6 / 17
■第6話「似てるって何だよ」
ミナ・クロフォードとして学校に通い始めて、俺はだいぶ自分の限界を知った。更衣室は無理。スカートも無理。名前事故も無理。つまり、ほとんど全部無理だった。
それでも、ここまで来た。俺は女子更衣室に吸い込まれず、春の強風にも負けず、去年の文化祭にいた先輩の名前をうっかり言ってしまった件も、なんとか乗り切った。
つまり、ミナ計画は順調。……の、はずだった。
朝、教室に入る前、俺は廊下の窓に映った自分を見た。ウィッグは整っている。制服も問題ない。表情も、たぶん昨日よりミナっぽい。
俺は小さく息を吐いて、鞄からミナ計画ノートを出した。
今日の目標。
正体疑惑を出さない。
名前に注意。
朝比奈湊の癖を出さない。
特に、すぐ怒らない。
俺は最後の一行を見て、少しだけ眉を寄せた。すぐ怒らない、という注意事項が必要な時点で、俺はミナに向いていない。
それでも、やるしかない。女みたいだと笑われたなら、その女みたいを使って、あいつらを負かす。
俺はノートを閉じて、教室に入った。
「おはようございます」
ミナとして丁寧に挨拶すると、女子たちがすぐに手を振ってくれた。
「ミナちゃん、おはよ。今日も髪きれい」
「ありがとう」
ここまでは順調だった。席に着くと、隣の朔がいつものようにこちらを見た。
「おはよう」
「おはようございます」
「……今日は眠そうじゃないな」
「昨日は眠そうでしたか」
「してた。目元に出る」
「見すぎでは?」
言ってから、しまったと思った。だが朔は怒らず、少しだけ目を細めた。
「朝比奈も、そういうこと言う」
「……そうなんですね」
朝比奈。その名前が出るたびに、俺の心臓は一瞬だけ嫌な跳ね方をする。
朔は、別に責めているわけではない。ただ、何気なく比べているだけ。
でも、その何気なさが怖い。ミナは湊を知らないはずなのに、周りが勝手に湊の話を出してくる。
前の席に陽斗が座り、当然のようにこちらを向いた。
「ミナちゃん、おはよ。今日もミナちゃんだね」
「今日もミナちゃんとは?」
「いや、なんか、ちゃんとミナちゃんしてるなって」
「その言い方、すごく不安になります」
「え、褒めてるよ」
「褒められている気がしません」
陽斗は楽しそうに笑った。その笑い方は、転入生に向けるものというより、いつもの俺をからかう時の顔に近かった。
いや、気のせいだ。そう思った時、教室の後ろから凪の視線を感じた。
振り返ると、凪はじっと俺を見ていた。目が合うと、凪は少しだけ口を動かした。
――大丈夫。
声は聞こえなかった。でも、たぶんそう言った。
なぜ今、大丈夫と言われる必要がある。何も起きていない。
俺はそう思った。だが、その数分後、凪の嫌な予感みたいなものは当たった。
****
ホームルーム前、隣の女子がふと俺の顔をまじまじと見た。
「ねえ、ミナちゃんってさ」
「はい?」
「朝比奈くんに似てない?」
教室の空気が、ぴしっと固まった。少なくとも、俺の中では固まった。
来た。ついに来た。
ミナ計画最大の穴。顔が朝比奈湊に似ている問題。
いや、似ているも何も本人だ。ウィッグと制服とちょっとした表情でごまかしているだけで、顔の骨格も目も口も全部俺である。
女子の声に、周りの数人がこちらを見た。
「言われてみれば、ちょっと雰囲気似てるかも」
「目元とか?」
「でもミナちゃんの方が柔らかい感じしない?」
「朝比奈くんはもっと口悪いよね」
やめろ。比較するな。
俺は笑顔を作った。ここで焦ったら終わる。
「朝比奈くんって、私よく知らないけど、全然違うと思う。だって、男の子と似てるって変だもの」
自分でも驚くくらい、雑な押し切りだった。しかし、一度言ってしまった以上、進むしかない。
「ほら、私、目の形、特徴的だし、声だって女の子の中でも高い方だし。そもそも性別が違います」
最後の一文は、内心かなり危なかった。性別が違う、という言葉を自分で言うのは、心臓に悪い。
女子たちは「まあ、たしかに」と笑った。助かった、と思った直後、別の男子が余計なことを言った。
「でもさ、発音ちょっと似てない?」
「発音?」
「ミナちゃんが日本語話す時の感じ。朝比奈も英語の発音きれいじゃん。前に授業で読んだ時、めっちゃそれっぽかったし」
そこに来るか。英語。
ミナ・クロフォード設定の自然さに使うだけのはずだった英語が、よりによって湊との共通点として出てきた。
俺は笑顔のまま、心の中でミナ計画ノートを破り捨てた。いや、破らない。大事な作戦ノートだ。
「英語圏だと、普通だから」
「普通?」
「発音が似て聞こえるのは、きっと、同じ地方の訛りの特徴が出ているのだと思う。私、南部出身なんだけど、朝比奈くんも、南部出身の先生に英語習ったんじゃないかな」
説明しながら、自分でもかなり苦しいと思った。だが、これ以上の答えがない。
親戚設定では逃げない。クロフォードが祖母の旧姓だとか、朝比奈家と関係があるとか、そんなことを言えば余計にややこしくなる。
だから、押し切る。
「というか、私と朝比奈くん、そんなに似ていますか?」
俺はあえて聞き返した。攻めろ。
疑われた時は、堂々とする方がいい。澪にそう言われた。
その澪はたぶん、今ごろ職員室でコーヒーを飲んでいる。こっちは命がけなのに。
男子のひとりが首を傾げる。
「いや、似てるっていうか、雰囲気?」
「ミナちゃんの方が女子っぽいよね」
刺さる。普通に刺さる。
女子っぽい。またそれだ。
ミナとして言われているのに、俺の中の湊が痛がる。俺は笑って流そうとした。
その時、隣で椅子が小さく鳴った。朔が立ち上がったのだ。
「お前ら、転入生囲んで何やってんの」
声は低かった。怒鳴ってはいない。
でも、教室の空気が一段冷えた。男子たちが少し肩をすくめる。
「いや、似てるなって話してただけで」
「本人が違うって言ってるだろ」
「まあ、そうだけど」
「なら終わり」
朔の一言で、会話が本当に終わりかけた。強い。
桐生朔、圧が強い。普段なら腹が立つその圧が、今だけはありがたかった。
俺が小さく息を吐いた時、陽斗が軽い声で割って入った。
「ていうかさ、朝比奈とミナちゃんって、よく見たら全然違うよ」
「そうか?」
「違う違う。湊はもっと、すぐ怒るし」
おい。
「顔に出るし」
おい。
「あと、照れると耳まで赤くなる」
おい、やめろ。陽斗はにこにこしながら続けた。
「ミナちゃんは、ほら、もっと落ち着いてるじゃん」
全然落ち着いていない。今すぐ瀬名陽斗の足を踏みたい。
でも、ミナはそんなことをしない。俺は静かに微笑んだ。
「瀬名くんは、朝比奈くんのことをよく見ているんですね」
皮肉のつもりだった。しかし陽斗は、なぜか少し照れた。
「うん。まあ、けっこう見てるかも」
何でそこで照れる。クラスの女子たちが「え、何それ」と少しざわついた。
また空気が変な方向に行きかけたところで、凪が自分の席から静かに言った。
「似てない」
教室が静かになった。凪の声は大きくない。
それなのに、なぜか通る。凪は俺の方を見ずに、窓の外を見ていた。
「朝比奈は、もっと隠すのが下手」
心臓が跳ねた。いや、それはどういう意味だ。
男子が笑った。
「神崎、それ褒めてる?」
「事実」
「じゃあ、ミナちゃんは?」
凪は少しだけこちらを見た。目が合った瞬間、逃げたくなった。
「今は、うまく隠してる」
意味が分からない。いや、分かりそうで怖い。
分かってはいけない気がする。
「なにそれ、ミナちゃん何か隠してるの?」
女子が冗談っぽく聞いた。俺は笑った。
「秘密です」
言ってから、しまったと思った。だが、女子たちは「可愛い」と笑った。
ミナなら許される。湊だったら、たぶんからかわれる。
その差が、少しだけ胸に刺さった。ホームルームのチャイムが鳴り、話題はそこで終わった。
助かった。いや、助けられた。
朔が圧で止めた。陽斗が軽く流した。凪が空気を終わらせた。
三人の動きが、あまりにも自然だった。まるで、事前にこうなると分かっていたみたいに。
****
一時間目の授業中、俺はノートを取りながら、何度もさっきの会話を思い出していた。
似てない。
朝比奈は、もっと隠すのが下手。
今は、うまく隠してる。
凪の言葉が、頭の中で引っかかっている。あれは何だ。
ミナが転入生として緊張していることを、何か隠していると表現しただけ。そう考えればいい。
そう考えればいいのに、背中が少し冷える。
****
昼休み、俺は女子たちに誘われて中庭にいた。彼女たちは相変わらず優しい。
そして、相変わらず距離が近い。
「ミナちゃん、さっきごめんね。似てるとか言って」
「いえ、大丈夫です」
「でも本当に、雰囲気ちょっと似てるよね。朝比奈くんが女の子だったら、こんな感じかも」
俺は笑顔のまま固まった。女の子だったら。
また、その言葉。俺はミナとしてここにいる。
つまり、まさにその言葉を形にした存在だ。なのに、実際に言われると胸が痛い。
俺のままじゃなく、女の子だったら。そういう仮定の中に、また俺が閉じ込められそうになる。
「……そう、ですか」
声が少しだけ遅れた。その瞬間、横から陽斗の声がした。
「ミナちゃんはミナちゃんでしょ」
俺は顔を上げた。陽斗が、パンを片手に立っていた。
いつの間に来た。女子たちは笑った。
「瀬名くん、またミナちゃんのところ来た」
「たまたま」
「絶対たまたまじゃない」
陽斗は笑いながら、俺の少し後ろに立った。距離は近いけど、隣に座るほどではない。
前より少しだけ、俺の逃げ道を残す立ち方だった。
「似てるとか似てないとかより、本人が嫌そうならやめた方がよくない?」
軽い声だった。でも、言っていることは軽くなかった。
女子たちは少し驚いたあと、「そうだね」と素直に頷いた。
「ごめんね、ミナちゃん。男の子と似てるとか、あまりいい気しなかったよね」
「大丈夫です」
本当は、大丈夫じゃなかった。でも、陽斗が止めたから、これ以上痛くならなかった。
俺はそれが悔しかった。ミナとして守られている。
朝比奈湊として言われた時は、笑って流してきた言葉なのに。ミナなら、止めてもらえるのか。
そう思ってしまった自分が、一番嫌だった。
****
放課後、俺は空き教室でミナ計画ノートを開いた。
今日の成果。
似すぎ疑惑、発生。
顔、目元、雰囲気、発音を疑われる。
今日の対応。
よく見たら全然違うでしょ、と押し切った。
目の形違うし、声も違うし、そもそも性別違うし、と主張。
英語の発音は、英語圏なら普通だからと説明。
今日の救助。
桐生朔が圧で沈静化。
瀬名陽斗が軽く流した。
神崎凪が空気を終わらせた。
俺はペンを止めた。また、救助と書いてしまった。
いや、今日は救助でいい。あれは完全に助けられた。
俺一人では押し切れなかった。たぶん、どこかでぼろが出ていた。
でも。
でも、何だ。俺はしばらく考えてから、続きを書いた。
今日の疑問。
なんで、みんなミナには優しいんだろう。
いや、普通の女子には優しいだけ。
朝比奈湊だったら、きっと笑われていた。
そう思うと、少しだけ腹が立つ。
ペン先が止まった。腹が立つ。
誰に。三人に。
それとも、ミナとして守られて安心している自分に。分からない。
俺はノートに大きく書いた。
結論。
いけた。
バレてない。
ミナ計画、継続。
そして、その下に小さく書いた。
でも、女の子だったらって言われるのは、やっぱり嫌だった。
それを書いた瞬間、胸の奥が少し痛くなった。消そうと思った。
でも、消せなかった。その時、空き教室のドアが軽く開いた。
俺は反射的にノートを閉じた。
「ミナちゃん、いた」
陽斗だった。
「ノックしてください」
「したよ。小さかったけど」
「小さいなら意味がありません」
「怒ってる?」
「怒ってません」
「怒ってる時の湊と同じ顔してる」
俺は息を止めた。陽斗は、言ってから自分でも気づいたように少しだけ目を伏せた。
「あ、ごめん。比べるの、嫌だった?」
その一言に、うまく返せなかった。嫌だった。
でも、ミナとしては嫌がる理由が薄い。朝比奈湊としては、ものすごく嫌だった。
「……少しだけ」
俺はミナの声で言った。陽斗はすぐに頷いた。
「分かった。言わない」
早い。軽くない。
その反応に、また胸が変な感じになった。
「瀬名くんは、すぐ謝るんですね」
「嫌がられたら、やめたいし」
「普段からそうすればいいのに」
口から出た瞬間、終わったと思った。今のは完全に朝比奈湊だった。
陽斗は一瞬だけ目を丸くした。それから、困ったように笑った。
「うん。そうだね」
責めない。突っ込まない。
ただ、受け止める。それがまた、ずるかった。
陽斗が帰ったあと、俺はノートを開き直した。
追記。
瀬名陽斗、嫌がったらやめる。
今さら。
遅い。
でも、少しだけ、悪いやつではないのかもしれない。
そこまで書いて、俺は慌てて線を引いた。
違う。
復讐対象だ。
流されるな、朝比奈湊。
俺は鞄を持って教室を出た。
****
校門へ向かう途中、朔と凪が並んでいるのが見えた。朔は俺を見ると、いつものように少し眉を寄せた。
「帰るのか」
「はい」
「今日は、あの話題もう出ないと思う」
「……どうしてですか」
「出させないから」
俺は返事に困った。凪が静かに言った。
「嫌だったでしょ」
息が止まる。
「何がですか」
「女の子だったら、って言われたこと」
俺は何も言えなかった。凪は、俺を追い詰めるような目ではなかった。
ただ、分かっている目だった。怖い。
怖いのに、少しだけ救われる。
「……少しだけ」
また同じ答えをした。凪は頷いた。
「じゃあ、止める」
「神崎くんは、簡単にそういうことを言うんですね」
「簡単じゃない」
短い返事だった。でも、嘘ではないと分かった。
俺は視線を落とした。
「ありがとうございます」
朔が、少しだけ目をそらした。
「別に。転入生が困ってたら、普通だろ」
普通。またそれだ。
普通の女子には優しい。ミナだから優しい。
そう思えば、全部説明できる。なのに、その説明では片づかない顔を、三人ともする。
俺は校門を出てからも、しばらく胸の奥が落ち着かなかった。
****
家に帰って、ミナ計画ノートの最後にこう書いた。
今日の勝敗。
押し切ったので勝ち。
たぶん勝ち。
でも、勝った気がしない。
似てるって何だよ。
俺は俺なのに。
ミナは俺なのに。
俺じゃないみたいに扱われる。
それが悔しい。
でも、守られたのは嫌じゃなかった。
その一行を見て、俺はしばらく固まった。嫌じゃなかった。
それは、かなり危険な言葉だった。俺は消そうとして、結局消さなかった。
****
その頃、学校の自販機前では、三人が並んでいた。
「今日、危なかったね」
陽斗が言うと、朔はため息をついた。
「本人の押し切りが雑すぎる」
「でも、あれ湊らしいよね。目の形違うし、声も違うし、そもそも性別違うしって」
「笑うな」
朔の声は低かった。陽斗は少しだけ表情を変えた。
「うん。ごめん」
凪が紙パックを持ったまま、静かに言った。
「女の子だったら、は駄目」
「分かってる」
陽斗の声も、今度は軽くなかった。
「あれ、俺も言った」
朔は黙った。凪も黙った。
陽斗は自分の手元を見た。
「湊、笑ってたから大丈夫だと思ってた。でも、今日の顔見て分かった。全然、大丈夫じゃなかった」
朔は壁にもたれたまま、低く言った。
「笑うのが上手いだけだろ、あいつは」
凪が頷いた。
「隠すのは下手。でも、我慢するのは上手い」
三人は少しの間、黙っていた。やがて、陽斗が顔を上げた。
「次から止める。ミナちゃんの時だけじゃなくて、湊に戻っても」
朔が短く言った。
「当然だろ」
凪も静かに頷いた。
「湊が、自分で言えるまで」
もちろん俺は、そんな会話を知らない。
****
俺はただ、ノートに書いた「嫌じゃなかった」の文字を見つめながら、自分に言い聞かせていた。
復讐は順調。あいつらは、ミナを女の子だと思っている。
だから優しい。俺じゃない。
ミナだから。そう思わないと、何かが崩れそうだった。
ともだちにシェアしよう!

