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第1話
「あれからもう三年かあ…」
なんてことない夕焼け空を眺めながら、一人ごちる。
三年という月日、俺は何度この駅を訪れたのだろう。あの出会いがなければきっとこんなに「西新宿」という駅に訪れることもなかった。
今ではお馴染みになったコンビニも握りしめているお土産のデパ地下プリンも、あの出会いがなければ全く縁のなかったことだ。
あの雨の日だった。
俺が珍しく気取ったジャズバーなんて、似合いもしないのに立ち寄った日。
俺を同じ高校の後輩だからと可愛がってくれている会社の上司から「たまには行ってみろ」と、もらった一枚の名刺。
この名刺と上司の名前を出せば高級なウィスキーやワイン等、そのバーにあるアルコール類は一杯だけだが無料になると。どうやら俺の上司の行きつけのバーらしく、出版業界の人間がよく顔を出す店らしい。
そう、俺は一応出版業界の中にカテゴライズされる、老舗印刷会社の社員。
印刷会社だから会社の仕事は本などの印刷をし、今は紙以外の媒体ありとあらゆるものを刷る。そういう会社なので多種多様な業種の会社と幅広くつきあいがある。出版業界から教育や文化系、街の飲食店、スーパーマーケット等も取引先だ。
その中で俺に声をかけてきた上司は仕事上、出版会社と深くつきあいがあり、ちょくちょく出版会社の人と酒を交わしている。
毎日パソコンと戦っている平社員の俺とは違う。高校卒業して、大学行かずに専門学校行き、二十歳で入社し、五年。まだなのか、もう五年なのか。
「七瀬もこういう所でたまには顔を売ってこい」…そう言われた気がする。うだうだと五年も同じような仕事をただ繰り返すだけの俺を見てそう進言してくれたのか、ただの余興なのか真意はわからないが、俺はその提案にのる気満々で嬉々として受け止めた。
ジャズなんて聞かない。
今もジャズはよくわからない。
でも三年前よりは聞いている。
人の趣味嗜好は時がたつにつれ変わることがある。自然にか、それとも何かのきっかけがあってか。ーー俺は後者だ。
俺とジャズを結び付けた糸、すべてはあの雨の日に始まった。
「今日は一人かな、それとも違うのかな」
俺はただ歩く、目的地に向かって確実に歩を進めていく。たった一人の姿を思い浮かべながら、夕方五時半の西新宿を歩く。
三年間ずっと脳内に染みついている、俺の心に身体に刻み込まれた人。
きっと彼はいつものマンションに居る。八階建てのそこそこの高いマンションの最上階に居る。
そう思うと少しだけ体温が上がった気がする…あくまで俺の体感なのだが。三年通い続けた道、三年前までは知らなかった道。
ああ、あの人が居る。
それだけでいい。その事実だけで俺は早足になる。
十代の頃に味わっていた恋愛の機微、その頃とはまた違った感じでやってきた感情。俺は十代の頃こんなにも相手を想うだけで胸が高鳴っただろうか。その頃はその頃で幼いながらも必死だった気がするけれど、今ほど体中を締め付けられる感覚はない。
あの人の所為なのか、はたまた自分の所為なのか。
今はどちらでもいい。ただあの人に会いたい。
男だとか女だとかどうでもいい。まぁ、昔の自分ならありえないと今の俺を見てドン引きするかもだが。
なにせ生まれてからずっと当たり前のように男ならば女を、女ならば男をという異性愛しか知らなかった。最初から違うなというのは俺にはなかった。
なのに、だ。
あの雨の日、俺は出会ってしまったのだ。
今でも憶えている。忘れることなんてない。洒落た聞き覚えのない音楽と、やけに美味いウオッカ、ワイン、ウィスキー。
つっけんどんでいて、低くつやのある声。少しオリエンタルで大人の男性の香り。
……先を急ごう。
あの人に会うために、今は最善の策をとろう。
待っててくれると嬉しいけれど、待っていてくれなくても来る時間は伝えてある。あの人は居る。
俺、七瀬晃司は東京の二十三区内、西新宿をひたすら移動中。できればあの人一人であることを願いながら。
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