5 / 17

■第5話「名前って危ない」

ミナ・クロフォードとして過ごすようになって、俺はひとつ大事なことを学んだ。女装そのものより、別人のふりを続ける方がきつい。 服装は、まあ慣れない。スカートは相変わらず敵だし、風も階段も渡り廊下も全部信用できない。だが、それでも布は布だ。 押さえれば何とかなるし、朔の上着みたいな防具もある。問題は、言葉だった。 言葉は油断するとすぐ朝比奈湊になる。うるさい。ばか。近い。帰れ。見るな。調子に乗るな。 このあたりの単語が、俺の口の中には常備されている。だからミナとして穏やかに笑っていると、口の中で暴れる本音を常に押さえつける必要があった。 朝のホームルーム前、俺は席でミナ計画ノートを開いていた。もちろん、表紙が見えないように教科書の下に隠している。 今日の目標。 ミナとして自然に過ごす。 朝比奈湊の癖を出さない。 名前に注意。 俺は最後の一行に、二重線を引いた。名前は危険だ。 昨日、陽斗に「瀬名くん」と呼びかけた時、うっかり昔から知っている距離感が出そうになった。朔にも、凪にも、名前の呼び方ひとつで関係性が透ける。 ミナは転入生。ミナは昨日今日で彼らを知ったばかり。 ミナは朝比奈湊ではない。俺は小さく息を吐いた。 「何してるの?」 前の席に陽斗が座った。当然のように、俺の机に肘をついてくる。 近い。その言葉を飲み込んだ俺は偉い。 「日本語の勉強です」 「へえ。見ていい?」 「だめです」 「即答」 「まだ下手なので」 「ミナちゃん、日本語かなり上手いよね。たまに朝比奈みたいな言い方するけど」 心臓が跳ねた。俺は顔を上げないまま、ノートをそっと閉じた。 「朝比奈くん、ですか?」 「うん。今、休んでるやつ」 「そうなんですね」 「うん。口悪いけど、分かりやすくて面白い」 「……面白いんですか」 「面白いよ。怒った顔とか」 陽斗は楽しそうに笑った。俺はペンを握る指に力を入れた。 怒った顔が面白いって何だ。人の怒りを娯楽にするな。そう言いたかったが、ミナは言わない。 俺が黙っていると、横から朔が低い声で言った。 「瀬名、近い」 「え?」 「机に乗るな。邪魔」 「あ、はいはい。桐生は朝から厳しいね」 陽斗は素直に体を引いた。助かった。 いや、助かったと思うな。朔はミナに親切にしただけだ。たぶん。 隣の席が騒がしいと自分の勉強の邪魔だから言っただけかもしれない。その朔は、俺の手元を一瞬だけ見た。 「書くの、早いね」 「そうですか?」 「朝比奈も早い」 また来た。朝比奈湊の話題。 俺はなるべく自然な顔で首を傾げた。 「桐生くんも、朝比奈くんと仲がいいんですね」 「別に」 「別に、なんですか?」 「席が隣だったから、目に入るだけ」 その言い方に、少しだけ腹が立った。目に入るだけ。 手が小さいだの、赤くなってるだの、そういうことを言ってきたくせに。俺は思わず言い返しそうになり、ぎりぎりで飲み込んだ。 危ない。朝比奈湊なら、ここで「観察魔かよ」と言っていた。 ミナは言わない。 「そうなんですね」 俺が丁寧に返すと、朔はなぜか少しだけ不満そうな顔をした。知らない。 俺は悪くない。 **** 一時間目が終わったあとの休み時間、事件は小さな油断から始まった。クラスの男子数人が、教室の後ろでスマホを見ながら盛り上がっていた。 「これ、誰だっけ。去年の文化祭で歌ってた人」 「あー、軽音部の先輩じゃん」 「名前なんだっけな。卒業した人」 その名前を、俺は知っていた。去年の文化祭で、陽斗がやたら騒いでいたからだ。 確かその先輩は軽音部のボーカルで、女子人気がすごく、陽斗が「湊、あの人の髪型似合いそう」とかいう余計なことを言ってきた記憶がある。 男子のひとりが首をひねった。 「えーと、なんだっけ。たしか、久世?」 違う。久世じゃない。 俺は反射で口を開いた。 「相沢先輩でしょ」 教室が、一瞬だけ止まった。俺も止まった。 終わった。今、俺は何を言った。 ミナ・クロフォードが、去年の文化祭で歌っていた卒業生の名前を、なぜ知っている。しかも、あまりにも自然に。 男子たちがこちらを見た。 「え、ミナちゃん知ってるの?」 「あの先輩、去年の人だよね」 「ミナちゃん、今年転入だよね?」 背中に冷や汗が流れた。まずい。 これはまずい。更衣室やスカートみたいな物理的危機ではない。 情報の危機だ。言い訳を間違えた瞬間、ミナという設定が崩れる。 俺は頭を高速で回転させた。ネットで見た。動画で見た。誰かに聞いた。 いや、どれが自然だ。ミナは日本語が少し練習中の留学生。そんな細かい文化祭情報に詳しいのは不自然だ。 「それは」 声が詰まった。その瞬間、朔が教科書を閉じた音がした。 「有名だろ、相沢先輩」 朔の声は、驚くほど平然としていた。男子たちの視線が、俺から朔へ移る。 「有名ってほど?」 「去年の文化祭動画、学校紹介に使われてる。転入前に見ててもおかしくない」 そんな動画あったか。いや、あるのかもしれない。知らない。 だが朔が堂々と言うと、なぜか本当にありそうに聞こえる。男子のひとりが「あー」と頷いた。 「あったかも。学校紹介のやつ」 あるんだ。俺は心の中で朔に土下座しかけた。 しかし、まだ終わっていなかった。 「でも、名前まで覚えてるのすごくない?」 別の男子が言った。やめろ。 そこを掘るな。今すぐその好奇心を地面に埋めろ。 俺が笑顔のまま硬直していると、陽斗が軽い調子で入ってきた。 「あれじゃない? 昨日、俺が話したんだよ」 「瀬名が?」 「うん。ミナちゃんに学校のイベントの話した時、相沢先輩の話もした気がする」 してない。してないが、今はしたことにしてくれ。 陽斗は俺を見て、ぱちっと片目を細めた。 「ね?」 その「ね?」は、ミナへの同意を求める声だった。でも俺には、朝比奈湊に「乗れ」と言っているように聞こえた。 「はい。聞きました」 俺は即座に乗った。女子のひとりが笑う。 「瀬名くん、もうそんな話してたの? 距離詰めるの早」 「え、そう?」 「早いよ」 話題が少しずれた。助かった。 だが、最後に凪が静かに言った。 「今の動画、昼に見せる」 「え?」 俺は思わず聞き返した。凪はスマホを持ち上げた。 「学校紹介。相沢先輩、出てる」 実在した。神崎凪、怖い。 いや、今は神だ。凪の一言で、俺が相沢先輩を知っていたことは完全に自然になった。 転入前に動画を見た可能性ができた。陽斗が話したという雑な補強も乗った。朔の一般化も効いた。 男子たちはあっさり納得した。 「へー、じゃああとで見よ」 「相沢先輩、やっぱ歌うまいよな」 「てかミナちゃん、学校紹介ちゃんと見てきたんだ。真面目」 俺は曖昧に笑った。 「少しだけ」 心臓はまだ暴れていた。助かった。 また助かった。だが、なぜだ。 なぜあの三人は、こうも自然に俺のミスを埋める。ミナが困っていたから。 そうだ。ミナが困っていたから助けた。それ以上でも以下でもない。 転入生が変な疑いをかけられていたら、普通は助ける。普通。 本当に普通か? 俺は考えそうになり、慌てて思考を止めた。 深く考えると、復讐計画がまた揺れる。 **** 昼休み、俺は凪に学校紹介動画を見せられた。場所は教室の端。 陽斗はなぜか当然のように隣にいる。朔も自分の席で本を読んでいるふりをしながら、明らかにこちらの会話を聞いていた。 凪のスマホには、確かに学校紹介動画が映っていた。軽音部の演奏シーン。 相沢先輩が、マイクを持って歌っている。 「本当に出てる」 「うん」 「よく覚えていましたね」 「必要だったから」 凪は短く言った。何が必要だったんだ。 俺を助けるために必要だった、と言われた気がして、心臓が嫌な跳ね方をした。 陽斗が横からのぞき込む。 「あー、これこれ。湊も去年見てたやつ」 やめろ。朝比奈湊の名前を自然に出すな。 ミナの前で湊の話をするな。心臓に悪い。 俺は努めて初耳の顔をした。 「朝比奈くんも、見ていたんですか」 「うん。湊、相沢先輩に似てるって言われて、めちゃくちゃ嫌そうな顔してた」 「似てる?」 「髪型とか、雰囲気とか。あ、でも湊の方が」 「瀬名」 朔の声が飛んできた。陽斗は口を閉じた。 俺は、その先を聞きたくなかったような、少し聞きたかったような、最悪な気分になった。湊の方が、何だ。 可愛い? 女の子っぽい? またそういうことか。 俺はスマホ画面に視線を戻した。 「学校紹介、分かりやすいですね」 「うん」 凪は俺を見ていた。スマホではなく、俺を。 「無理して覚えなくていい」 「え?」 「知らないことは、知らないって言っていい」 その言葉に、息が詰まった。それはミナに向けた言葉だ。 転入生のミナに、学校のことを全部知っているふりをしなくていいと言っているだけだ。そう理解できる。 でも、俺には違う意味にも聞こえた。朝比奈湊が、無理して別人のふりをしなくてもいい。 そう言われたような気がした。そんなはずない。 バレてない。バレてない、はずだ。 「ありがとうございます」 俺はなんとか笑った。凪はそれ以上、何も言わなかった。 **** 放課後、俺は空き教室でミナ計画ノートを開いた。 今日の成果。 名前事故発生。 相沢先輩の名前を言ってしまった。 完全に終わったと思った。 今日の救助。 桐生朔が「有名だろ」と一般化。 瀬名陽斗が「昨日話した」と雑に補強。 神崎凪が学校紹介動画を出した。 俺はペンを止めた。救助。 自然にそう書いてしまった。救助。 違う。これは救助ではない。フォローだ。いや、フォローも似たようなものだが、救助と書くと、俺が助けられたみたいになる。 実際、助けられた。俺はその文字をじっと見た。 今日の被害。 心臓が止まりかけた。 今日の疑問。 なんであんな自然に助けるんだ。 俺はそこまで書いて、眉を寄せた。まただ。 また「なんで」と書いている。更衣室の時も、スカートの時も、今日も。 なんでこのタイミングで。なんでそんな自然に。なんで助ける。 でも、考えても答えは出ない。だって、答えは簡単だ。 ミナが女子だから。転入生だから。困っていたから。 あいつらは普通の女子には優しい。朝比奈湊には「手、ちっさ」とか「女子より可愛い」とか「泣きそうな顔」とか言うくせに、ミナには優しい。 それだけだ。それだけのはずだ。 俺はノートに書いた。 結論。 どうして? とは思う。 でも、助かったからまあいいか。 書いてから、少しだけ悔しくなった。まあいいか。 俺はこの言葉で、どれだけのことを流してきたんだろう。可愛いと言われたこと。 女みたいと言われたこと。傷ついたのに笑ったこと。 そして今、助けられて戸惑ったことまで。全部、まあいいかで流そうとしている。 でも、それが一番楽だった。 **** 放課後の校舎は静かだった。俺はノートを閉じて鞄にしまい、空き教室を出た。 廊下に出たところで、朔と鉢合わせた。 「……桐生くん」 「またここにいたんだ」 「少し、落ち着くので」 「そう」 朔は俺の顔を見た。今日は見すぎるなと言い返す気力がなかった。 ミナとしても、湊としても、少し疲れていた。 「相沢先輩のこと」 朔が言った。俺の肩がわずかに揺れた。 「はい」 「動画で見たことにすればいい。もしまた聞かれたら」 「……ありがとうございます」 「別に」 いつもの別に。でも今日は、その別にが少しだけ優しく聞こえた。 俺は少し迷ってから聞いた。 「桐生くんは、どうして助けてくれたんですか」 聞いた瞬間、しまったと思った。ミナとしては自然な質問かもしれない。 でも、朝比奈湊としての本音が混ざりすぎている。朔は少しだけ黙った。 そして、俺から目をそらさずに言った。 「困ってたから」 「それだけですか」 「それ以外、いる?」 言葉が返せなかった。困っていたから。 それだけ。それだけで助けるのか。 朝比奈湊が困っていた時も、そうしてくれたのだろうか。いや、違う。 今の俺はミナだ。ミナだから助けられた。 「……優しいんですね」 「よく言われない」 「でしょうね」 反射で言ってしまった。朔が目を細めた。 しまった。ミナらしくない。 だが、朔は怒らなかった。むしろ、少しだけ笑った。 「今の言い方、朝比奈みたい」 心臓が止まった。俺は必死に笑顔を作った。 「そうなんですか」 「うん」 「会ってみたいです。朝比奈くんに」 朔は俺を見た。長い沈黙。 それから、少しだけ低い声で言った。 「そのうち会えるんじゃない」 その声の意味が分からなくて、俺は何も言えなかった。朔は上着を肩にかけ直し、廊下の向こうへ歩いていった。 俺はしばらく、その背中を見ていた。そのうち会える。 どういう意味だ。朝比奈湊は、今ここにいる。 いや、いないことになっている。頭が混乱する。 俺は鞄を持ち直し、昇降口へ向かった。 **** 校門近くでは、陽斗と凪が待っていた。待っていた、ように見えた。 いや、たまたまそこにいただけかもしれない。 「ミナちゃん、帰る?」 「はい」 「今日、名前のやつ焦ったね」 「……焦りました」 「でも大丈夫。学校紹介動画、本当にあるし」 「助かりました」 俺がそう言うと、陽斗は少しだけ真面目な顔になった。 「助けるよ」 「え?」 「困ってたら」 その言い方が、軽くなかった。俺は返事を失った。 凪が横で静かに言った。 「言えなくても分かる時は、ある」 「神崎くんは、分かりすぎです」 「そうかも」 「否定してください」 「できない」 凪は淡々としていた。陽斗が笑う。 「凪はね、見すぎだから」 「瀬名くんも近すぎです」 「俺も?」 「自覚ないんですか」 「ないかも」 「最悪ですね」 また口が悪くなった。でも陽斗は嬉しそうに笑った。 「そういうとこ、けっこう好き」 胸が、また変な音を立てた。だから、ミナにそういう顔をするな。 いや、ミナにさせたいんだろ。俺は自分で自分が分からなくなって、顔をそらした。 「帰ります」 「あ、送る?」 「大丈夫です」 「じゃあ校門まで」 「校門、そこです」 「じゃあ、そこまで」 「意味がない」 陽斗が笑い、凪が少しだけ口元を緩めた。俺は、なんとなくそれ以上拒めなくて、三人で校門まで歩いた。 朔は少し遅れて来て、結局いつものように少し横を歩いた。四人で数メートル。 ただそれだけ。それだけなのに、なぜか落ち着かなかった。 **** 家に帰って、ミナ計画ノートを開く。 今日の勝敗。 事故ったけど、回避。 たぶん勝ち。 いや、助けられた時点で負けかもしれない。 俺はしばらくペンを止めた。そして、最後に小さく書いた。 でも、助かったからまあいいか。 **** その頃、学校では。陽斗が自販機の横で、今日のことを思い出して笑っていた。 「湊、相沢先輩の名前出した瞬間、顔真っ白だったね」 朔がため息をつく。 「笑いごとじゃない。あいつ、詰めが甘すぎる」 「そこが湊じゃん」 「褒めるな」 凪は静かにスマホをしまった。 「次は、もっと危ない」 「何が?」 陽斗が聞くと、凪は短く答えた。 「似すぎる」 朔は眉を寄せた。陽斗も少しだけ真面目な顔になった。 「まあ、そろそろ誰か言うよね。ミナちゃんって朝比奈に似てない、って」 「その時、本人がどう押し切るかだな」 朔の声には、心配と呆れが半分ずつ混ざっていた。陽斗は校舎の方を見た。 「守るけどね」 凪が頷く。 「うん」 もちろん俺は、そんな会話を知らない。 **** 今日のノートの最後に書いた「まあいいか」を見ながら、少しだけ思っていた。 名前って危ない。でも、名前を呼ばれるのも、少し危ない。 ミナと呼ばれるたびに、俺じゃない誰かが進んでいく。朝比奈湊のままでは聞けなかった優しさが、ミナには向けられている。 それが悔しいのに、ほんの少しだけ、嫌じゃない。だから俺は、ノートを閉じる前にもう一行だけ書き足した。 復讐は順調。 たぶん。 ……たぶん。

ともだちにシェアしよう!