3 / 17

■第3話「更衣室は戦場」

ミナ・クロフォードとして転入して、二日目の朝。俺は、自室の鏡の前で女子制服を着ながら、人生で何度目かの「これは無理では?」という気持ちに襲われていた。 昨日は、なんとか乗り切った。クラスは思った以上に雑にミナを受け入れたし、女子たちは優しかったし、男子たちも遠巻きに見てくるだけだった。 問題は三人だった。桐生朔は見すぎる。瀬名陽斗は近すぎる。神崎凪は怖すぎる。 昨日の放課後、俺はミナ計画ノートにそのまま書いた。 今日の注意人物。 桐生朔。視線が尋問。 瀬名陽斗。距離感がバグ。 神崎凪。存在が伏線。 結論。 全員、危険。 だが、バレてはいない。 そう信じていた。信じるしかなかった。ここで「もしかしてバレてる?」と考え始めると、ミナ計画そのものが初日で爆散する。 俺はウィッグを整え、スカートの裾を引っ張った。 「……よし。今日も勝つ」 小さく言った瞬間、部屋のドアが開いた。 「湊、復讐者が朝から決意表明してるの、だいぶ面白いよ」 「ノックしろ、澪」 「したよ。湊が鏡の中の自分に夢中だっただけ」 「変な言い方するな」 従姉妹であり教師であり、今回の騒動の元凶である朝比奈澪は、俺の姿を上から下まで見て満足そうに頷いた。 「二日目にしてだいぶミナちゃんっぽい」 「その呼び方やめろ。背筋に来る」 「いいじゃん、ミナちゃん。可愛いし」 「可愛いって言うな」 「はいはい。今日の予定、見た?」 「普通の授業だろ。昨日より楽なはず」 俺がそう言うと、澪は一瞬だけ黙った。その沈黙は、よくない沈黙だった。 「……何」 「今日、体育あるよ」 時間が止まった。俺は鞄に手を伸ばしかけた姿勢のまま、ゆっくり澪を見た。 「体育?」 「うん。二時間目」 「体育って、あの体育?」 「他にどの体育があるの」 「人間の尊厳を試すやつ」 「湊の中で体育の定義がひどい」 俺は慌てて時間割を確認した。本当だった。 二時間目、体育。 女子制服で登校して、ミナ・クロフォードとして一日過ごすことだけで頭がいっぱいだった。体育という、服を着替える行為を伴う地獄イベントの存在を、完全に忘れていた。 「無理だろ」 「大丈夫。何とかなる」 「何とかなるの範囲を超えてる。女子更衣室に入った瞬間、俺は社会的に終わる」 「入らなければいいんじゃない?」 「どうやって?」 「そこは現場判断」 「作戦立案者が一番言っちゃいけないやつだろ」 澪は申し訳なさそうに、しかしやっぱりどこか楽しそうに笑った。 「一応、先生に呼ばれる設定で抜けられるようにはしておく。でも、タイミングは湊次第かな」 「俺、今日死ぬかもしれない」 「死なない。せいぜい心が三回くらい折れるだけ」 「十分重傷だよ」 俺はミナ計画ノートを取り出し、今日の注意点を書き足した。 今日の危険。 体育。 更衣室。 終わり。 短すぎる文字が並んでしまったが、これは仕方ない。俺の人生が短文で終わりそうなのだから、ノートまで長文にする余裕がない。 **** 登校してからも、俺の頭の中は体育のことでいっぱいだった。教室に入ると、女子たちが手を振ってくれた。 ミナとして笑い返す。昨日よりは自然にできた気がする。自分の席、つまり本来は朝比奈湊の席に座ると、隣の朔がこちらを見た。 「おはよう」 「おはようございます」 「……まだ敬語なんだ」 「え?」 「いや、別に」 朔はそれ以上言わず、ノートを開いた。俺は横目でその顔を見た。 こいつは本当に何を考えているのか分からない。昨日から、俺を見ている時だけ目が鋭い。転入生を警戒しているだけかもしれないが、あの視線はどう考えても「初対面の女子を見る目」ではない。 いや、考えるな。考えたら負けだ。 「ミナちゃん、おはよ」 今度は陽斗が机の前に来た。近い。 今日も近い。 「おはよう、瀬名くん」 「陽斗でいいよ」 「まだ二日目なので」 「じゃあ三日目ならいい?」 「検討します」 「やった。検討入った」 陽斗は本気で嬉しそうに笑った。俺は胸の奥が変な感じになるのを、復讐心で押し潰した。 こいつはミナに優しい。ミナに近い。ミナに笑っている。つまり、作戦は順調だ。 そう思えばいい。 「今日、体育あるよね。大丈夫?」 陽斗が何気なく言った瞬間、俺は表情を固めそうになった。 「大丈夫、とは?」 「いや、転入してすぐ体育って、ちょっと緊張するかなって」 「そうですね。少しだけ」 「困ったら言って。俺、体育得意だから」 「女子の体育で困った時、瀬名くんに言うことはないと思います」 「あ、そっか」 陽斗は普通に納得した。こいつ、本当に何も考えていないようで、たまに変なところに気づく。 いや、今のは普通に善意だ。疑いすぎるな、俺。 その時、教室の後ろから凪の視線を感じた。振り返ると、凪は自分の席からこちらを見ていた。 見ているというか、観察していた。俺が目を向けると、凪は小さく口を動かした。 ――無理しないで。 声は聞こえなかった。でも、たぶんそう言った。 いや、なぜだ。なぜ俺が無理していること前提なんだ。 俺は慌てて前を向いた。やっぱり神崎凪は危険人物だ。 危険というか、存在がネタバレに近い。 **** 一時間目は、ほとんど内容が入ってこなかった。黒板の文字をノートに写しながら、頭の中では更衣室のシミュレーションを繰り返す。 体育の前に保健室へ行く。いや、それだと毎回使えない。先生に呼ばれた設定にする。だが、どのタイミングで? 女子たちが「一緒に行こう」と言ったらどうする? 着替えない理由は? 体操服は? 俺はそもそも女子の体操服を着るのか? 詰んでいる。かなり詰んでいる。 授業終わりのチャイムが鳴った瞬間、教室がざわっと動き出した。 「体育だ、移動しよ」 「ミナちゃん、一緒に更衣室行こ」 来た。死刑宣告みたいな明るさで、女子の一人が言った。 俺は笑顔を作った。 「えっと、私は」 「場所分からないよね? 案内する」 「ありがとう。でも」 「大丈夫だよ、うちの更衣室ちょっと遠いから早めに行こ」 優しい。とても優しい。 優しさが今は刃物である。俺は鞄の中でミナ計画ノートを握りしめたい衝動に駆られた。 だが、ここでノートを取り出したら完全に不審者だ。 「ミナちゃん?」 「あ、はい」 返事をしてしまった。女子たちに囲まれるようにして、俺は教室を出た。 廊下を歩きながら、心臓がものすごい勢いで鳴っている。女子更衣室までの道のりなんて、本来ならどうでもいいはずなのに、今日は処刑台への階段にしか思えない。 どうする。どうする、朝比奈湊。 いや、今はミナ・クロフォード。ミナ・クロフォードは女子更衣室に入っても問題ない。 問題ないのは設定上だけで、中身は朝比奈湊なので大問題だ。角を曲がれば、更衣室へ続く廊下。 その瞬間、前方に朔が立っていた。 「ミナ・クロフォードさん」 フルネームで呼ばれた。女子たちが足を止める。 俺も止まる。朔は手にプリントを持っていた。顔はいつも通り冷静だが、なぜか少しだけ不機嫌に見えた。 「朝比奈先生が呼んでる。職員室じゃなくて、準備室の方」 澪。神。 いや、元凶だけど今だけ神。俺は心の中で土下座した。 「今、ですか?」 「今。体育の前に確認したい書類があるって」 女子たちは「あー、転入関係かな」とあっさり納得した。 「ミナちゃん、大変だね」 「先に行ってるね。場所分からなかったら呼んで」 「ありがとう」 俺はできるだけ自然に頷いた。女子たちが廊下の先へ行く。 更衣室へ向かう背中を見送りながら、俺は全身から力が抜けそうになった。助かった。 助かったが、なぜ桐生朔がここにいる。俺が朔を見ると、朔は低い声で言った。 「早く行けば」 「……ありがとうございます」 「別に」 別に、じゃない。タイミングがよすぎる。 いや、澪が頼んだのかもしれない。そうだ。教師が生徒に伝言を頼んだだけだ。 俺はそう納得しようとした。その時、背後から陽斗が走ってきた。 「ミナちゃん、こっち。準備室なら近道ある」 「え、でも」 「急げって言われたんでしょ。ほら」 陽斗が俺の手首を軽く掴んだ。一瞬、体が固まる。 男子の手。温かい。力は強いのに、掴み方は乱暴じゃない。 違う。今はそんなことを考えている場合じゃない。 「自分で歩けます」 「あ、ごめん」 陽斗はすぐに手を離した。その早さが、逆に胸に残った。 嫌がったら止まるんだ。いや、当たり前だ。普通は止まる。 変に感心するな。陽斗は俺の少し前を歩きながら、廊下の角を指さした。 「こっち、人少ないから」 「よく知っていますね」 「湊がよく遅刻しそうになって使ってた道だから」 俺は転びかけた。危ない。 今のは危ない。なぜ俺が自分の遅刻常習ルートに反応しているんだ。 「朝比奈くん、ですか?」 「うん。たまにさ、急いでるのに全然急げてないんだよね」 「そうなんですね」 「足、速そうに見えないでしょ」 「……見えないですね」 自分で自分の運動能力を女子留学生として評価する地獄。 陽斗は楽しそうに笑った。 「でも、必死な顔はけっこう好き」 俺は返事に詰まった。それは朝比奈湊の話だ。 ミナに言うことじゃない。なのに、陽斗はまるで俺に直接言っているみたいな顔をしていた。 「……朝比奈くんと仲がいいんですね」 「うん。俺はね」 「俺は?」 「湊がどう思ってるかは知らないけど」 その言い方が、少しだけ寂しそうに聞こえた。俺は何も言えなくなった。 準備室の前まで来ると、凪が立っていた。 まただ。こいつはなぜ、必要なタイミングで必要な場所にいるんだ。 「朝比奈先生、中」 凪が短く言う。 「ありがとうございます」 俺が返すと、凪は少しだけ首を傾げた。 「走らなくていい」 「え?」 「息、上がってる」 俺は慌てて呼吸を整えた。確かに、焦りすぎて息が浅くなっていた。 「緊張しているだけです」 「うん」 凪はそれ以上追及しなかった。その沈黙に、なぜか救われた。 **** 準備室のドアを開けると、澪が中で待っていた。入った瞬間、俺はドアを閉めてしゃがみ込んだ。 「お疲れ、ミナちゃん」 「死ぬかと思った」 「まだ死んでないから大丈夫」 「更衣室は無理。絶対無理。今日だけじゃなくて今後も無理」 「うん、そこは別ルート考えようね」 「最初から考えろよ」 「いや、湊なら何か起こしてくれるかなって」 「起こしたら終わるんだよ」 澪は申し訳なさそうに両手を合わせた。俺は床に座り込んだまま、深く息を吐いた。 女子更衣室に入らずに済んだ。ただそれだけで、今日一日分の体力を使い切った気がする。 「で、体操服は?」 「今日は転入手続きの都合で見学扱いにしておいた」 「神か?」 「元凶だけど神です」 「自分で言うな」 澪はクリップボードを差し出した。 「これ、見学用の書類。形だけ持っていって。体育の先生には話してある」 「最初からそれを言え」 「言ったら緊張感が出ないでしょ」 「緊張感で寿命が縮んだんだけど」 俺は書類を受け取り、立ち上がった。準備室の外に出る前、ふとドアの向こうが気になった。 「……あの三人、なんであんなタイミングよくいたんだろ」 澪は一瞬だけ目をそらした。 「さあ。青春の勘じゃない?」 「今、何か知ってる顔した」 「してないしてない」 「絶対した」 澪は口笛を吹くふりをした。下手だった。 俺は疑いの目で見たが、これ以上追及しても時間がない。体育の授業は始まってしまう。 校庭に向かう途中、俺はできるだけ落ち着いた顔を作った。見学用の書類を体育教師に渡すと、「転入初日で大変だろうからな」とあっさり受け取られた。 二日目だけど。そこはもう気にしないことにした。 **** 体育の授業中、俺は校庭の端で見学していた。女子たちは体操服で走っている。男子たちは別メニューでバスケをしている。 ミナとしては、ただの見学者。朝比奈湊としては、自分のクラスがいつも通り動いているのを、少し離れた場所から見ている変な状態だった。 陽斗がシュートを決めて、友達と笑う。朔が無駄のない動きでパスを回す。 凪はそこまで動いていないのに、なぜか必要な場所にいる。三人とも、普通に男子だった。 俺が女だったら絶対モテるとか言ったやつらが、普通に男子としてそこにいる。なんだよ、それ。 俺だけが、こんな格好をしている。そう思った瞬間、胸の奥に少しだけ悔しさが戻ってきた。 これは復讐だ。忘れるな。 あいつらを騙して、好きにさせて、最後にざまぁって言うためにやっている。助けられたからといって、流されるな。 授業終わり、女子たちが更衣室に戻っていく。俺は見学者なので、そのまま校舎側に戻ろうとした。 すると、陽斗が汗を拭きながら近づいてきた。 「ミナちゃん、見学でよかったね」 「はい。転入の手続きがありましたので」 「そっか。疲れてない?」 「見学なので」 「でも、顔ちょっと白い」 そういうところを見るな。俺は反射で言い返しそうになって、なんとか飲み込んだ。 「大丈夫です」 「本当に?」 「本当に」 陽斗は少しだけ困った顔をした。 「ならいいけど」 その言い方が優しくて、腹が立った。ミナだから優しいだけだ。 そう思った方が楽だった。 **** 教室に戻ると、朔が俺の机にプリントを置いてくれていた。 「見学分の課題」 「ありがとうございます」 「分からなかったら聞いて」 「はい」 「誰にでもは言わないから」 俺は顔を上げた。朔はもう前を向いていた。 何だ、今の。どういう意味だ。 考えるな。考えると負ける。 **** 放課後、俺はまた空き教室に逃げ込んだ。ミナ計画ノートを開く。 今日の成果。 更衣室を回避。 体育見学成功。 正体バレなし。 今日の被害。 寿命が縮んだ。 桐生朔が怖いくらいタイミングよく助けた。 瀬名陽斗に手首を掴まれた。すぐ離した。そこは偉い。 神崎凪が怖いくらい呼吸を見ていた。 今日の勝敗。 勝ち。 たぶん勝ち。 俺はペンを止めた。勝ちのはずだ。 女子更衣室に入らずに済んだ。ミナとして破綻しなかった。クラスにも怪しまれていない。 なのに、なぜか勝った気がしない。助けられた。 その言葉が、ノートの空白に浮かんでいる気がした。 俺は少し迷ってから、最後にこう書いた。 更衣室は危険。 次から絶対に対策する。 でも、今日は助かった。 ……なんであんなタイミングだったんだろう。 俺はその一文を見つめた。考えすぎだ。 たまたまだ。澪が何かしたのかもしれないし、三人がたまたま近くにいただけかもしれない。 あいつらが俺のために動いたなんて、そんな都合のいいことを考えるな。そもそも、あいつらはミナを女子だと思っている。 だから助けた。普通の女子には、優しいだけ。 俺じゃない。ミナだから。 俺はノートを閉じた。 **** その頃、廊下の向こうでは、三人が自販機の前に立っていた。 「桐生、今日のやり方、ちょっと雑じゃなかった?」 陽斗がスポーツドリンクを買いながら言った。朔は腕を組んだまま、少しだけ眉を寄せた。 「女子更衣室に連れていかれるよりマシだろ」 「それはそうだけど。ミナちゃん、かなり焦ってた」 「ミナちゃんって呼ぶな」 「え、なんで桐生が嫌そうなの」 朔は答えなかった。凪が、静かに紙パックの飲み物を持っていた。 「朝比奈先生、あまり計画してない」 「それは分かる」 朔が深いため息をついた。 「本人も無茶しすぎだ。バレたらどうするつもりなんだよ」 「でも、湊らしいよね」 陽斗は少し笑った。 「傷ついたのに、泣き寝入りじゃなくて、なんか変な方向に全力で走るところ」 朔は黙った。凪も黙った。 しばらくして、凪が言った。 「守ればいい」 短い言葉だった。でも、三人の間ではそれで通じたらしい。 目を伏せ、陽斗は少しだけ真面目な顔になった。 「そうだね。湊が自分で言うまで」 「それまで、余計なことは言わない」 朔がそう言うと、陽斗が笑った。 「桐生が一番言いそうだけど」 「言わねぇよ」 「今、言いそうな顔してた」 「うるさい」 凪が、ふと教室の方を見た。 「でも、今日の顔」 「ん?」 「助かって、少し泣きそうだった」 陽斗が黙った。朔も黙った。 それぞれが、それぞれの形で、朝比奈湊のことを思い浮かべた。もちろん、俺はそんな会話を知らない。 **** 俺は空き教室でミナ計画ノートを鞄にしまいながら、本気で思っていた。今日もバレなかった。 復讐は順調。更衣室は戦場だったが、生き延びた。 だから、俺の勝ち。 ……たぶん。

ともだちにシェアしよう!