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■番外編3「可愛い禁止令」
ミナ・クロフォード騒動が終わってから、俺の周囲にはいくつかのルールが増えた。距離を勝手に詰めすぎない。嫌がらせっぽい言い方をしない。
重いことを急に言わない。男子制服を見て変な顔をしない。そして今日、俺は新しいルールを追加することにした。
「可愛いって言うの禁止」
昼休みの教室で俺がそう宣言すると、目の前の三人が同時に固まった。桐生朔は、持っていた箸を止めた。
瀬名陽斗は、焼きそばパンを口に入れる直前で止まった。神崎凪は、紙パックの飲み物にストローを刺す手を止めた。
全員、反応が分かりやすすぎる。
「……何でそこで世界が終わったみたいな顔するんだよ」
「湊、それは」
「それは?」
「かなり難しい」
「難しくない。言わなきゃいいだけだろ」
「言葉にしなければいいのか」
「顔にも出すな」
「それは難しい」
「お前もか」
「難しい」
「お前まで即答するな」
俺はため息をついた。分かっている。三人が俺をからかうつもりで「可愛い」と言っていたわけじゃないことは、今なら前より少し分かる。
でも、まだ完全に平気になったわけではない。可愛い。その言葉は、俺の中でまだ少しだけ引っかかる。
褒め言葉だと分かっていても、男の俺から何かをずらされる感じがする時がある。だから、今日はちゃんと練習してもらう。
「俺を褒める時に、可愛いを使うな」
陽斗が手を挙げた。
「じゃあ、好きは?」
「急に重いから駄目」
「かっこいいは?」
「それは……内容による」
「内容」
「明らかに無理して言ってるやつは駄目」
「湊らしい」
俺は少し黙った。
「……それは、まあ、いい」
三人の目が一瞬だけ光った。しまった。今のは、かなり大きなヒントを与えてしまった。
陽斗が身を乗り出す。
「湊らしいって言えばいいんだ」
「連発したら禁止」
「湊ルール、細かい」
「文句あるなら褒めなくていい」
「褒めたい」
「だから重い」
陽斗は口を押さえた。我慢している。たぶん「可愛い」と言いかけたのだろう。
俺は睨んだ。
「今、言おうとしたな」
「言ってない」
「顔が言ってた」
「顔にも出すなって難しい」
「努力しろ」
「守る」
最近、陽斗は「努力する」を「守る」に言い換えるようになった。成長している。犬も育つ。
朔は少し考え込んでいた。こういう時の朔は、妙に真面目だ。
「じゃあ、朝比奈」
「何」
「今日のネクタイは、ちゃんとしてる」
「褒め方が生活指導」
「事実だろ」
「いや、まあ、曲がってないけど」
「昨日より整ってる」
「昨日どれだけひどかったんだよ」
「かなり」
「そこはぼかせ」
朔は少しだけ目を細めた。
「でも、ちゃんと直してきたのは偉いと思う」
偉い。その言葉に、少しだけ胸が変な感じになった。
可愛いじゃない。女っぽいでもない。ちゃんと、俺の行動を見て言っている。だから、反応に困った。
「……そういうのは、まあ、あり」
朔の耳が少し赤くなった。
「そうか」
「何でお前が照れるんだよ」
「照れてない」
「赤い」
「暑いだけだ」
「その言い訳、俺のやつだろ」
俺が言うと、朔が少しだけ笑った。それがまた少し悔しい。
陽斗が焦ったように身を乗り出した。
「俺も。俺も練習する」
「競争じゃない」
「でも言いたい」
「言い方に気をつけろよ」
「うん」
陽斗は俺をじっと見た。見すぎだ。
「見るな」
「あ、ごめん」
「謝るのは早くなったな」
「湊ルールを守りたいので」
「言い方」
「え、だめ?」
「だめじゃないけど、ちょっとむずがゆい」
陽斗は少し悩んだあと、真剣な顔で言った。
「湊は、ちゃんと怒れるようになった」
胸が、どきっとした。思っていたより、ちゃんとした言葉だった。
「前は、嫌なのに笑ってたでしょ」
陽斗の声が少しだけ落ちる。
「でも今は、これは嫌、これは駄目って言ってくれる。それ、俺は嬉しい」
「……嬉しいのかよ」
「うん。俺に言ってくれるの、嬉しい」
「また重い」
「ごめん。でも本当」
俺は返事に困って、焼きそばパンの袋をいじった。可愛いと言われるより、ずっと困る。
でも、嫌じゃない。ちゃんと俺が変わったところを見ているから。
「……今のは、あり」
小さく言うと、陽斗の顔が一気に明るくなった。
「やった」
「喜びすぎるな。次」
俺は凪を見た。凪はすでに俺を見ていた。怖い。
「神崎は、何かあるか」
「ある」
「即答かよ」
「うん」
「じゃあ言ってみろ。可愛いは禁止な」
「湊は、逃げなくなった」
凪の声は静かだった。そのせいで、言葉がまっすぐ届く。
「ミナの時は、よく逃げてた」
「まあ、あれは逃げるだろ。毎日事故ってたし」
「うん。でも今は、怒りながら残る」
俺は黙った。
「怒って、文句を言って、条件を出して、それでも来る」
凪の目が少しだけ柔らかくなる。
「それが、湊らしい」
ずるい。今のはずるい。
俺がさっき許可した「湊らしい」を、きれいに使ってきた。しかも、内容が少し刺さる。
「……お前、そういうところ本当にずるいな」
「あり?」
「ありだけど、ずるい」
「分かった」
「何が分かったんだよ」
「ずるいのは控える」
「控えられるのか、それ」
「努力する」
「守れ」
「守る」
凪は真顔で頷いた。俺は深く息を吐いた。
何だこれ。ただ「可愛い禁止」と言っただけなのに、三人が妙に真面目に褒めてくる。
そして、たぶん俺はそれが嫌じゃない。むしろ、少し嬉しい。それが悔しい。
陽斗がこっそり口を開きかけた。
「でも、湊、今の反応ちょっとか――」
「瀬名」
朔が低く止めた。陽斗は両手で口を押さえた。
「危なかった」
「今のは完全にアウトだった」
「ごめん。湊らしい、に変換しようとしたけど間に合わなかった」
「変換処理が遅い」
俺が言うと、陽斗はしょんぼりした。犬っぽい。いや、犬って言うとまた喜ぶから言わない。
朔が腕を組んだ。
「つまり、外見をそのまま言うより、行動や考え方を言えばいいんだな」
「急に分析するな」
「ルールを理解した方が守れる」
「真面目か」
「真面目だ」
朔は少し考えてから言った。
「朝比奈は、嫌なことをちゃんと嫌だと言うようになった。前より面倒くさくなったけど、その方がいい」
「褒めてるのか、それ」
「褒めてる」
「面倒くさいは余計だろ」
「でも事実だ」
「だから事実なら言っていいと思うな」
朔は少しだけ笑った。俺も、少しだけ笑ってしまった。
陽斗がすぐ反応する。
「笑った」
「笑ってない」
「今の笑い方、すごく」
「瀬名」
「湊らしい!」
ギリギリだった。すごく可愛い、を飲み込んだのが顔に出すぎている。
俺は額を押さえた。
「お前、下手すぎる」
「でも止まった」
「止まったのは偉い」
言ってから、しまったと思った。陽斗の顔がぱっと輝く。
「偉い?」
「今のは撤回」
「湊に偉いって言われた」
「撤回!」
「俺、今日はもうこれで頑張れる」
「重い!」
陽斗は嬉しそうに笑っていた。朔が少し呆れたように見ている。凪は静かに紙パックを飲んでいる。
平和だ。たぶん。たぶん、これはかなり平和な昼休みだ。
****
その日の放課後、なぜか三人はさらに練習を続けると言い出した。場所は空き教室。
俺は机に座り、三人が向かいに並んでいる。
「何この面接」
「練習」
凪が言った。
「何でそんなにやる気なんだよ」
「湊に嫌な思いさせたくないから」
陽斗が手を挙げる。
「それは分かるけど、面接形式にする必要はないだろ」
「実践で失敗するよりいい」
朔が真面目な顔で言う。
「お前ら、本当に変なところで真面目だな」
俺は諦めて椅子に座り直した。
「じゃあ、一人一個ずつ。可愛い禁止。女っぽい禁止。あと、褒めてるつもりで俺を女子カテゴリに入れるのも禁止」
三人が頷く。
まず朔。朔は少し考えてから言った。
「朝比奈は、負けず嫌いだ」
「褒めか?」
「褒めだ。諦めないという意味で」
「最初からそう言え」
「じゃあ、朝比奈は諦めないところがいい」
胸が少し熱くなる。真っすぐすぎる。俺は視線を逸らした。
「……あり」
朔が小さく頷いた。
次は陽斗。陽斗は深呼吸した。
「湊は、一緒にいると楽しい」
「それは前にも言ってたな」
「でも、前よりちゃんと言ってる」
「ちゃんと?」
「うん。からかいたいんじゃなくて、湊がいると本当に昼休みが楽しい。話してても、怒られてても、近いって言われても、楽しい」
「怒られてても楽しいのはどうなんだよ」
「湊が俺にちゃんと反応してくれるから」
また重くなりかけた。でも、今回はぎりぎり踏みとどまっている。
俺は少しだけ頷いた。
「……まあ、あり」
陽斗が机に突っ伏しそうになった。
「やった」
「崩れるな。次、神崎」
凪は俺を見た。目が合う。やっぱり怖い。
「湊は、隠そうとしても本音が残る」
「それは褒めか?」
「褒め」
「どこが」
「だから、見つけられる」
「重い」
「うん」
「でも?」
「見つけても、勝手に触らないようにする」
俺は一瞬、言葉を失った。凪は静かに続けた。
「湊の本音を見つけても、それを俺のものみたいに扱わない」
胸の奥が、きゅっとした。それはたぶん、すごく大事な言葉だった。
凪は俺を見すぎる。何もかも分かっているみたいで怖い。
でも、分かっても勝手に決めない。そこを守る、と言っている。
「……今のは、あり」
凪は頷いた。
「よかった」
俺は椅子の背にもたれた。顔が熱い。
何だこの時間。可愛いと言われるより、ずっと心臓に悪い。
「お前らさ」
三人が俺を見る。
「可愛いって言わない方が、破壊力ある時あるぞ」
「破壊力?」
陽斗が目を丸くした。
「こっちの話」
「つまり、成功か」
朔が少しだけ口元を上げた。
「調子に乗るな」
「また練習する?」
凪が静かに言う。
「しなくていい」
「でも、必要なら」
「必要なら、な」
言ってから、俺は少しだけ考えた。そして、付け足した。
「でも、今日のは」
三人が待つ。俺は視線を落とした。
「嫌じゃなかった」
教室の空気が止まった。陽斗が両手で口を押さえた。朔が目をそらした。
凪が少しだけ目を細めた。
「言うなよ」
俺は先に釘を刺した。
「今、何か言ったら全員アウトだからな」
陽斗が必死に頷く。朔も黙っている。凪も何も言わない。
よし。全員、守った。
えらい。いや、えらいなんて言ったら陽斗がまた喜ぶから言わない。
****
帰り道。四人で校門まで歩いた。
夕方の光が、廊下の窓から差し込んでいる。
「湊」
「何」
陽斗が言った。
「今日のルール、グループにまとめとく?」
「やめろ」
「可愛い禁止令」
「タイトルにするな」
朔が静かに言う。
「禁止というより、言い換え訓練だろ」
「真面目に命名するな」
凪が言った。
「湊らしい褒め方講座」
「講座にするな!」
三人が少し笑った。俺も、少しだけ笑ってしまった。
****
家に帰って、俺はミナ計画ノートの空いたページを開いた。もうミナ計画は終わっている。
でも、このノートはなぜか番外記録帳になりつつある。
今日の記録。
三人に可愛い禁止令を出した。
結果。
桐生朔:ちゃんと行動を見て褒める。真面目。たまに生活指導。
瀬名陽斗:可愛いを飲み込むのが下手。でも頑張っている。犬。
神崎凪:言葉が静かに重い。でも、今日は少しよかった。
今日の結論。
可愛いと言われなくても、ちゃんと褒められると照れる。むしろ、そっちの方が照れる。
危険。
俺はペンを止めた。少し迷ってから、最後に一行足した。
でも、嫌じゃなかった。
スマホが鳴った。グループ名がまた変わっている。
【可愛い禁止令対策本部】
俺は即座に打った。『解散しろ』
陽斗。『今日、俺けっこう守れたよね?』
朔。『瀬名は三回言いかけた』
凪。『でも止まった』
陽斗。『褒められた』
俺。『褒めてない』
凪。『湊らしい』
俺は画面を見つめた。ずるい。
それは今日、許可した言葉だ。
俺は少しだけ笑って、返信した。『それも使いすぎ禁止』
陽斗。『湊ルール追加』
朔。『了解』
凪。『守る』
俺はスマホを伏せて、布団に倒れた。
可愛いと言われるのは、まだ少し怖い。でも、今日の三人は、俺を別の何かにずらさずに褒めようとしていた。
朝比奈湊を、朝比奈湊のまま見ようとしていた。
それなら、まあ。少しくらいなら。
明日も、練習に付き合ってやってもいい。
もちろん、可愛いは禁止だけど。
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