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■第3話「更衣室は戦場」
ミナ・クロフォードとして転入して、二日目の朝。俺は、自室の鏡の前で女子制服を着ながら、人生で何度目かの「これは無理では?」という気持ちに襲われていた。
昨日は、なんとか乗り切った。クラスは思った以上に雑にミナを受け入れたし、女子たちは優しかったし、男子たちも遠巻きに見てくるだけだった。
問題は三人だった。桐生朔は見すぎる。瀬名陽斗は近すぎる。神崎凪は怖すぎる。
昨日の放課後、俺はミナ計画ノートにそのまま書いた。
今日の注意人物。
桐生朔。視線が尋問。
瀬名陽斗。距離感がバグ。
神崎凪。存在が伏線。
結論。
全員、危険。
だが、バレてはいない。
そう信じていた。信じるしかなかった。ここで「もしかしてバレてる?」と考え始めると、ミナ計画そのものが初日で爆散する。
俺はウィッグを整え、スカートの裾を引っ張った。
「……よし。今日も勝つ」
小さく言った瞬間、部屋のドアが開いた。
「湊、復讐者が朝から決意表明してるの、だいぶ面白いよ」
「ノックしろ、澪」
「したよ。湊が鏡の中の自分に夢中だっただけ」
「変な言い方するな」
従姉妹であり教師であり、今回の騒動の元凶である朝比奈澪は、俺の姿を上から下まで見て満足そうに頷いた。
「二日目にしてだいぶミナちゃんっぽい」
「その呼び方やめろ。背筋に来る」
「いいじゃん、ミナちゃん。可愛いし」
「可愛いって言うな」
「はいはい。今日の予定、見た?」
「普通の授業だろ。昨日より楽なはず」
俺がそう言うと、澪は一瞬だけ黙った。その沈黙は、よくない沈黙だった。
「……何」
「今日、体育あるよ」
時間が止まった。俺は鞄に手を伸ばしかけた姿勢のまま、ゆっくり澪を見た。
「体育?」
「うん。二時間目」
「体育って、あの体育?」
「他にどの体育があるの」
「人間の尊厳を試すやつ」
「湊の中で体育の定義がひどい」
俺は慌てて時間割を確認した。本当だった。
二時間目、体育。
女子制服で登校して、ミナ・クロフォードとして一日過ごすことだけで頭がいっぱいだった。体育という、服を着替える行為を伴う地獄イベントの存在を、完全に忘れていた。
「無理だろ」
「大丈夫。何とかなる」
「何とかなるの範囲を超えてる。女子更衣室に入った瞬間、俺は社会的に終わる」
「入らなければいいんじゃない?」
「どうやって?」
「そこは現場判断」
「作戦立案者が一番言っちゃいけないやつだろ」
澪は申し訳なさそうに、しかしやっぱりどこか楽しそうに笑った。
「一応、先生に呼ばれる設定で抜けられるようにはしておく。でも、タイミングは湊次第かな」
「俺、今日死ぬかもしれない」
「死なない。せいぜい心が三回くらい折れるだけ」
「十分重傷だよ」
俺はミナ計画ノートを取り出し、今日の注意点を書き足した。
今日の危険。
体育。
更衣室。
終わり。
短すぎる文字が並んでしまったが、これは仕方ない。俺の人生が短文で終わりそうなのだから、ノートまで長文にする余裕がない。
****
登校してからも、俺の頭の中は体育のことでいっぱいだった。教室に入ると、女子たちが手を振ってくれた。
ミナとして笑い返す。昨日よりは自然にできた気がする。自分の席、つまり本来は朝比奈湊の席に座ると、隣の朔がこちらを見た。
「おはよう」
「おはようございます」
「……まだ敬語なんだ」
「え?」
「いや、別に」
朔はそれ以上言わず、ノートを開いた。俺は横目でその顔を見た。
こいつは本当に何を考えているのか分からない。昨日から、俺を見ている時だけ目が鋭い。転入生を警戒しているだけかもしれないが、あの視線はどう考えても「初対面の女子を見る目」ではない。
いや、考えるな。考えたら負けだ。
「ミナちゃん、おはよ」
今度は陽斗が机の前に来た。近い。
今日も近い。
「おはよう、瀬名くん」
「陽斗でいいよ」
「まだ二日目なので」
「じゃあ三日目ならいい?」
「検討します」
「やった。検討入った」
陽斗は本気で嬉しそうに笑った。俺は胸の奥が変な感じになるのを、復讐心で押し潰した。
こいつはミナに優しい。ミナに近い。ミナに笑っている。つまり、作戦は順調だ。
そう思えばいい。
「今日、体育あるよね。大丈夫?」
陽斗が何気なく言った瞬間、俺は表情を固めそうになった。
「大丈夫、とは?」
「いや、転入してすぐ体育って、ちょっと緊張するかなって」
「そうですね。少しだけ」
「困ったら言って。俺、体育得意だから」
「女子の体育で困った時、瀬名くんに言うことはないと思います」
「あ、そっか」
陽斗は普通に納得した。こいつ、本当に何も考えていないようで、たまに変なところに気づく。
いや、今のは普通に善意だ。疑いすぎるな、俺。
その時、教室の後ろから凪の視線を感じた。振り返ると、凪は自分の席からこちらを見ていた。
見ているというか、観察していた。俺が目を向けると、凪は小さく口を動かした。
――無理しないで。
声は聞こえなかった。でも、たぶんそう言った。
いや、なぜだ。なぜ俺が無理していること前提なんだ。
俺は慌てて前を向いた。やっぱり神崎凪は危険人物だ。
危険というか、存在がネタバレに近い。
****
一時間目は、ほとんど内容が入ってこなかった。黒板の文字をノートに写しながら、頭の中では更衣室のシミュレーションを繰り返す。
体育の前に保健室へ行く。いや、それだと毎回使えない。先生に呼ばれた設定にする。だが、どのタイミングで?
女子たちが「一緒に行こう」と言ったらどうする? 着替えない理由は? 体操服は? 俺はそもそも女子の体操服を着るのか?
詰んでいる。かなり詰んでいる。
授業終わりのチャイムが鳴った瞬間、教室がざわっと動き出した。
「体育だ、移動しよ」
「ミナちゃん、一緒に更衣室行こ」
来た。死刑宣告みたいな明るさで、女子の一人が言った。
俺は笑顔を作った。
「えっと、私は」
「場所分からないよね? 案内する」
「ありがとう。でも」
「大丈夫だよ、うちの更衣室ちょっと遠いから早めに行こ」
優しい。とても優しい。
優しさが今は刃物である。俺は鞄の中でミナ計画ノートを握りしめたい衝動に駆られた。
だが、ここでノートを取り出したら完全に不審者だ。
「ミナちゃん?」
「あ、はい」
返事をしてしまった。女子たちに囲まれるようにして、俺は教室を出た。
廊下を歩きながら、心臓がものすごい勢いで鳴っている。女子更衣室までの道のりなんて、本来ならどうでもいいはずなのに、今日は処刑台への階段にしか思えない。
どうする。どうする、朝比奈湊。
いや、今はミナ・クロフォード。ミナ・クロフォードは女子更衣室に入っても問題ない。
問題ないのは設定上だけで、中身は朝比奈湊なので大問題だ。角を曲がれば、更衣室へ続く廊下。
その瞬間、前方に朔が立っていた。
「ミナ・クロフォードさん」
フルネームで呼ばれた。女子たちが足を止める。
俺も止まる。朔は手にプリントを持っていた。顔はいつも通り冷静だが、なぜか少しだけ不機嫌に見えた。
「朝比奈先生が呼んでる。職員室じゃなくて、準備室の方」
澪。神。
いや、元凶だけど今だけ神。俺は心の中で土下座した。
「今、ですか?」
「今。体育の前に確認したい書類があるって」
女子たちは「あー、転入関係かな」とあっさり納得した。
「ミナちゃん、大変だね」
「先に行ってるね。場所分からなかったら呼んで」
「ありがとう」
俺はできるだけ自然に頷いた。女子たちが廊下の先へ行く。
更衣室へ向かう背中を見送りながら、俺は全身から力が抜けそうになった。助かった。
助かったが、なぜ桐生朔がここにいる。俺が朔を見ると、朔は低い声で言った。
「早く行けば」
「……ありがとうございます」
「別に」
別に、じゃない。タイミングがよすぎる。
いや、澪が頼んだのかもしれない。そうだ。教師が生徒に伝言を頼んだだけだ。
俺はそう納得しようとした。その時、背後から陽斗が走ってきた。
「ミナちゃん、こっち。準備室なら近道ある」
「え、でも」
「急げって言われたんでしょ。ほら」
陽斗が俺の手首を軽く掴んだ。一瞬、体が固まる。
男子の手。温かい。力は強いのに、掴み方は乱暴じゃない。
違う。今はそんなことを考えている場合じゃない。
「自分で歩けます」
「あ、ごめん」
陽斗はすぐに手を離した。その早さが、逆に胸に残った。
嫌がったら止まるんだ。いや、当たり前だ。普通は止まる。
変に感心するな。陽斗は俺の少し前を歩きながら、廊下の角を指さした。
「こっち、人少ないから」
「よく知っていますね」
「湊がよく遅刻しそうになって使ってた道だから」
俺は転びかけた。危ない。
今のは危ない。なぜ俺が自分の遅刻常習ルートに反応しているんだ。
「朝比奈くん、ですか?」
「うん。たまにさ、急いでるのに全然急げてないんだよね」
「そうなんですね」
「足、速そうに見えないでしょ」
「……見えないですね」
自分で自分の運動能力を女子留学生として評価する地獄。
陽斗は楽しそうに笑った。
「でも、必死な顔はけっこう好き」
俺は返事に詰まった。それは朝比奈湊の話だ。
ミナに言うことじゃない。なのに、陽斗はまるで俺に直接言っているみたいな顔をしていた。
「……朝比奈くんと仲がいいんですね」
「うん。俺はね」
「俺は?」
「湊がどう思ってるかは知らないけど」
その言い方が、少しだけ寂しそうに聞こえた。俺は何も言えなくなった。
準備室の前まで来ると、凪が立っていた。
まただ。こいつはなぜ、必要なタイミングで必要な場所にいるんだ。
「朝比奈先生、中」
凪が短く言う。
「ありがとうございます」
俺が返すと、凪は少しだけ首を傾げた。
「走らなくていい」
「え?」
「息、上がってる」
俺は慌てて呼吸を整えた。確かに、焦りすぎて息が浅くなっていた。
「緊張しているだけです」
「うん」
凪はそれ以上追及しなかった。その沈黙に、なぜか救われた。
****
準備室のドアを開けると、澪が中で待っていた。入った瞬間、俺はドアを閉めてしゃがみ込んだ。
「お疲れ、ミナちゃん」
「死ぬかと思った」
「まだ死んでないから大丈夫」
「更衣室は無理。絶対無理。今日だけじゃなくて今後も無理」
「うん、そこは別ルート考えようね」
「最初から考えろよ」
「いや、湊なら何か起こしてくれるかなって」
「起こしたら終わるんだよ」
澪は申し訳なさそうに両手を合わせた。俺は床に座り込んだまま、深く息を吐いた。
女子更衣室に入らずに済んだ。ただそれだけで、今日一日分の体力を使い切った気がする。
「で、体操服は?」
「今日は転入手続きの都合で見学扱いにしておいた」
「神か?」
「元凶だけど神です」
「自分で言うな」
澪はクリップボードを差し出した。
「これ、見学用の書類。形だけ持っていって。体育の先生には話してある」
「最初からそれを言え」
「言ったら緊張感が出ないでしょ」
「緊張感で寿命が縮んだんだけど」
俺は書類を受け取り、立ち上がった。準備室の外に出る前、ふとドアの向こうが気になった。
「……あの三人、なんであんなタイミングよくいたんだろ」
澪は一瞬だけ目をそらした。
「さあ。青春の勘じゃない?」
「今、何か知ってる顔した」
「してないしてない」
「絶対した」
澪は口笛を吹くふりをした。下手だった。
俺は疑いの目で見たが、これ以上追及しても時間がない。体育の授業は始まってしまう。
校庭に向かう途中、俺はできるだけ落ち着いた顔を作った。見学用の書類を体育教師に渡すと、「転入初日で大変だろうからな」とあっさり受け取られた。
二日目だけど。そこはもう気にしないことにした。
****
体育の授業中、俺は校庭の端で見学していた。女子たちは体操服で走っている。男子たちは別メニューでバスケをしている。
ミナとしては、ただの見学者。朝比奈湊としては、自分のクラスがいつも通り動いているのを、少し離れた場所から見ている変な状態だった。
陽斗がシュートを決めて、友達と笑う。朔が無駄のない動きでパスを回す。
凪はそこまで動いていないのに、なぜか必要な場所にいる。三人とも、普通に男子だった。
俺が女だったら絶対モテるとか言ったやつらが、普通に男子としてそこにいる。なんだよ、それ。
俺だけが、こんな格好をしている。そう思った瞬間、胸の奥に少しだけ悔しさが戻ってきた。
これは復讐だ。忘れるな。
あいつらを騙して、好きにさせて、最後にざまぁって言うためにやっている。助けられたからといって、流されるな。
授業終わり、女子たちが更衣室に戻っていく。俺は見学者なので、そのまま校舎側に戻ろうとした。
すると、陽斗が汗を拭きながら近づいてきた。
「ミナちゃん、見学でよかったね」
「はい。転入の手続きがありましたので」
「そっか。疲れてない?」
「見学なので」
「でも、顔ちょっと白い」
そういうところを見るな。俺は反射で言い返しそうになって、なんとか飲み込んだ。
「大丈夫です」
「本当に?」
「本当に」
陽斗は少しだけ困った顔をした。
「ならいいけど」
その言い方が優しくて、腹が立った。ミナだから優しいだけだ。
そう思った方が楽だった。
****
教室に戻ると、朔が俺の机にプリントを置いてくれていた。
「見学分の課題」
「ありがとうございます」
「分からなかったら聞いて」
「はい」
「誰にでもは言わないから」
俺は顔を上げた。朔はもう前を向いていた。
何だ、今の。どういう意味だ。
考えるな。考えると負ける。
****
放課後、俺はまた空き教室に逃げ込んだ。ミナ計画ノートを開く。
今日の成果。
更衣室を回避。
体育見学成功。
正体バレなし。
今日の被害。
寿命が縮んだ。
桐生朔が怖いくらいタイミングよく助けた。
瀬名陽斗に手首を掴まれた。すぐ離した。そこは偉い。
神崎凪が怖いくらい呼吸を見ていた。
今日の勝敗。
勝ち。
たぶん勝ち。
俺はペンを止めた。勝ちのはずだ。
女子更衣室に入らずに済んだ。ミナとして破綻しなかった。クラスにも怪しまれていない。
なのに、なぜか勝った気がしない。助けられた。
その言葉が、ノートの空白に浮かんでいる気がした。
俺は少し迷ってから、最後にこう書いた。
更衣室は危険。
次から絶対に対策する。
でも、今日は助かった。
……なんであんなタイミングだったんだろう。
俺はその一文を見つめた。考えすぎだ。
たまたまだ。澪が何かしたのかもしれないし、三人がたまたま近くにいただけかもしれない。
あいつらが俺のために動いたなんて、そんな都合のいいことを考えるな。そもそも、あいつらはミナを女子だと思っている。
だから助けた。普通の女子には、優しいだけ。
俺じゃない。ミナだから。
俺はノートを閉じた。
****
その頃、廊下の向こうでは、三人が自販機の前に立っていた。
「桐生、今日のやり方、ちょっと雑じゃなかった?」
陽斗がスポーツドリンクを買いながら言った。朔は腕を組んだまま、少しだけ眉を寄せた。
「女子更衣室に連れていかれるよりマシだろ」
「それはそうだけど。ミナちゃん、かなり焦ってた」
「ミナちゃんって呼ぶな」
「え、なんで桐生が嫌そうなの」
朔は答えなかった。凪が、静かに紙パックの飲み物を持っていた。
「朝比奈先生、あまり計画してない」
「それは分かる」
朔が深いため息をついた。
「本人も無茶しすぎだ。バレたらどうするつもりなんだよ」
「でも、湊らしいよね」
陽斗は少し笑った。
「傷ついたのに、泣き寝入りじゃなくて、なんか変な方向に全力で走るところ」
朔は黙った。凪も黙った。
しばらくして、凪が言った。
「守ればいい」
短い言葉だった。でも、三人の間ではそれで通じたらしい。
目を伏せ、陽斗は少しだけ真面目な顔になった。
「そうだね。湊が自分で言うまで」
「それまで、余計なことは言わない」
朔がそう言うと、陽斗が笑った。
「桐生が一番言いそうだけど」
「言わねぇよ」
「今、言いそうな顔してた」
「うるさい」
凪が、ふと教室の方を見た。
「でも、今日の顔」
「ん?」
「助かって、少し泣きそうだった」
陽斗が黙った。朔も黙った。
それぞれが、それぞれの形で、朝比奈湊のことを思い浮かべた。もちろん、俺はそんな会話を知らない。
****
俺は空き教室でミナ計画ノートを鞄にしまいながら、本気で思っていた。今日もバレなかった。
復讐は順調。更衣室は戦場だったが、生き延びた。
だから、俺の勝ち。
……たぶん。
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