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番外編「影の嗚咽」

※女性との性的な関係を匂わす描写があります。    目の前にある、盃に注がれた赤い血。  ただただ、おぞましかった。  ――飲みたくない。  かがり火の燃える地下室。呪師たちと城主の香本正信の影が揺れている。  そして、自分を見下ろす、同じ年頃の白い小袖を着た少年。  飲み下すしかなかった。  震える手で盃を取る。  火に照らされた赤い血に、自分の顔が映る。  唇にそっと盃を当てる。  傾ければ、鉄の匂いと何ともいえないえぐみが広がる。  えづくのを必死に堪え、一口飲み下した。  その瞬間、自分の中で何かが組み変わって形が変わった気がした。 『影の嗚咽(おえつ)』 「影様」  呼ばれて振り向く。侍女は俺の顔を見て、顔を赤らめた。  もともと、平凡な顔立ちだった。それが、十の時に蛇神の血を飲んだことで、徐々に変わっていった。  少しずつ、〝似てきている〟気もする。  正信は、「お前は器だからだ」と言った。  蛇神と同じ日、同じ時間に生まれた。それが何を意味しているのかはわからないが、生まれたその次の日から香本家へ引き取られてやってきた。  俺の役目は、一つだけ。  蛇神が覚醒するまでの影武者となることだった。  生まれたばかりの蛇神は弱かった。  蛇神が本当にいたことも驚きだったが、もっと驚きだったのは、正信がその存在を秘匿にしていたことだった。  なぜ表に出さず、民衆たちの目に触れさせないのか。  その理由は、正信を見ているうちにだんだんと分かっていった。 「あやつは利用できる。儂の役目は香本当主として、この白泰を守ること。そして、蛇神の力を使って繁栄させることじゃ」  そう言いながら、正信がやっていることは民に重税をかけ、蛇神の加護のおかげで潤っている白泰の利を香本家へ還元することだった。  白泰のためと言いつつ、やっていることは香本家のためだった。 「影よ」  影。  正信は俺をそう呼ぶ。  俺に名はない。  影としか呼ばれておらず、俺の存在を知るのも、正信とごく近しい側近たちだけだった。  明日、死んでもきっと記録にも残らないだろう。  普段は地下室に閉じ込められ、そこで日がな過ごす。飯を食い、戯れに白泰の歴史書物や蛇神に関する書物を読み、また飯を食い、日が暮れたら寝る。  そんな毎日。  外部との接触はほとんどない。  地下室と、正信の部屋への行き来だけ。正信は時折俺を自室へ呼んだ。  〝存在しない〟俺は、正信にとって唯一気が抜ける相手だったのかもしれない。  家臣たちにも明かさないことをぽろぽろとこぼすように正信は俺に語った。壁打ちより、生身の人間がいた方が良かったのだろう。  正信はそんな時ばかり俺を人間扱いした。  人生などそういうものだ。  その頃には、すでにそう思うようになっていた。  十五になった時のことだった。  ある日、正信の正室に呼ばれた。  何かと思って部屋へ行ってみれば、突然押し倒された。 「な、何を……」 「ふふ。お前は黙っていれば良いのよ」  そう言って、正室は俺の顔をうっとりと見つめながら口付けをしてきた。  頭が真っ白になった。  俺は嫁をとることはない。この世に〝存在しない〟から。それに地下室と正信の部屋との往復しかしない。  女子との触れ合いはこれが初めてだった。  そして、正室は俺を気まぐれに呼びつけるようになった。  正信にはくれぐれも口外しないように、口外すれば即座に首を刎ねる。そう言われたが、そもそも別に言いつける気もなかった。    愛とはなんなのだろうか。    正室は俺に愛を囁くように言ってくる。その言葉をそのまま言ってやれば、満足したように体をくねらせる。    生温かな呼気と水気がうっとおしかった。    ある日、気だるげに布団の上で横になった正室が、ぽろりとこぼした。 「お前は良い男だねえ」  良い男、というのはどういうことなのだろう。 「あの男は前の女の影ばかりを見て、ろくに抱いてくれもしない」 「身分も低い、卑しい女のどこが良いんだか」 「子を授かるのも大変だったわ」  そう吐き捨てる正室を、ぼんやりと見下ろす。 「忘れ形のあの小僧。どう始末しようかねえ」  憎々しげに言う正室が、すり、と寄り添ってくる。 「あの小僧を十五まで生かしておいたのは失敗だよ。目障りで仕方ない」  十五。  俺と同い年だ。  ぴくりと反応すると、おや、と正室が目を細めた。 「ああ、同い年か。……そういえば」  す、と正室が俺の前髪を払う。 「この傷がお前につくことになった原因は、あいつだったね」  その時、ぼんやりと思い出した。  十文字の傷。  幼い頃に、蛇神が怪我をしたというから、影武者として同じ場所に同じ傷をつくった。  その時、正信が珍しく顔を曇らせていたのを覚えている。  正信の嫡男が蛇神に魅入られたという。  正信は慌ててその嫡男に呪いをかけて、蛇神からその存在を隠した。  その嫡男の男の子は、幼名と共に記憶の一部を消された。  ――少し、俺と似ている。  存在しない俺。存在を半分消された嫡男。 「千代丸。いや、今は正一ね。正一……本当に憎い子だこと。母親に似たあの顔を見ると怖気が立つ」  正一。  その名前を、ぼんやりと頭の中で繰り返した。 「うちの子たちはおかげで正次と正三郎。一の文字はもらえない……。ああ、あの子達が可哀想に」  そう言った正室は、ふと俺の方を見た。 「……お前も可哀想にねえ。あの男は本当に酷いことをする」 「……何がです?」  正室は俺の顔を撫でながらそんなことを言った。 「お前は幼い頃にここへ引き取られたんだろう。母親はどんなにか無念だったろうね。私も人の親だから気持ちはわかるのさ」 「そう……ですか。母親……」  母親の名前も顔も知らない。けれども、叶うならばいつか会いたいと思っていた。 「お前の母親、口封じに殺されちまったんだろう? 兄もいたそうじゃないか。その兄もろとも。……ああ、お前に似ていれば、兄も男前だったのかねえ」  口封じに殺された。  その言葉が、がつんと頭を殴るようだった。 「……おや? 知らなかったのかい? 悪いことをしちまったね。聞かなかったことにしとくれ」  何も言えなかった。  ひどく、十文字の傷が痛んだ。  それから、正室の目を盗んで侍女たちに接触を図った。正室はああ見えて悪賢く勘が働く。だから、侍女たちを利用した。  そこで、いろいろなことを知った。  香本家の権力の歪み。  城内の勢力図。  城の図面。  白泰の実情。  俺の生まれた家。  正室を喜ばせる時と同じように迫れば、あっけなく侍女たちは顔を赤らめて秘密を教えてくれるようになった。  そして、知識がついてくると共に、これまで感じなかった感情が湧いてくるようになった。  怒り。憎悪。悲しみ。  根付き、膨らんでいく感情。  俺は静かに決意した。  正室にねだり、地下室へ置く書物を増やしてもらった。  時代や国を問わない神話のものや、政治、歴史の内容。  影武者として、より学びたいのです、そう言えば、正室は何も怪しがることなく書物を持ってきた。  地下室でひたすら書物を読み漁り、そして正信の部屋への行き来の時にはじっと城内の家臣たちの様子を観察する。  正信の重臣たち。その表情、声音、仕草までつぶさに観察して、誰が内心で不満を抱いているのかまで探った。  そして、機が熟した十七の時。 「正信様。お願いがあるのです」 「なんだ」 「蛇神が神として覚醒したら……私の影としての任を解いていただきたいのです」  正信は眉を顰めた。それはそうだろう。任が解かれる時。それはつまり俺が殺される時だ。  一目会うこともできなかった、母親と兄のことを思う。  俺は表情を引き締めた。 「影としての任をいただいたことは決して口外いたしません。生涯、香本家に――正信様に忠誠を捧げると誓います」 「……」  正信は何も言わない。  想定内だ。俺は正信に懐から取り出した紙切れを渡した。 「これはなんじゃ」 「謀反者の一覧にございます」 「な……」  正信は目を見開いた。  俺は畳み掛けた。 「私が生涯、貴方様をお支えいたします。正信様に拾っていただき、神の影という大役をいただいたご恩に報いて参ります。もしご不安でしたら、私に見張りをつけ、ご期待に添えなければその場で切り捨ててくださいませ」  まっすぐに正信を見つめる。正信はしばらくじっと俺の目を見つめた。 「……生涯、儂に捧げるか」 「はい」  即答した。  やがて、正信がふう、と息を吐いた。 「……二人、お前につける。儂の手足として、精進せよ」 「では」 「蛇神が覚醒した暁には、お前に名をやろう」  そして、俺は計画の第一歩を踏み出した。  ――翌年、蛇神が覚醒し、俺は『香本依峰』という名になった。  依峰になってまもなく、俺は一人の男と出会った。  城の廊下を歩いている時、不意に袖をつかまれた。 「……あ、あの」  澄んだ男の声がして振り返ると、そこには美しい顔立ちをした細身の男がいた。 「覚えているか……?」  そう言って俺を不安そうに見上げてくる顔には覚えがない。  関係を持ったことがある者だろうか、と思案したが、こんなに美しい男は知らない。  黒い瞳がまるで艶のある黒曜石のようだ。その瞳をどこかで見たことがあるような気がした。  ふと、その男がじっと俺の額を見ていることに気がついた。  ――あ。  その時、思い出した。  地下室。かがり火。呪師。背中に印を施されてのたうつ幼い子供。  蛇神に魅入られた、正信の嫡男だ。  正一。  蛇神に、執着された唯一の男。  その時、俺の中でかちりと音がして、計画のピースが組み上がった。  正一は俺と蛇神を勘違いしているようだった。幼い頃、山で迷っていた正一を助けた蛇神の額には、十文字の傷がついていた。だから、影武者として俺も傷をつけることになったのだが、それを見て正一はあの時助けたのは俺だと誤解していた。  正一は俺に対して初めから好意的だった。そして、色ごとには初心(うぶ)だった。  だから、比較的深い仲になるのは簡単だった。  神器を手に入れる算段は整っている。あとは、どのようにして蛇神の懐に潜り込むかだけだった。  正信を――香本家を潰す。  そして、そのために蛇神を殺す。    己の利益のためならば平気で神をも利用する愚かな人間。そして、利用されていることに気が付きながらも神罰を与えることすらしない愚神。何の疑念も抱かず、神に祈れば何もかもうまくいくと盲信している愚鈍な民衆たち。  この世に生きている者たちは、皆一様に醜い。  そう思っていた。だけど。 「なあ、依峰。お前、したいことはあるか」 「……したいこと?」  芝居小屋の楽屋。いつものように火鉢をつついていた時、不意に正一がそんなことを言った。  正一はふふ、と小さく笑う。 「ああ。俺は城から出られないが……でも、お前と一緒に日の下で花札をしたりなんかして遊びたいな」  正一は静かに火鉢を眺めながら、穏やかな笑みを浮かべている。その繊細な輪郭が薄闇の中、火に照らされていっそう儚く美しげにぼんやりと浮かび上がる。  蛇神に再び見つかることのないよう、正信は正一を城に軟禁している。  ふと、この男とは境遇がどこか似ていると思ったことを思い出した。 「花札か……良いな」  そう言って低く笑うと、正一が笑いかけてくる。 「依峰はそういうの、得意そうだよな」 「やったことはないが、少なくとも正一よりはうまい自信はある」 「おい、なんだよ」  そう言って笑ってから、正一ははたと気がついたような顔をした。 「花札、やったことないのか」  俺が頷くと、正一は目を丸くして、それから切なそうな顔で俺を見る。  ふと、手を握られた。 「……じゃあ、いつか花札をやろう」  そう言う正一の顔をまじまじと見る。    ――いつか、なんてものは永遠に来ない。  だって、俺は正一を蛇神のもとへやるつもりなのだから。  まっすぐにこっちを見てくる黒曜石の瞳を見つめる。  正一の澄んだ目には、俺しか映っていない。  ふと、胸の隅が軋んだ気がした。  そっと目を伏せる。 「……ああ」  ぐっと、その手を握りしめた。 「なあ、正一」 「なんだ?」  気がつけば、俺は思わず口を開いていた。 「お前は……この傷がなかったら、俺を好きにならなかったか」  薄暗い芝居小屋に、俺の問いがぽつりと落ちる。  ぱちっと火鉢が爆ぜた。  火鉢を見つめる。こうこうと赤く燃える木炭。  黒い炭に、あたたかな火が灯っている様子をぼんやりと見つめていると、そっと抱き寄せられた。 「何言ってるんだ。……俺は依峰、お前とこうしてる時間が好きなんだ」  その言葉に、ぐっと胸から迫り上がる何かがあった。  思わず息を詰めて、目を閉じる。  笑おうとした。  ……ちゃんと笑えただろうか、自分は。 「俺と恋人になってくれてありがとう、依峰」    まっすぐで、透き通った声。  落ち着く体温。  体がかすかに震えた気がした。 「……正一」  正一に向き直る。  その顔はやっぱり俺しか見ていない。  演じていたはずの恋人。  だけど、今は自然とそうしたいと思った。  正一の顎をそっと取ると、正一が少し顔を赤くして、嬉しそうに目を閉じる。  正一とは口付けしかしていない。これ以上触れると、綺麗な正一の体に俺の汚れが移ってしまうような気がして、触れられなかった。  交わりはいっそう相手の心を得るのに有効であるはずなのに、なぜかできなかった。  長いまつ毛が頬に当たる。  口付けを交わしながら、俺は正一と花札をして日の下で笑い合う姿を目に浮かべた。  芝居小屋の外では、月明かりに混じって、雪の気配がした。  ――渡したくない。  そんなことを一瞬でも思ってしまった自分に驚く。  胸に巣食う黒い炎と、そこに芽吹く小さな光。  この光は、きっと生まれない方が良かった。  それを見て見ぬふりをしながら、確実にやってくる雪の訪れに、俺は胸を震わせた。 ◆  炎の向こう。  巨大な白蛇に寄り添う姿を見て、俺は立ち尽くした。 「……お前と、もっと違う形で出会えたら、俺たちは……共にいられただろうか」  そのつぶやきは、炎の音でかき消される。  肩を寄せ合い、互いの存在を認め合っていた芝居小屋でのことを思い出す。  影としてでも、利用価値のある駒としてでもなく、俺自身を見てくれた。 『依峰』  そう名前を呼ばれるたび、胸の奥が温かく疼いた。 「依峰……ありがとう……」  血を吐き、火に焼かれながら微笑むその姿は、壮絶なまでに美しい。  ――愛している。  そう、言いかけて、ぐっと飲み込んだ。  今、そんなことを言う資格は、自分にはない。  踵を返す。  振り返らずに。  炎に飲み込まれていく城を後にしながら、俺は足を踏ん張って進んでいく。  意地汚く、それでも俺は生きようとしていた。それが人間という生き物なのかもしれない。 「ごほっ……。ごほっ……」  燃え盛る城から抜け出す。炎に飲まれる城の真上で、綺麗な満月が輝いている。  炎の熱で雪が溶けている。  血反吐を吐きながら、ひゅ、ひゅ、と必死に息を継ぐ。  ぽた、ぽた、と地面に水滴が落ちた。  ――ああ。俺は何を失ったんだろうか。  涙に濡れ、血に濡れながら、嗚咽(おえつ)をこぼす。  もし次に人に生まれ変われるならば。    ――正一と肩を並べて、馬鹿な話で笑い合いたい。  嗚咽は炎の音にかき消された。   『影の嗚咽』終

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