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■第7話「体調とか言ってられない」

ミナ・クロフォードとして過ごす日々は、想像以上に体力を削っていた。女子制服を着ることにも、ミナとして笑うことにも、だいぶ慣れてきた気がしていた。 けれど、それはあくまで「初日に比べれば」の話であって、普通に生活できているかと聞かれたら、答えはかなり怪しい。 朝、鏡の前に立った時点で、俺は少しだけ違和感を覚えていた。頭が重い。喉の奥が乾く。 体の芯が、いつもより少しだけ熱い。 「……寝不足か」 そう呟いて、俺は額に手を当てた。熱がある、というほどではない気がする。 いや、あるかもしれない。でも、今日は休めない。 ミナ・クロフォードとして学校に行く日だし、朝比奈湊としては体調不良で休んでいる設定がすでに続いている。ここでミナまで休むと、さすがに妙なことになる。 それに、復讐はまだ途中だ。ここで止まったら、俺が負けたみたいで腹が立つ。 俺はミナ計画ノートを開いた。 今日の目標。 普通に過ごす。 体調が悪くても顔に出さない。 保健室には行かない。 絶対に行かない。 最後の一行に、強めに線を引いた。保健室は危険だ。 体温を測るだけならまだしも、何かの拍子に服装を直されたり、寝かされたり、先生に細かく見られたりしたら終わる。ミナとしての安全圏は、意外と狭い。 俺は鏡の中の自分を見た。少し顔色が悪い気がする。 でも、女子の顔色なんてよく分からない。ミナは海外育ちの留学生だから、多少白くてもそういうものかもしれない。 「よし。いける」 自分に言い聞かせて部屋を出ようとしたところで、澪と鉢合わせた。澪は俺の顔を見た瞬間、眉を寄せた。 「湊、顔色悪くない?」 「悪くない。照明が悪い」 「朝日を照明扱いするの、なかなか強引だね」 「元気です。復讐者なので」 「復讐者は風邪を引かない設定なの?」 「引いても言わない」 「それ、一番駄目なやつ」 澪は俺の額に手を伸ばそうとした。俺は反射的に避けた。 「触るな。ウィッグずれる」 「今、体調よりウィッグを優先したね?」 「体調は気合いで何とかなる。ウィッグは気合いじゃ直らない」 「湊、たまに優先順位がすごく残念」 澪はため息をついたが、無理に止めはしなかった。ただ、鞄に小さな水筒と冷却シートを突っ込んできた。 「本当にきつかったら言いなさい。復讐より身体が大事」 「分かってる」 「分かってる顔じゃない」 「分かってるってば」 俺はそれだけ言って家を出た。外の空気は、いつもより少しだけ遠く感じた。 駅までの道も、学校までの坂も、普段より長い。スカートの裾を気にする余裕はある。けれど、いつものように周囲へ警戒を張る余裕は少し減っていた。 **** 教室に着いた時には、軽く息が上がっていた。女子たちが声をかけてくれる。 「ミナちゃん、おはよう」 俺は笑って返した。 「おはようございます」 「今日、ちょっと眠そう?」 「少しだけ、寝不足で」 「大丈夫? 無理しないでね」 優しい。優しいけれど、今の俺にはその優しささえ少し怖い。 大丈夫じゃないと言えば、保健室に連れていかれるかもしれない。保健室は駄目だ。そこだけは絶対に避ける。 席に座ると、隣の朔がこちらを見た。 「顔色悪い」 挨拶より先にそれだった。こいつは本当に、見るところが細かい。 「おはようございます」 「挨拶でごまかすな」 「寝不足です」 「昨日もそう言ってなかった?」 「昨日は言っていません」 「言ってないなら、余計に怪しい」 理屈がおかしい。そう言い返したかったが、喉が少し痛くてやめた。 朔は俺の手元を見た。 「指、冷えてる」 なぜ分かる。俺は反射的に手を膝の上へ隠した。 「見ないでください」 「見える位置にあるからだろ」 「見ようとしなければ見えません」 「朝比奈みたいなこと言うな」 また、朝比奈。いつもなら胸が跳ねるところだが、今日は反応する余裕がなかった。 「……そうですか」 俺がそれだけ返すと、朔の顔が少し険しくなった。たぶん、いつもなら言い返すところで言い返さなかったからだ。 やめろ。そういうところで察するな。 前の席に陽斗がやってきた。 「ミナちゃん、おはよ。今日、なんか元気ない?」 「皆さん、朝から人の顔色を見すぎです」 「だって、いつもより目がとろんとしてる」 「してません」 「してる。あと、怒る元気が少ない」 陽斗まで、そういうところを見ている。俺は小さく息を吐いた。 「大丈夫です。少し眠いだけなので」 「本当に?」 「本当です」 陽斗は納得していない顔をした。その時、教室の後ろから凪が歩いてきた。 無言で俺の机の上に、小さな紙パックの飲み物を置く。 「……これは?」 「飲むといい」 「なぜですか」 「喉、痛そう」 怖い。何も言っていないのに、喉が痛いことまで分かるのは怖い。 「痛くありません」 「声、少し掠れてる」 俺は黙った。言い返すと、さらに声でバレそうだったからだ。 凪はそれ以上、追及しなかった。ただ、紙パックを机に置いたまま、自分の席へ戻った。 陽斗がそれを見て、すぐに購買の袋からペットボトルを取り出した。 「あ、俺も飲み物ある。こっち冷たすぎないやつ」 「いりません」 「まだ何も言ってないのに断られた」 「神崎くんのがあります」 「じゃあ、これは予備で置いとく」 陽斗は勝手に机の端にペットボトルを置いた。近い。 飲み物の距離まで近い。俺が睨もうとしたら、陽斗は少しだけ真面目な顔をした。 「飲まなくてもいいけど、置いとくだけ」 その言い方に、文句が引っ込んだ。飲めと言わない。 ただ、置いておく。俺が本当に嫌がったら引くくせに、必要そうなものだけ残していく。 ずるい。 **** 一時間目が始まる頃には、頭の重さが少し増していた。黒板の文字は読める。でも、いつもより追うのが遅い。 ノートを取る手も、少し鈍い。隣で、朔が小さくため息をついた。 俺が横目で見ると、朔は自分のノートを少しこちらへ寄せた。 「写せば」 「え?」 「今日、板書多いから」 「大丈夫です」 「大丈夫じゃない時ほど、そう言うだろ」 その言い方が、少し刺さった。朝比奈湊に言っているように聞こえたからだ。 でも、ミナとしては受け取るしかない。 「……ありがとうございます」 俺は朔のノートを少し見ながら、自分のノートを取った。字がきれいだった。 腹立つくらい、きれいだった。朔は口が悪いくせに、ノートは整っている。そういうところも、前から少しだけ知っている。 知っている、と思ってしまってから、俺は慌てて目を伏せた。ミナは知らない。 ミナは昨日今日、桐生朔を知ったばかり。なのに、体調が悪いせいで、境目が少しゆるむ。 危ない。 **** 二時間目の前の休み時間、俺は廊下に出ようとして立ち上がった。少し外の空気を吸いたかった。 だが、足元がふわっとした。世界が一瞬だけ斜めになる。 「ミナちゃん」 陽斗の声が近くで聞こえた。腕を掴まれる。 今度は手首ではなく、肘の少し上。支えるだけの強さだった。 「大丈夫?」 「……大丈夫です」 「それ、今日何回目?」 陽斗の声が、少しだけ低かった。軽くない。 俺は掴まれた腕を見た。陽斗はすぐに離そうとした。でも、俺が完全に立てるまで待ってから、ゆっくり手を引いた。 「保健室」 「行きません」 即答した。陽斗が眉を下げる。 「なんで」 「行くほどではないので」 「でも、ふらついた」 「立ち上がり方が悪かっただけです」 俺が言い張ると、横から朔が来た。 「保健室が嫌なら、せめて席変えろ」 「席?」 「窓際、日が当たる。今のお前にはきつい」 朔はそう言うと、近くの女子に軽く声をかけた。その女子はすぐに「あ、いいよ」と席を代わってくれた。 あまりにも自然だった。俺が断る隙もない。 「すみません」 「ミナちゃん、気にしないで。顔色悪いし、無理しないでね」 優しい。みんな、ミナには優しい。 俺は教室の端に移動した。人目が少なく、窓から少し離れた席。 視線が集まりにくい。具合が悪いことを、あまり見られない場所。 朔はそれを分かって、そこへ誘導したのだろうか。考えそうになって、やめた。 **** 三時間目の小テストで、凪の動きはもっと静かだった。教師がプリントを配りながら、「転入してすぐだけど、ミナさんもできる範囲で」と言った時、俺は内心で呻いた。 今の頭で小テストはきつい。しかも、日本史。 ミナは海外育ち設定だから、できなくても不自然ではない。だが、俺は朝比奈湊なので、分かる問題は分かる。 分かるのに、書けないふりをするのも面倒くさい。その時、後ろの席から凪の声がした。 「先生」 「神崎、どうした?」 「ミナさん、まだ教科書の範囲が違うと思います。今日は見学扱いでいいのでは」 教師は少し考えたあと、頷いた。 「ああ、そうだな。じゃあミナさんは解けるところだけでいいよ。成績には入れないから」 「ありがとうございます」 俺は頭を下げた。助かった。 助かった、けれど。まただ。 凪は、俺が困る前に逃げ道を作った。しかも、ミナが正体を疑われない形で。 俺は問題用紙を見下ろした。名前欄に「ミナ・クロフォード」と書く。 その下の問題は、半分くらい読めた。でも、手が少し震えて、きれいに字が書けない。 凪の言葉がなかったら、俺はたぶん無理をして全部解こうとしていた。それでさらに体調を悪くしていたかもしれない。 なんで分かるんだよ。なんで、そんなに先に気づくんだよ。 **** 昼休み、俺はさすがに食欲がなかった。女子たちに誘われたが、「少し休みたい」と言って断った。 すると、誰も無理には誘わなかった。みんな優しい。 ミナに優しい。俺は教室の端の席で、机に突っ伏したい気持ちを必死にこらえた。 突っ伏したらウィッグがずれるかもしれない。化粧というほどのことはしていないが、顔を机に押しつけるのは危険だ。 だから、背筋を伸ばして座る。きつい。 そこへ、陽斗が近づいてきた。 「食べられそう?」 「少しだけなら」 「じゃあ、これ」 陽斗は小さなゼリー飲料を置いた。いつ買ったんだ。 「購買で売ってた。無理なら持って帰って」 「……ありがとうございます」 「うん」 陽斗はそれだけ言って、隣に座らなかった。いつもなら近くに来る。 なのに今日は、少し離れた机に腰を預けただけだった。距離を取っている。 俺が疲れているから。気づいてしまうと、また胸が変な感じになった。 凪は窓の近くに立って、人の流れを見ていた。朔は教師に何かプリントを渡しに行っていた。 戻ってきた時には、次の授業で当てられる予定だった箇所が変わっていた。たぶん、偶然じゃない。 でも、俺は気づいていないふりをした。 **** 放課後になる頃には、熱っぽさは少し落ち着いていた。代わりに、心の中が妙に疲れていた。 助けられすぎた。しかも、全部さりげなかった。 飲み物を置く。席を変える。小テストの負担を減らす。 人目を散らす。近づきすぎない。誰も「大丈夫?」を押しつけない。 誰も「保健室に行け」と無理に引っ張らない。俺のプライドまで守られているみたいで、余計に困った。 普通の女子には優しい。そう思えばいい。 ミナだから優しい。そう思えば、全部説明できる。 それなのに、タイミングがよすぎる。あまりにも、俺が嫌がることを避けすぎている。 保健室に行きたくない理由なんて、ミナには普通にないはずなのに。俺は空き教室でミナ計画ノートを開いた。 今日の成果。 体調不良を隠しきった。 保健室回避成功。 今日の被害。 頭が重い。 喉が痛い。 瀬名陽斗が飲み物とゼリーを置いた。 桐生朔が席を変えた。 神崎凪が小テストを見学扱いにした。 俺はペンを止めた。何だ、これ。 俺は復讐しているはずなのに、日誌だけ読むと完全に介護されている。いや、介護ではない。 支援。いや、支援も違う。 助けられている。それが一番近い。 俺はノートに続きを書いた。 今日の疑問。 普通の女子には優しいんだな。 ミナだから優しいだけ。 でも。 俺はそこで止まった。でも、何だ。 ペン先が紙の上で迷う。そして、結局書いた。 タイミング、よすぎないか? 書いた瞬間、ぞわっとした。その疑問は危険だった。 そこを深く考えると、ミナ計画の根本が揺らぐ。あいつらが、ミナを女子として助けているだけならいい。 でも、もし。もし、あいつらが朝比奈湊の嫌がることまで分かって動いているなら。 「いや、ない」 俺は声に出して否定した。ない。 絶対にない。バレてたら、もう言っている。 特に朔あたりは、黙っていられないはずだ。陽斗だって、顔に出る。 凪は……凪は分からない。凪は、最初から全部分かっていそうで怖い。 俺はノートに無理やり結論を書いた。 結論。 普通の女子には優しい。 以上。 でも、助かった。 だから、まあいいか。 書いてから、俺は机に額をつけそうになり、寸前で止めた。ウィッグがずれる。 今日一日、何度この心配をしたか分からない。その時、空き教室のドアが開いた。 「ミナちゃん、いた」 陽斗だった。手には、温かい飲み物のペットボトルを持っている。 「また飲み物ですか」 「今度は温かいやつ。冷たいのばっかだと、お腹に悪いかなって」 「お母さんですか」 「彼氏候補の方がよくない?」 「よくないです」 即答したら、陽斗は嬉しそうに笑った。いつもなら近づいてくるのに、今日は入口から数歩のところで止まった。 俺が逃げたい時に逃げられる距離。 「置いていい?」 「……はい」 陽斗は机の端に飲み物を置いた。それから、少し迷ったように俺を見た。 「今日、頑張ったね」 その言葉に、胸が詰まった。ミナに言っている。 ミナが体調不良を隠して頑張ったことを褒めている。でも、俺には朝比奈湊ごと見られた気がした。 「頑張ってません」 「じゃあ、無理したね」 「それもしてません」 「うん。そういうことにしとく」 陽斗は笑った。その笑い方が優しすぎて、俺は顔をそらした。 「帰ります」 「送らない。校門まで偶然一緒に行くのも、今日はやめとく」 「……なぜですか」 「一人で帰りたい顔してるから」 俺は何も言えなかった。そんな顔をしていたのか。 それとも、陽斗が見すぎなのか。陽斗は軽く手を振って教室を出た。 残された温かい飲み物を見て、俺はしばらく動けなかった。 **** 帰り道、校門には誰もいなかった。珍しい。 いや、当たり前だ。俺が一人で帰りたい顔をしていたから、陽斗は来なかった。 たぶん朔も凪も、何かを察して来なかった。それが少しだけ寂しいと思ってしまった自分に、俺は深く苛立った。 家に帰ると、澪が玄関で待っていた。 「おかえり。顔、朝より悪い」 「ただいま。報告が医者みたい」 「熱は?」 「ない。たぶん」 「たぶんは禁止」 澪に体温計を渡され、仕方なく測った。微熱だった。 勝手に数字で証明されるのは腹が立つ。 「今日はもう休みなさい」 「分かってる」 「本当に?」 「本当に」 部屋に戻り、俺は着替えてベッドに座った。鞄からミナ計画ノートを取り出す。 最後のページに、追記を書いた。 今日の勝敗。 体調不良は隠した。 だから勝ち。 でも、三人に助けられた。 だから、ちょっと負け。 普通の女子には優しいだけ。 ミナだから優しいだけ。 でも、タイミングがよすぎた。 それが少し怖い。 俺はペンを置いた。 怖い。 でも、それ以上に。 助かった。 その一言を最後に書いて、俺はノートを閉じた。 **** その頃、学校近くの自販機前では、三人が並んでいた。陽斗がスマホを見ながら、少しだけ眉を下げている。 「湊、ちゃんと帰れたかな」 朔は自販機にもたれたまま、低く言った。 「今日、無理しすぎだ」 「保健室、行かせた方がよかったかな」 「嫌がっただろ」 凪が静かに言った。 「行かせたら、もっと無理した」 朔は小さく息を吐いた。 「分かってる。だから席だけ変えた」 「桐生、ああいう時だけ優しいよね」 「うるさい」 陽斗は笑わなかった。少しだけ真面目な顔で、温かい飲み物を買った時のことを思い出していた。 「湊さ、助けてって言えないんだね」 凪が頷いた。 「言わない。気づいてほしそうにも、しない」 朔は視線を落とした。 「だから、こっちが気づくしかないだろ」 その言葉に、陽斗が少しだけ笑った。 「桐生、やっぱり見てるじゃん」 「お前もだろ」 「うん。見てる」 凪は短く言った。 「ずっと見てる」 三人はそれ以上、何も言わなかった。もちろん俺は、そんな会話を知らない。 **** 俺はベッドの上で、ミナ計画ノートを抱えながら、ただ一つだけ思っていた。 復讐は順調。ミナは守られている。 朝比奈湊ではなく、ミナが。 だから、胸が少しだけ痛いのは、きっと熱のせいだ。

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