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おまけ① 淡い花の香り

 控えめなスマートフォンのアラーム音で、宮尾は目を覚ました。反射的に起き上がろうとして、体が妙に重いことに気づく。視線を落とすと、男の長い腕が自分の胴をしっかりと抱き込んでいた。足元には、黒ぶちの猫――アンリが丸まっている。  至近距離にある顔を見つめる。吉永は、この世の汚濁など何も知らなそうな穏やかな顔で眠っていた。繊細な睫毛が、なめらかな頬に長い影を落としている。愛しい男の高い体温に包まれて、その首筋の匂いを肺いっぱいに吸い込むと、「もう少しこのままでいたい」という甘い誘惑が頭をもたげた。  その時、部屋に小さな鳴き声が響いた。さっきまですやすやと寝ていたアンリが、ぱっちりと目を開けて、宮尾に向かって催促するように鳴いている。 「おはようアンリ。ご飯な」  宮尾は静かに、自分の上に乗った腕を退けた。名残惜しさを振り切り、温もりの詰まったベッドを抜け出す。  熱いシャワーを浴びて思考を覚醒させた後、皺ひとつないワイシャツに袖を通す。洗面台の前で髭を剃り、髪をミリ単位で整えるのが宮尾の毎朝の儀式だ。  どんなに数字を上げても、役職が付いても、オフィスには必ず誰よりも早く出社する。それは宮尾なりの矜持であり、魑魅魍魎が跋扈する不動産業界で生き抜くための武装でもあった。  ふと、洗面台の棚に置かれた高級そうなボトルに目が留まった。繊細なデザインのガラス瓶が数本、当然のような顔で特等席を占拠している。それを見た瞬間、宮尾の「仕事スイッチ」は強制的にオフになった。 (……元カノの遺物だとしても、いつまで置きっぱなしにしてるんだよ。捨てろよ、さっさと!)  心の中で、見えない敵に牙を剥きつつも、小さな疑念が湧き上がる。吉永はマメな男だ。別れた恋人の私物をいつまでも放置するのは、彼らしくない。かといって、未練たらしく取っておくような男でもないはずだ。  宮尾が鏡の前でぐるぐると不毛な推測を重ねていると、背後から声がした。 「おはよう。いつも早いねえ」  鏡越しに視線をやると、寝ぼけ眼の吉永が立っていた。元来艶やかな髪はあちこち跳ね、顔はしわくちゃに歪んでいる。  宮尾は思わず口元を緩めた。 「おはよう。顔洗いますか?」  吉永は無言で頷くと、のろのろとした挙動で洗顔を始めた。その光景をぼんやり眺めていると、吉永がおもむろに例の化粧水の瓶を手に取り、惜しみなく肌に塗りたくり始めた。  宮尾は衝撃で一瞬、呼吸を忘れた。 「吉永さん……それ、使ってるんですか?」  振り返った吉永は、心底不思議そうな顔をしている。 「うん?ああ、俺、年中肌の乾燥が酷くてさ。粉を吹くんだよね」  聞きたいのはそんな話ではない。宮尾の口から、思考より先に言葉が飛び出した。 「元カノが置いていったやつじゃないんですか?」  問われた吉永は一瞬目を丸くし、次の瞬間、弾けたように笑い出した。 「違うよ。これは自分で買ってるやつ。行きつけの美容師さんが教えてくれるんだ」  浴室のシャンプーやトリートメントも、自分のために定期購入しているのだという。 「俺、髪も肌も、ちゃんと手を入れないとすぐに傷んでみすぼらしくなるんだ。これでも結構大変なんだよ?」  目尻に涙を浮かべて笑う吉永の声を遠くに聞きながら、宮尾は全身の血が顔に集まっていくのを感じた。 (まさか、自分用に置いてるなんで思わないだろ)  どうりで、彼からはいつも咲きたての花のような、淡く清潔な香りが漂っているわけだ。  羞恥で動けずにいると、吉永がぐい、と距離を詰めてきた。 「宮尾くん、ずっとこれ気にしてたの?お風呂に入るたびに、存在もしない誰かに嫉妬してたんだ。……ふふ、かーわいい」  宮尾の頬が林檎のように赤く染まる。吉永はその頬を大きな手で包み込むと、果実を味わうように、愛おしい唇を塞いだ。  ちゅ、と瑞々しい音が何度か響き、名残惜しそうに唇が離れる。  宮尾は真っ赤な顔のまま、開き直って問い詰めた。 「その美容師って、女ですか?」 「うん、女性だね」 「……今使ってるのが空になったら、次は俺が選びますから」  それだけ言い残し、宮尾は身を翻して洗面所を脱出した。  背後でまた、吉永の楽しそうな笑い声が響く。  ドタドタと遠ざかっていく宮尾の足音を聞きながら、吉永は愛おしい嫉妬の余韻を噛み締めるように、再び鏡の中の自分に笑いかけた。

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