスカートの裾を見下ろした。 膝のあたりが妙に心もとない。男子制服のズボンが、どれだけ偉大な布だったか初めて知った。 風が吹いたら終わる。階段でも終わる。走っても終わる。女子は毎日こんな危険物を着て生きているのか。尊敬する。 だが、今は怖がっている場合じゃない。俺は今日、ミナ・クロフォードになる。 そして、あいつらを騙す。桐生朔。瀬名陽斗。神崎凪。 絶対に、俺を女の子だと思わせてやる。 **** 学校に着くまでの道のりは、思ったより長かった。いつもの通学路なのに、景色が違って見える。 駅前のガラスに映る自分を見て、何度も心臓が跳ねた。男子生徒とすれ違うたびに、見られている気がして肩が固まる。 でも実際には、誰もそこまで見ていなかった。世界は意外と他人に興味がない。 それはそれで助かったが、少しだけ腹も立った。こっちは人生をかけた復讐を始めているのに、パン屋のおじさんは普通に「おはよう」と言ったし、駅前の自販機はいつも通り光っていた。 学校の正門が見えた瞬間、足が止まりかけた。ここから先は、もう朝比奈湊ではいられない。 いや、いるけど。中身は完全に俺だけど。 俺は深呼吸をした。 「私はミナ・クロフォード。私はミナ・クロフォード。私はミナ・クロフォード」 小声で唱えながら歩いていると、背後から女子の声がした。 「あれ、新しい子?」 「交換留学生じゃない? 今日来るって聞いた」 「可愛い。髪さらさら」 背中がぞわっとした。可愛い。 またその言葉だ。でも、今日は違う。今日は朝比奈湊として言われたわけじゃない。 ミナ・クロフォードとして言われている。だから痛くない。痛くないはずだ。 俺はゆっくり振り返って、澪に教えられた通り、少しだけ柔らかく笑った。 「Good morning. 今日から、お世話になります」 女子たちが一瞬固まって、それからぱっと顔を明るくした。 「え、英語きれい」 「日本語も話せるんだ?」 「うん。少しだけ」 嘘だ。少しどころか、俺は日本語しか使わない日常の方が長い。 だが、ここでぺらぺら話すと逆に怪しい。澪からも「日本語が上手すぎる留学生は、だいたい設定が死ぬ」と言われている。 「職員室、どこですか?」 「あ、案内するよ」 「ありがとう」 俺は内心でガッツポーズをした。いける。思ったよりいける。 一般生徒は、ミナ・クロフォードを受け入れている。というか、雑に受け入れている。澪の言った通りだった。 人間は制服と紹介文があれば、だいたい納得する生き物らしい。 **** 職員室に向かう途中、廊下の角で男子生徒とすれ違った。桐生朔だった。 心臓が、変な跳ね方をした。朔は教材らしきプリントの束を持っていた。 いつものように、きっちりした制服姿。髪も乱れていない。表情も落ち着いている。 俺は反射的に目をそらしそうになり、慌てて堪えた。朝比奈湊なら目をそらす。 ミナ・クロフォードは、たぶんそらさない。 「……」 朔の視線が、俺に落ちた。目が合う。 ほんの一秒。いや、二秒。 長い。長すぎる。 俺は覚えたての笑顔を貼りつけた。 「Good morning」 朔は黙ったまま、俺を見た。その視線が、顔から髪、制服、手元、足元へと移動する。 品定めみたいで腹が立つ。いや、違う。これは観察だ。 こいつは昔からそうだ。人の赤面にも手の大きさにも気づく、最悪に目ざとい男。 俺は指先に力を入れた。駄目だ。朝比奈湊の癖を出すな。 朔は少しだけ目を細めた。 「……おはよう」 低い声だった。それだけ言って、朔は俺の横を通り過ぎた。 バレてない。たぶん。 たぶんバレてない。 俺は胸を押さえた。しかし、すれ違った直後、背中に朔の視線が残っている気がした。 振り返りたい。でも振り返ったら負けだ。ミナは転入初日の留学生で、桐生朔を知っているはずがない。 俺は前を向いたまま歩いた。 **** 職員室に入ると、澪が待っていた。 「ミナ・クロフォードさんですね。こちらへどうぞ」 教師の顔をしている。昨日「細かいことはギャグで処理する」と言っていた人とは思えない。 大人って怖い。 「よろしくお願いします」 「日本語、とても上手ですね」 「ありがとうございます。祖母が日本人で」 設定が微妙に違う。正しくは、祖母がアメリカ人で旧姓クロフォードだ。 だが、ここで細かい血筋を説明すると面倒なので、澪が用意した雑設定に乗るしかない。隣の先生たちは、特に疑っていなかった。 むしろ「朝比奈先生の親戚?」と聞かれないだけありがたい。名字が違うとはいえ、顔の系統が似ている可能性はある。 澪はそこを「海外在住の知人の子」という謎の力技で通したらしい。 そして、一時間目の前。俺は澪に連れられて、いつもの教室の前に立った。 中から、いつもの声が聞こえる。笑い声。椅子を引く音。陽斗の妙に通る声。朔が誰かに注意する低い声。 凪の声は聞こえないけど、たぶんいる。俺は手汗をスカートの横でこっそり拭いた。 澪が小声で言う。 「大丈夫。堂々と」 「うん」 「あと、歩き方が湊」 「今言うな」 俺が睨むと、澪は教師の顔に戻って教室のドアを開けた。 「はーい、席について。今日は交換留学生を紹介します」 教室のざわめきが、一気に変わった。好奇心の視線が集まる。 俺はその中へ一歩踏み出した。見慣れた教室。見慣れた机。見慣れた黒板。 でも、俺はいつもの席に向かわない。教壇の横に立つ。クラスメイトたちが、俺を知らない顔で見ている。 変な感じだった。自分の居場所に、自分ではないふりをして立っている。 「ミナ・クロフォードさんです。しばらくこのクラスで一緒に過ごします。みんな、仲良くしてね」 澪がそう言うと、教室が明るくざわめいた。 「可愛い」 「外国の子?」 「日本語話せるのかな」 「髪きれい」 俺は呼吸を整えた。ミナ・クロフォード。ミナ・クロフォード。 朝比奈湊ではない。 「はじめまして。ミナ・クロフォードです。日本語は、まだ少し練習中です。よろしくお願いします」 言えた。噛まなかった。口も悪くなかった。 俺は内心で勝利を確信しかけた。その時、視線が三つ刺さった。 まず、桐生朔。窓際の席で、腕を組んでこちらを見ている。 顔は平然としているのに、目だけが全然平然としていない。俺の言葉ではなく、呼吸の間を聞いているような目だった。 次に、瀬名陽斗。口を半開きにしてこちらを見ていた。 驚いている、ように見える。でも、その驚きは「知らない可愛い転入生が来た」ではなく、「何やってんの」という方向に近い気がした。 いや、気のせいだ。気のせいに決まっている。 最後に、神崎凪。凪は、最初から最後まで表情を変えなかった。 ただ、目が合った瞬間、ほんの少しだけ首を傾げた。 終わったかもしれない。俺は一瞬、本気でそう思った。 でも凪は何も言わなかった。朔も、陽斗も言わなかった。 澪が空いている席を示した。 「ミナさんの席は、朝比奈くんがしばらく体調の都合で休むことになったので、その席を使ってもらいます」 雑。あまりにも雑。 俺は思わず澪を見そうになった。だが、そこで反応したら朝比奈湊である。 ミナは朝比奈湊を知らない。知らない相手の席を使うことになっても、ちょっと困った顔をするくらいだ。 「分かりました」 俺は自分の席へ向かった。朝比奈湊の席。 そこにミナ・クロフォードとして座る。世界がバグっている。 隣の朔が、俺の椅子を引く音を聞いていた。 「よろしく」 「よろしくお願いします」 丁寧に返したつもりだった。すると朔は、ほんの少しだけ眉を動かした。 「……日本語、上手だね」 「勉強しました」 「へえ」 へえ、じゃない。その声には明らかに何か含まれていた。 こいつ、絶対に何かを探っている。だが、まだ大丈夫。 バレたならその場で「朝比奈」と言うはずだ。俺は前を向いた。 **** 授業が始まっても、落ち着かなかった。ノートを取る手がいつもの速さになりそうで、わざと少し遅くする。 シャーペンの持ち方を変えようとして、逆に不自然になる。消しゴムを落としそうになって、反射で「うわ」と言いかける。 危ない。俺は何回も自分に言い聞かせた。 ミナ。ミナ。 ミナ・クロフォード。 休み時間になると、女子たちが一斉に俺の周りに集まった。 「ミナちゃんって呼んでいい?」 「はい。大丈夫です」 「どこから来たの?」 「アメリカの方です」 「英語教えてほしい」 「少しなら」 思ったより普通に会話できる。女子たちは優しかった。 質問攻めではあるが、悪意はない。俺の日本語が少し変でも笑わないし、制服の可愛い着こなし方をこっそり教えてくれる子までいた。 ありがたい。ありがたいが、妙に申し訳ない。 俺が内心で謝っていると、陽斗が席の近くまで来た。 「ミナちゃん、だっけ」 ちゃん付け。腹が立つ。 いや、腹を立てるな。ミナは初対面の男子にちゃん付けされても、いきなり「うるさい」とは言わない。 「はい。瀬名くん、ですよね」 「え、俺の名前知ってるの?」 しまった。俺は一瞬固まった。 知っているに決まっている。毎日見ている。距離が近い。うるさい。昼休みに勝手に隣に来る。 だが、ミナ・クロフォードは今日転入してきたばかりである。 「さっき、先生が名前を」 「そっか」 陽斗は笑った。その笑い方が、いつもの陽斗すぎて、俺は少しだけ力が抜けた。 「よろしく、ミナちゃん」 「よろしくお願いします」 「敬語じゃなくていいよ。俺、敬語苦手だし」 「じゃあ、よろしく」 陽斗がぱっと顔を明るくした。その顔を見て、俺はなぜか胸が詰まった。 なんだよ。ミナに向けるな、そんな顔。 いや、向けさせるために来たんだろ、俺は。俺が混乱していると、陽斗が少し身をかがめた。 「ねえ、ミナちゃんってさ」 「何?」 「怒った時、目が強くなるタイプ?」 心臓が止まりかけた。 「……え?」 「いや、なんかそういう感じした」 「初対面で何を見てるの」 言ってから、しまったと思った。口調が少し湊に戻った。 陽斗は一瞬だけ目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。 「うん。そういう感じ」 「どういう感じ?」 「内緒」 こいつ、腹立つ。俺は全力でミナの顔を保ちながら、心の中で瀬名陽斗の陥落度を一度マイナスにした。 **** 昼休み、俺は屋上に逃げようとして失敗した。転入初日の留学生が一人で屋上に行くのは不自然だと気づいたからだ。 仕方なく、購買で買ったパンを持って中庭のベンチに座った。女子たちに誘われたが、ずっと囲まれているとボロが出そうで、「少し疲れました」と言って抜けてきた。 メロンパンを開ける。いつもの昼飯なのに、スカートで食べるだけで落ち着かない。 「そこ、座る」 声がして、顔を上げた。神崎凪だった。 いつの間に来た。 「……どうぞ」 凪は俺の隣ではなく、少し離れた位置に座った。その距離が、逆に怖い。 陽斗なら詰めてくる。朔なら斜めに立つ。凪は、逃げ道を残すみたいに距離を取る。 「慣れた?」 「何に?」 「この学校」 「あ、はい。皆さん、優しいです」 「そう」 会話が終わった。何しに来たんだ、お前は。 俺がメロンパンをかじろうとすると、凪がこちらを見た。 「そのパン、好きなの」 まずい。朝比奈湊はメロンパンが好きだ。ほぼ毎週食べている。 だが、ミナが好きでも別におかしくはない。メロンパンは世界を越える。 「はい。甘いので」 「朝比奈も好きだった」 心臓が跳ねた。凪は何気なく言ったみたいな顔をしている。 俺は笑った。 「朝比奈くん?」 「席の持ち主」 「ああ、体調で休んでいる人ですね」 「うん」 凪の目が、まっすぐ俺を見た。 「会ったら、似てると思うかも」 息を止めそうになった。ここで焦るな。 似てると言われるのは想定内。澪にも言われた。重要なのは、否定しすぎないこと。 「そうなんですか」 「うん」 「見てみたいです」 完璧。今の返しは完璧だった。 俺は内心で勝利を刻もうとした。 凪は、静かに言った。 「見てるけど」 「……え?」 「なんでもない」 怖い。こいつ、本当に怖い。 俺はメロンパンを持つ手に力を入れた。凪はそれ以上何も言わなかった。 ただ、俺が食べ終わるまで、少し離れたところに座っていた。 **** 放課後、俺は限界だった。一日中、別人のふりをするのは想像以上に疲れる。 女子制服は落ち着かないし、言葉遣いに気をつけるのも大変だし、三人が何を考えているのか分からない。 ただ、結果だけ見れば成功だった。クラスはミナを受け入れた。 俺は朝比奈湊だとバレていない。少なくとも、誰にも言われていない。 俺は空き教室に入り、鞄からミナ計画ノートを取り出した。 今日の成果。 ミナ・クロフォードとして転入成功。 クラスは雑に受け入れた。 女子たちは優しい。 今日の注意人物。 桐生朔。見すぎ。手元まで見るな。 瀬名陽斗。距離が近い。ミナにも近い。腹立つ。 神崎凪。怖い。何を考えているか分からない。怖い。 今日の勝敗。 たぶん勝ち。 俺はペンを止めた。たぶん、という文字が気になった。 なぜ、たぶんなんだ。勝ったはずだ。 誰にもバレていない。なのに、朔の視線も、陽斗の笑顔も、凪の「見てるけど」も、妙に引っかかる。 俺は首を振った。 「転入生だから見られてるだけ。そう、転入生だから」 声に出して、自分に言い聞かせる。そうだ。 あいつらが見ていたのは、ミナ・クロフォードだ。朝比奈湊ではない。 俺の復讐は、まだ始まったばかりで、しかも順調だ。 ノートに最後の一行を書いた。 結論。 バレてない。 これから落とす。 書いた瞬間、空き教室のドアが軽くノックされた。俺はノートを慌てて閉じた。 「誰?」 返事をしてから、また失敗したと思った。ミナなら「どなたですか」くらい言え。 ドアが少し開く。そこに立っていたのは、桐生朔だった。 「忘れ物」 朔はそう言って、俺の机の上に置きっぱなしだった消しゴムを見せた。朝比奈湊がいつも使っている、角が丸くなった消しゴム。 しまった。ミナがそれを見て反応してはいけない。 「ありがとうございます」 俺はなるべく自然に受け取った。朔は教室に入ってこなかった。 ただ、ドアのところでこちらを見ていた。 「疲れた?」 「少し」 「初日だしね」 「はい」 沈黙。長い。長すぎる。 俺が耐えきれずに目をそらしそうになった時、朔が低く言った。 「無理しすぎない方がいいよ」 その言葉は、ミナに向けられたもののはずだった。転入初日の留学生を気遣う、普通の言葉。 なのに、なぜか朝比奈湊の胸に刺さった。 「……ありがとうございます」 俺がそう返すと、朔は一瞬だけ何か言いたそうにした。でも結局、何も言わなかった。 「じゃあ、また明日」 「はい。また明日」 ドアが閉まる。俺はしばらく動けなかった。 また明日。ミナに言った言葉だ。 分かっている。分かっているのに、胸が変にうるさい。 俺はノートを開き、さっきの結論の下に小さく書き足した。 追記。 桐生朔、少しだけ優しい。 いや、違う。 ミナに優しいだけ。 俺はその一行をじっと見たあと、ぐしゃぐしゃと線で消した。復讐は順調。 そう思うことにした。 **** ただ、その日の放課後、廊下の向こうで三人が短く視線を交わしていたことを、俺は知らない。 朔が、ため息混じりに言った。 「……言わないのか」 陽斗が、少し困ったように笑った。 「だって、本人めちゃくちゃ頑張ってるじゃん」 凪が、いつも通り静かな声で答えた。 「言ったら逃げる」 朔は呆れたように目を伏せた。 「いつまで付き合うつもりだよ」 陽斗は窓の外を見た。夕方の光が、廊下の床に薄く伸びている。 「湊が、自分で言うまで」 凪はそれに頷いた。 「それでいい」 三人は、それ以上何も言わなかった。 **** そして俺は、そんな会話があったことも知らないまま、ミナ計画ノートを抱えて、かなり本気で「バレてない」と思い込んでいた。 今日の勝敗。 勝ち。 たぶん。 いや、絶対。 ……たぶん。

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