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■第10話「復讐開始」
ミナ計画ノートに「本格的に落としに行く」と書いた翌朝、俺は鏡の前で三分ほど固まっていた。理由は簡単だ。
自分で書いておいて、何をすればいいのか全然分からなかったからだ。
「落とすって、何だよ……」
小さく呟くと、鏡の中のミナ・クロフォードが、ものすごく不安そうな顔でこちらを見返してきた。俺は復讐者だ。
男だと思われず、女の子として好きにさせて、最後に「残念、朝比奈湊でした」と言うためにここまで来た。なのに、いざ落とすとなると、具体的な手段が分からない。
恋愛経験があるわけでもない。誰かを誘惑したこともない。そもそも俺は、からかわれる側であって、誰かを振り回す側ではなかった。
だが、やるしかない。ここで引いたら、ミナ計画ノートに「口だけ」と書くことになる。
俺はノートを開いて、今日の作戦を整理した。
桐生朔。
弱さを見せる。
近距離で頼る。
瀬名陽斗。
名前呼び。
世話を焼く。
神崎凪。
声と視線。
逃げない。
書いてから、自分で顔が熱くなった。
「何だこれ。俺、本当に何を書いてるんだ」
しかも、どれもかなり恥ずかしい。弱さを見せるって何だ。近距離で頼るって何だ。
名前呼びはまだしも、世話を焼くってどういうことだ。凪相手に逃げないとか、それはもう修行ではないのか。
それでも、やる。今日からは、ただ助けられて戸惑うだけのミナじゃない。
俺が仕掛ける。俺が揺らす。俺が勝つ。
そう決めて、俺は女子制服のリボンを整えた。
****
学校に着くと、いつものようにクラスがざわめいていた。もうミナは珍しい存在ではなくなっている。
交換留学生のいる日常に、みんな慣れてきていた。それはありがたい。
でも同時に、三人へ仕掛けるなら、今がちょうどいいということでもある。席に着くと、隣の朔がいつものようにこちらを見た。
「おはよう」
「おはようございます、桐生くん」
「今日は、何か企んでる顔してる」
初手で終わりかけた。俺は笑顔を保ったまま、心の中で机を叩いた。
なんで分かる。まだ何もしていない。こいつは本当に目が良すぎる。
「何も企んでいません」
「そういう時ほど怪しい」
「桐生くんは疑い深いですね」
「隣の席が最近ずっと怪しいからな」
隣の席。それはミナのことか、朝比奈湊のことか。
今は考えるな。今日は仕掛ける日だ。
俺はノートを開きながら、わざと少し困った顔をした。
「桐生くん、ここ、教えてもらってもいいですか」
差し出したのは数学の問題集だった。分からないわけではない。
むしろ、昨日の夜に予習してある。だが、ここは弱さを見せる作戦だ。
朔は問題集を見て、すぐに俺の顔を見た。
「これ、分かってるだろ」
「……分かっていません」
「嘘が下手」
「下手ではありません」
「じゃあ、途中式を隠すな」
俺は慌ててノートを押さえた。そこには、ほとんど解き終わった式が書いてあった。
駄目だ。仕掛ける前に準備の詰めが甘い。
朔は呆れたように息を吐いた。
「教える必要ある?」
「あります」
「何を」
「……確認を」
苦しすぎる。しかし、ここで引くわけにはいかない。
俺は少しだけ身を乗り出して、朔のノートを覗き込んだ。
「桐生くんの解き方、見たいです」
言った瞬間、自分で顔が熱くなった。何だその台詞。
俺は何を言っている。だが、朔は黙った。
さっきまで呆れていた顔が、少しだけ固まる。俺の肩と朔の肩が、机ひとつ分より近い。
いつもなら俺がすぐに引く距離だ。今日は引かない。
復讐だから。復讐だから、引かない。
朔はペンを持ち、問題の横に小さく式を書き始めた。その字は相変わらずきれいだった。
説明も分かりやすい。腹立つくらい、分かりやすい。
「ここで一回、式を分ける。暗算で飛ばすと、符号を間違えやすい」
「……はい」
「聞いてる?」
「聞いています」
「顔が赤い」
「暑いだけです」
「窓、開いてるけど」
「心が暑いんです」
「何だそれ」
朔が少し笑った。その笑い方が柔らかくて、俺は思わず目をそらしそうになった。
駄目だ。今日は仕掛ける側だ。
俺はミナ・クロフォード。ここで逃げたら負けだ。
「桐生くんって、教え方が上手ですね」
「そうか?」
「はい。少し、安心します」
言った瞬間、朔の手が止まった。ペン先が紙の上で止まり、ほんの短い沈黙が落ちる。
俺は内心で叫んだ。効いた。
今の、効いたかもしれない。しかし次の瞬間、朔が低く言った。
「そういうこと、あんまり軽く言うな」
「え?」
「本気にするやつがいる」
心臓が跳ねた。誰が。
お前が? そう聞きそうになって、危うく飲み込んだ。
朔はそれ以上何も言わず、問題の続きを説明した。でも、耳が少し赤かった。
たぶん。見間違いではない。
ミナ計画ノートの中で、俺は桐生朔の陥落度を少し上げた。
****
昼休み。次の標的は瀬名陽斗だった。
陽斗はいつものように購買のパンを両手に持って、俺の席へやってきた。
「ミナちゃん、一緒に食べよ」
「いいですよ」
「え、今日は即答?」
「嫌ですか?」
「嫌じゃない。むしろ嬉しい」
陽斗の顔がぱっと明るくなった。分かりやすい。
すごく分かりやすい。だからこそ、こいつは仕掛けやすいはずだ。
俺はミナ計画ノートに書いた作戦を思い出す。名前呼び。
世話を焼く。まずは名前呼びだ。
「陽斗くん」
言った瞬間、陽斗が固まった。パンの袋を開ける手が止まる。
目が丸くなる。それから、じわじわと顔が明るくなっていく。
「今、名前」
「呼びました」
「もう一回」
「嫌です」
「えー」
「一回限定です」
「限定って言われると余計ほしい」
「欲しがらないでください」
陽斗は胸を押さえた。
「ミナちゃん、今日ちょっと強い」
「そうですか」
「うん。なんか、勝ちに来てる感じ」
危ない。こいつ、感覚だけは妙に鋭い。
俺は平然とした顔で、陽斗のパンを見た。
「それ、昼食ですか?」
「うん。焼きそばパンとメロンパン」
「野菜がありません」
「急に健康指導?」
「栄養が偏っています」
「湊にも同じこと言われたことある」
心臓が跳ねる。また湊。
でも今日は引かない。俺は陽斗の袋から焼きそばパンを少し見て、持っていた野菜ジュースを差し出した。
「これ、飲みますか」
「え、くれるの?」
「飲んでください。倒れられると困ります」
「困るんだ」
「目の前で倒れられたら、誰でも困ります」
「そっか」
陽斗は笑った。けれど、その笑顔はいつもの軽いものではなかった。
野菜ジュースを受け取る手が、少しだけ慎重だった。
「ありがとう、ミナちゃん」
「どういたしまして」
「でもさ」
「はい」
「そういうの、俺だけ?」
声が低くなった。一瞬、周囲の音が遠くなる。
俺は陽斗を見る。陽斗は笑っている。
でも、目があまり笑っていない。独占欲。
その言葉が頭をよぎって、俺は自分で驚いた。これは、かなり効いている。
たぶん。いや、絶対に。
「誰にでもは、しません」
俺はミナとして微笑んだ。次の瞬間、自分の心臓が馬鹿みたいに鳴った。
何だその台詞。俺は本当に何をやっている。
陽斗は完全に固まった。それから、耳まで赤くなった。
「……それ、ずるい」
「何がですか」
「分かってないなら、もっとずるい」
「分かりません」
「うん。たぶん、分かってない」
陽斗は野菜ジュースを握ったまま、顔をそらした。勝った。
今のは勝った。そう思った瞬間、俺も顔が熱くなっていることに気づいた。
駄目だ。俺まで照れてどうする。
仕掛けたのは俺だ。俺は慌ててメロンパンをかじった。
陽斗がちらっとこちらを見て、小さく笑う。
「ミナちゃん、耳赤い」
「赤くありません」
「湊もそう言う」
「またそれですか」
「ごめん。でも、似てた」
陽斗は少しだけ真面目な顔で言った。
「嫌なら、もう言わない」
俺は返事に困った。嫌だ。
でも、今はそこまで嫌じゃなかった。似ていると言われることが、ずっと怖かった。
女の子だったら、と言われるのが嫌だった。でも、陽斗の「似てた」は、俺をずらす言葉ではなかった気がした。
ミナの中にいる湊を、そっと見つけるみたいな言い方だった。だから余計に困る。
「……今のは、いいです」
小さく言うと、陽斗が息を止めた。
「いいの?」
「今のは、です」
「そっか」
陽斗は嬉しそうに笑った。俺はその顔を見て、また心臓をうるさくさせた。
駄目だ。完全に調子が狂う。
昼休みが終わる前、俺はミナ計画ノートの端に小さく書いた。
瀬名陽斗。
名前呼びに弱い。
世話を焼くと照れる。
ただし、自分も照れる。
要注意。
****
放課後。最後の標的は、神崎凪だった。
正直、一番難しい。朔は理性型だから、揺れた瞬間が分かりやすい。陽斗は本能型だから、だいたい全部顔に出る。
凪は違う。静かすぎる。
見ているのに、表情をあまり変えない。だからこそ、今日は逃げないと決めた。
凪に対しては、声と視線。俺は図書室へ向かった。
凪はよく図書室の奥にいる。読んでいるのか、ただ人の少ない場所にいるのかは分からない。
案の定、凪は窓際の席にいた。分厚い本を開いている。
俺が近づくと、顔を上げる前に言った。
「ミナさん」
「まだ何も言っていません」
「足音」
「怖いです」
「ごめん」
凪は本を閉じた。俺は向かいの席に座る。
逃げない。目を合わせる。
逃げない。凪の目は静かだった。
でも、深い。見つめ返していると、こちらの嘘まで沈んでいきそうになる。
「何か用?」
「少し、話したくて」
声を柔らかくした。ミナとして、少しだけ弱く。
凪は黙ったまま俺を見る。何も言わない。
この沈黙が怖い。でも、今日は逃げない。
「神崎くんは、いつも私を見ていますよね」
「うん」
即答。俺の方が詰まった。
「否定しないんですか」
「してないから」
「……どうしてですか」
「危ないから」
「私が?」
「うん」
「そんなに危なっかしいですか」
「かなり」
真顔で言われた。腹立つ。
でも、たぶん事実だ。俺は少しだけ身を乗り出した。
「じゃあ、見ていてくれるんですか」
言った瞬間、凪の目がわずかに揺れた。本当にわずかだった。
でも、揺れた。やった。
たぶん、今のは効いた。凪は静かに俺を見たまま、ゆっくり答えた。
「見てる」
「いつまで?」
「見えなくなるまで」
「……それは、怖いです」
「怖がらせたいわけじゃない」
凪の声は低く、静かだった。
「隠れても、分かるから」
心臓が跳ねた。その言葉は、ミナに向けられているはずだった。
でも、朝比奈湊ごと見つけられているような気がして、背中が熱くなる。
「神崎くんは、何でも分かるんですね」
「全部は分からない」
「そうですか?」
「うん」
凪は少しだけ目を伏せた。
「でも、嫌な時の顔は分かる」
胸が締めつけられた。凪の前では、下手な仕掛けが全部溶ける。
誘惑しているつもりだったのに、気づけば本音の近くに立たされる。
「じゃあ、今は?」
俺は聞いてしまった。凪が俺を見る。
「嫌じゃない顔」
息が止まった。嫌じゃない。
それは、俺がノートに何度も書いて、何度も消せなかった言葉だ。凪に言われると、逃げ場がなかった。
「……勝手に決めないでください」
「違った?」
「違わない、かもしれません」
答えた瞬間、自分で驚いた。何を言っているんだ。
これは作戦だ。でも、凪は静かに頷くだけだった。
「なら、よかった」
その声に、なぜか胸が少しだけ緩んだ。俺は慌てて立ち上がった。
これ以上ここにいたら、どちらが仕掛けているのか分からなくなる。
「もう行きます」
「うん」
「追いかけないんですか」
「追いかけてほしい?」
「違います」
即答したのに、凪は少しだけ口元を緩めた。笑った。
ほんの少し。それだけで、俺は完全に負けた気分になった。
「神崎くん、ずるいです」
「うん」
「否定してください」
「できない」
俺は図書室を出た。廊下に出た瞬間、顔が熱いことに気づいた。
最悪だ。俺は今日、三人を落としに行ったはずだ。
なのに、三人に三回ともこっちが揺らされている。朔は「本気にするやつがいる」と言った。
陽斗は「俺だけ?」と聞いた。凪は「嫌じゃない顔」と言った。
何だこれ。作戦のはずなのに、こっちの心臓がもたない。
****
空き教室に入ると、俺はすぐにミナ計画ノートを開いた。
今日の成果。
桐生朔。
近距離で勉強を教えてもらう。
「安心します」で反応あり。
耳が赤い。
たぶん効いた。
瀬名陽斗。
名前呼び成功。
野菜ジュースを渡した。
「俺だけ?」と聞いた。
かなり効いた。
神崎凪。
見ていてくれるのか、と聞いた。
目が少し揺れた。
「嫌じゃない顔」と言われた。
危険。
俺はそこまで書いて、深く息を吐いた。
陥落度。
桐生朔、六十パーセント。
瀬名陽斗、八十パーセント。
神崎凪、判定不能。
自分。
かなり危険。
書いてから、頭を抱えた。自分を項目に入れるな。
俺は落とす側だ。落ちる側ではない。
今日の勝敗。
作戦は成功。
ただし、自分も照れたので引き分け。
いや、復讐としては勝ち。
たぶん勝ち。
俺はペンを握ったまま、しばらくノートを見つめた。あいつらは反応した。
間違いなく、反応した。ミナを意識している。
ミナに揺れている。俺が作った女の子に、少しずつ落ちている。
そう思えば、勝ちのはずだ。それなのに、胸の奥が妙に落ち着かない。
俺は最後に書いた。次は、もっとはっきり試す。
桐生朔には、私だから特別なのか聞く。瀬名陽斗には、嫉妬するか試す。
神崎凪には、急にいなくなったら寂しいか聞く。それで、三人がミナに落ちた証拠を取る。
書いた瞬間、顔が熱くなった。でも、もう後には引けない。
復讐は次の段階に入った。勝ちに行く。
今度こそ、俺が勝つ。
****
放課後、校門へ向かう途中で、三人がなぜか同じ場所にいた。朔は俺を見ると、少しだけ目をそらした。
陽斗は野菜ジュースをまだ持っていた。凪はいつも通り静かだが、図書室で見た小さな笑みの余韻が残っている気がした。
「帰るのか」
朔が言った。
「はい」
「今日、やけに元気だったね」
陽斗が笑う。
「元気というか、変だった」
凪が静かに付け足した。
「変ではありません」
三人が、ほぼ同時に俺を見た。その視線が妙に優しくて、俺は思わず一歩下がりそうになった。
でも、下がらなかった。
「また明日」
俺はミナとして笑った。すると、三人が少しだけ遅れて返した。
「また明日」
「またね、ミナちゃん」
「うん、また」
その声を背中に受けながら、俺は校門を出た。勝っている。
たぶん。俺は勝っている。
なのに、帰り道で胸がずっと熱かった。
****
その頃、校門の内側では、三人が黙って立っていた。陽斗が先に口を開く。
「今日、湊、仕掛けてきたね」
朔は額に手を当てた。
「あいつ、分かってやってるのか」
「分かってないところもあると思う」
凪が静かに言った。
「半分は作戦。半分は本音」
陽斗は野菜ジュースを見下ろして、小さく笑った。
「俺だけ? って聞いた時、めちゃくちゃ焦ってた」
「お前も焦ってただろ」
「うん。焦った」
朔は少しだけ目を伏せた。
「安心するとか、軽く言うなよ」
「本気にした?」
陽斗が聞くと、朔は睨んだ。
「うるさい」
凪は二人を見ずに、校門の先を見ていた。
「次、もっと来る」
「だよね」
陽斗が笑った。でも、その顔は軽くなかった。
「受けるって決めたしね」
朔は静かに頷いた。
「ああ。ただし、泣かせる方向には行かせない」
凪も短く言った。
「逃げ道は残す」
三人はそれ以上、何も言わなかった。もちろん俺は、そんな会話を知らない。
****
俺は家に帰って、ミナ計画ノートの最後にこう書いた。
今日の結論。
三人とも、かなりミナを意識している。
次で決める。
証拠を取る。
そして、最後にネタバレして勝つ。
……はず。
俺は「はず」の二文字を見つめて、少しだけ唇を噛んだ。
もう、ただの仕返しではない。でも、勝ちたい。
勝たないと、俺が俺のままじゃ駄目だったみたいで、悔しいから。
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