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■番外編4「澪先生は全部知っていた」
朝比奈澪は、教師である。教師なので、生徒の相談には真面目に乗るし、提出物の期限は守らせるし、職員会議では一応ちゃんとした顔をしている。
ただし、従弟の朝比奈湊が絡むと、話は少し変わる。
あの子は昔から、妙なところで我慢がうまかった。嫌なことを嫌と言えないわけではない。
むしろ口は悪いし、怒る時は怒るし、反射で「うるさい」「ばか」「近い」くらいはすぐ言う。
でも、本当に痛いところを突かれた時ほど、湊は笑って流す。笑って、ツッコミに変えて、空気を壊さないようにする。
それが一番、澪には危なっかしく見えていた。
「湊って、女だったら絶対モテるよな」
その言葉を、澪は直接聞いたわけではない。でも放課後、進路相談室に来た湊の顔を見た瞬間、だいたい何があったか分かった。
湊は椅子に座るなり、机のボールペンを意味もなく転がした。あれは、泣きそうなのをごまかしている時の癖だ。
「で、何があったの。顔がメロンパンに負けた人みたいになってる」
「そのたとえ、教師としてどうなんだよ」
「教師としてじゃなくて従姉妹として言ってるからセーフ」
「アウトだろ」
軽口を返す声は、いつもの湊だった。でも、目が違った。
ちゃんと怒っている。ちゃんと傷ついている。
なのに、まだ自分でその傷を笑いに変えようとしている。
だから澪は、少しだけ背中を押すことにした。
「いっそ女になって騙してやりたい」
湊がそう言った瞬間、澪は思った。あ、来た。
これは、逃がしてはいけない爆発だ。
誰かに復讐しろという意味ではない。でも湊は、自分が傷ついたことに、ようやくちゃんと腹を立てた。
それは大事なことだった。
「本当にやる?」
「……は?」
湊はあの時、心底ぎょっとした顔をした。少し可哀想だった。
でも、かなり面白かった。
澪は机の引き出しから黒いノートを取り出した。あれは、実は前から用意していた。
湊がいつか「もう嫌だ」と言える日が来たら、何か形にしてやろうと思っていたからだ。
まさか女装復讐ノートになるとは思っていなかったが、人生というものはだいたい予定通りにいかない。
「ミナ計画」
「勝手に決めるな」
「名前はミナ・クロフォード。湊と音が近いし、クロフォードはおばあちゃんの旧姓だから、完全な嘘でもない」
「待て待て待て。なんでそんな具体的なんだよ」
「湊がいつか爆発すると思って、三パターンくらい考えてた」
「身内に一番やばい奴がいた」
その日の湊は、怒っていて、恥ずかしがっていて、でも少しだけ目が前を向いていた。
それで十分だった。
問題は、三人の方である。
****
翌日。
澪は、職員室の窓から教室へ向かう三人を眺めていた。
桐生朔。瀬名陽斗。
神崎凪。
全員、湊を見る目が分かりやすすぎる。本人たちは隠しているつもりらしいが、教師から見ると全然隠れていない。
朔は、湊が笑っている時より、笑う直前の顔を見ている。
陽斗は、湊が近くにいるだけで明らかに機嫌がいい。
凪に至っては、湊の呼吸まで見ている。
怖い。
少し怖いが、あれはあれで本気だ。
澪は思った。
この三人、たぶん初日で気づくな。
そして予想通り、ミナ・クロフォードが教室に入った初日。
湊は完璧に別人を演じているつもりだった。
歩き方が湊。目をそらすタイミングが湊。
口悪く言い返すのを飲み込んでいる顔が湊。
教師としては、少し頭を抱えたくなるくらい朝比奈湊だった。
教室の後ろで、凪が一瞬だけ目を細めた。
陽斗は口を半開きにして固まったあと、何かを飲み込むように笑った。
朔は、目だけで「何してんだ、あいつ」と言っていた。
澪は教壇に立ちながら、内心で笑った。
はい、終了。
ミナ計画、開始三十秒で三人にはバレました。
でも、誰も言わなかった。
そこが、澪には少し意外で、少しだけ安心だった。
普通なら、あの年頃の男子はもっと雑に暴く。
「朝比奈だろ」とか、「何やってんだよ」とか、笑ってしまってもおかしくない。
でも三人は黙った。
湊が必死にミナでいようとしているのを見て、それを壊さないことを選んだ。
澪はそれで、少しだけ彼らを見る目を変えた。
****
更衣室の時もそうだった。
体育前、女子たちに連れられていく湊の顔を見た瞬間、澪は「あ、詰んだ」と思った。
一応、見学扱いの準備はしていた。しかし湊がどのタイミングで抜けるかまでは、本人の判断に任せていた。
任せた結果、完全に固まっていた。
あの子は本当に、肝心な時ほど真面目に詰む。
澪が助けに行こうとした時、先に動いたのは朔だった。
「朝比奈先生が呼んでる」
嘘ではない。澪は実際に呼ぶ予定だった。
ただ、朔のタイミングが完璧すぎた。
陽斗は湊を準備室へ誘導し、凪は廊下の人の流れを見ていた。
それを見て、澪は職員室の陰で小さく呟いた。
「……あー、これは復讐じゃなくて告白待ちだわ」
湊は全然気づいていなかった。
そこがまた、あの子らしい。
****
スカート危機の日、澪は渡り廊下の少し離れた場所にいた。
強風。女子制服。スカートに慣れていない湊。どう考えても危ない。
澪が声をかける前に、陽斗が前に立った。朔が上着を投げた。
凪が周囲の視線を消した。
連携がうますぎる。教師としては褒めたい。
従姉妹としては、少しだけ複雑だった。
あの子はきっと、こう思っている。
ミナだから守られた。女子だと思われているから優しくされた。
でも違う。
あの三人は、湊だから守っている。
ただ、それを澪が言っても意味がない。
湊自身が気づかないと、あの傷はたぶん解けない。
だから澪は、あえて余計なことを言わなかった。
****
体調不良の日だけは、少し迷った。
朝、湊の顔色はかなり悪かった。
「本当にきつかったら言いなさい。復讐より身体が大事」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
湊は分かっていなかった。
案の定、学校でも無理をした。
けれど三人は、湊のプライドを折らない形で助けていた。
陽斗は飲み物を置くだけ。朔は人目の少ない席へ誘導するだけ。
凪は小テストの負担を減らすだけ。
保健室へ引っ張らない。大丈夫かと騒がない。けれど、放置もしない。
澪は廊下からそれを見て、少しだけ目を伏せた。
あの三人は、ちゃんと学んでいる。
湊が嫌がることを避けようとしている。前に傷つけた言葉の意味を、たぶんまだ完全には分かっていない。
でも、分かろうとはしている。
なら、あとは湊次第だ。
****
男子トイレ事件の時、澪はさすがに笑いかけた。
いや、笑ってはいけない。教師として笑ってはいけない。
しかし、うっかり男子トイレに入るのは湊すぎる。
癖で動くとそうなる。詰めが甘い。とても甘い。
ミナ計画ノートに絶対書いている。
今日の事故、男子トイレに入った、終わり。
そんな短文が浮かんで、澪は職員室で咳払いをしてごまかした。
ただ、その時も三人は動いた。
陽斗が人を散らし、朔が入口を塞ぎ、凪が脱出の合図を出した。
完璧だった。完璧すぎて、湊がそろそろ疑うだろうと思った。
実際、そのあたりから湊の顔が少し変わり始めた。
復讐している顔ではなく、分からなくなっている顔。
嫌いだと思っていた相手の優しさを、どう扱えばいいのか分からない顔。
澪はそれを見て、少しだけほっとした。
湊の中で、ちゃんと何かが動いている。
****
そして復讐実行にあたる日。
澪は、廊下の向こうで三人がそれぞれ湊に試されているのを、教師らしく見ないふりをしていた。
見ないふりをしていたが、だいたい見えていた。
朔は耳まで赤くしている。陽斗は嫉妬を隠せていない。
凪は静かに重い。
湊は勝った顔をしている。
勝っていない。
全然勝っていない。
澪は心の中で手を合わせた。
頑張れ、湊。たぶん明日、盛大に爆発する。
****
その翌日、湊は三人を屋上へ呼び出した。
澪は直接その場にはいなかった。
さすがに、そこに教師が出るのは違う。
これは湊と三人の問題だ。
澪が仕組んだのは入口まで。
その後に何を言い、何を謝り、何を受け取るかは、彼ら自身がやることだった。
だから澪は、職員室で書類をまとめながら、少しだけ落ち着かない時間を過ごした。
放課後の校舎は静かだった。
屋上から声は聞こえない。
でも、なんとなく分かった。
湊は怒っただろう。恥ずかしがっただろう。
たぶん「最悪」と言っただろう。
それでいい。あの子は、ちゃんと怒った方がいい。
傷ついたことを、なかったことにしない方がいい。
しばらくして、階段を下りてくる足音が聞こえた。
澪が廊下を見ると、湊が一人で歩いていた。
ウィッグは外され、鞄に突っ込まれている。
女子制服のままなのに、顔はもうミナではなかった。
朝比奈湊だった。
怒っていて、恥ずかしがっていて、少し泣きそうで。でも、どこか軽くなっていた。
澪は声をかけなかった。
今声をかけたら、湊はたぶん「見んな」と言う。
だから見ないふりをした。
その背中が見えなくなってから、澪は小さく笑った。
「おかえり、湊」
****
翌日。
湊は男子制服で登校した。
澪は廊下の窓から、その姿を見た。
少し曲がったネクタイ。いつも通りの乱暴な歩き方。
でも、前より少しだけ顔が上がっている。
教室の前で一瞬だけ止まったあと、湊はドアを開けた。
三人が彼を見た。陽斗が笑った。
朔が少しだけ目を伏せた。凪が静かに頷いた。
湊は照れたように顔をそらしながら、席へ向かった。
澪はその光景を見て、ようやく安心した。
復讐は失敗した。
でも、それでよかった。
湊は三人を騙せなかった。
けれど、三人は湊をちゃんと見ようとした。
可愛いからではなく。
女っぽいからではなく。
ミナだからでもなく。
湊だから。
その全部が、少しずつ伝わればいい。
****
昼休み、湊が職員室へプリントを持ってきた。
澪は机で作業をしていた。
「澪」
「先生と呼びなさい、学校では」
「ミナ計画の時点で教師の威厳は死んでる」
「痛いところを突くね」
湊はプリントを置いた。
それから、少しだけ間を空けて言った。
「……ありがとな」
澪は顔を上げた。
湊は目をそらしている。耳が少し赤い。
「何が?」
「色々」
「色々ね」
「聞き返すな。二度と言わない」
「はいはい」
澪は笑った。
湊はすぐに不機嫌そうな顔をした。
「あと、ノートのタイトル、最悪だからな」
「ミナ計画ノート?」
「声に出すな!」
「可愛いタイトルじゃん」
「可愛いって言うな」
「はいはい。湊らしいタイトルだよ」
湊は一瞬、言葉に詰まった。
そして、目をそらしたまま言った。
「……それなら、まあ」
澪は笑いそうになった。
でも、笑いすぎると湊が怒るので、少しだけにしておいた。
「ねえ、湊」
「何」
「自分を嫌いになるより、自分を好きな人たちに囲まれて困ってる方が、健康的だと思わない?」
湊はものすごく嫌そうな顔をした。
「その言い方、むかつく」
「でも?」
「……否定はしない」
それだけ言って、湊は職員室を出ていった。
廊下の向こうには、三人がいた。
偶然を装っているが、明らかに待っている。
湊が「何でいるんだよ」と言う。陽斗が笑う。
朔が何か短く返す。
凪が静かに隣へ並ぶ。
湊は文句を言いながら、その真ん中へ戻っていく。
澪はそれを見て、満足した。
ミナ計画は、復讐計画としては失敗だった。
でも、湊が自分の傷に気づき、ちゃんと怒り、ちゃんと見てもらうための計画としては、悪くなかったと思う。
もちろん本人に言えば、全力で否定するだろう。
だから、澪は言わない。
ただ、自分の手帳の端に小さく書いた。
ミナ計画。
結果。
復讐失敗。
恋愛方面、開始。
湊、少し回復。
備考。
あの三人、思ったより本気。
そして、最後に一行。
まあ、いいんじゃない?
澪はペンを閉じた。
廊下の向こうから、湊の声が聞こえる。
「近いって言ってるだろ、瀬名!」
「ごめん、でも今日は校門までいい日?」
「まだ許可してない!」
「検討は?」
「……検討」
「やった!」
「喜ぶな!」
澪は吹き出しそうになりながら、書類に視線を戻した。
教師としては、少しだけ頭が痛い。従姉妹としては、かなり面白い。
でも、何より。
湊がちゃんと怒って、ちゃんと笑っているなら。
それで十分だった。
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