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第1話 空白

 誕生日に死にかけた。  19歳を迎えたその日に事故に遭い、2日間眠り続けたらしい。  病室の鏡に映る青年の瞳がうつろにこちらを見返した。包帯を巻いた頭と、擦り傷だらけの腕が痛々しい。 「千波さん、聞こえていますか?」  千波陽介(せんばようすけ)。それが自分の名で、鏡の中の青年と同じ名前であることは理解できた。  神妙な面持ちで説明を始めようとする医師の話を聞きながら、陽介はその光景をどこか他人事のように見ていた。 「あっ、はい」 「もう一度お伺いしますね。お加減はどうですか?」  意識がふわふわしたまま安定しない。ゆっくりとした口調が自分に向けられているものだとやっとのことで理解して、口を開く。 「身体中痛いです」 「具体的には?」 「えっと、頭と……あと、息を吸うと胸が痛いです」 「指先は動きますか?」  言われて、ぐ、とギプスを巻かれた右手の指先に力を込める。白くなったそこは、陽介の脳からの指示に応えてわずかに反応を見せた。 「怪我の状態を説明しますね」 「はい」 「頭部打撲、肋骨のひび、右腕と左膝の打撲と擦過傷がありますね。CTの結果も異常なしでした。いずれも安静にしていれば一ヶ月ぐらいで完治します」  つまりそれは大したことない、と言うことなんだろうか。はあ、とか、ええ、とか曖昧に何か言った気がする。医師はそれを気に留めることもなく、うんうんと頷いて話を進めた。 「あれだけ派手なバイク事故でこの程度で済んだのは、ほとんど奇跡ですね」 「バイク事故? 俺、バイクで轢かれたんですか?」  何かをカルテに書き留めていた医師は、陽介の言葉を聞いて動きを止める。 「千波さんは、バイクを運転中に事故を起こされました」 「俺、免許なんて持ってないですけど」 「こちらが、その時お持ちになっていた免許証です」  受け取った中型二輪の免許証には、陽介の名前と顔写真が記載されていた。住所は陽介のアパートの住所で、誕生日も3月20日、つまり今日から2日前で合っている。だが、免許を取得した日の10月15日という日付に見覚えがなかった。得体の知れない気持ち悪さに首を傾げる。 「いや、知りません、ほんとに俺のですか?」 「覚えていませんか?」 「はい」 「では、これは?」  続けて差し出されたのは、壊れたバイクの写真だった。  ミラーが割れ、ハンドルが捩れている。  機体部分は青く塗装されていたらしいが、煤けて、原形を留めていなかった。  他人の持ち物だったとしても痛ましく思うような光景だったが、それらに想いを馳せるほどの感傷を、陽介は持ち合わせていなかった。曰く、陽介が事故に遭ったときに乗っていたバイクらしい。 「ごめんなさい、わからないです」 「謝らなくて大丈夫ですよ。お疲れのところすみませんが、追加でいくつか質問をさせてください」 「はい」  医師は名前、年齢、住所、通っている学校などのごく簡単な質問をした。 「名前は千波陽介です。年は18……いや、今は19歳です」  東央経済大学、総合経済学部一年生。  大学のキャンパスの近くのアパートに一人暮らし。  それらの質問に、陽介は、暗記したテストの答えを答案用紙に書き写すときのように、すらすらと答えることができた。これがどんな結果を導くものなのかわからず、質問に一つ答えるたびに口が渇く。 「緊急連絡先は?」 「えっと」  続く質問に、陽介は一瞬言葉に詰まった。答えが暗記できていなかったわけではない。即座に対象の人物が思い浮かばなかったのだ。 「施設の職員の方の連絡先が、保険証に記載されていますね」  言葉に詰まった陽介の様子をしかと観察した上で、淡々と医師は続けた。保護者がいなくて養護施設出身の場合、緊急連絡先はそこになるのか、とこれも他人事のように思う。 「では、事故に遭われる前日、3月19日は何をしていましたか?」 「えっと」  瞬間、頭の中が真っ白になった。先ほどの詰まり方とは違う。文字通り頭の中に何も浮かばない、という経験は初めてだった。 「その」  こめかみに、変な汗をかく。事故の傷だろうか、じわりとした痛みがした。  もともと記憶力がいい方なのに、陽介の頭のどこを探しても、不自然なほどその日の情報はなかった。 「一週間前は、何をしていましたか?」 「わかりません」 「一ヶ月前は?」 「……たぶん、大学に」 「質問を変えますね、去年の3月はなにか印象的なことはありましたか? 会っていた人の名前とか」  去年の3月と言うと、ちょうど高校を卒業して一人暮らしを始めた頃のことである。 「一人暮らしを始めました。その家に幼馴染が遊びにきて。渚沙(なぎさ)湊斗(みなと)って言うんですけど」 「4月はどうでしょう?」 「大学のオリエンテーションがあって、友達ができました」  その調子で5月、6月、7月と聞かれ、8月に差し掛かったところで言葉に詰まる。8月の上旬は前期試験を受けて、大学の試験の難しさに疲弊した記憶がある。  だが、そのあとは? めくっていたページがまた突然白紙になってしまったように、そこだけぽっかりと抜け落ちている。 「誰かと、会ったような……」  誰だろう。会ったような気もするし、会わなかったような気もする。今度は、頭の奥の方がずきんと痛んだ。 「9月は?」  医師の声が遠い。黙りこくった陽介を見て、なにか確信めいたものを持ちながらもあくまで冷静さを装って、医師は言葉を続けた。 「詳しいことは精密検査をしてみないとわかりませんが、おそらく事故で頭を強く打ったことで、記憶に障害が出ています」 「記憶?」 「はい。事故より前の一定期間の記憶が、失われています。千波さんの場合だと、おおよそ半年間ですね」  半年間。8月から3月まで。夏休み、後期の授業、冬休み、春休み。その全てが、ない。にわかには信じられなかった。 「半年って、長いんですか? 短いんですか? ほら、ドラマとかだと自分の全部を忘れてるパターンが多いというか」 「頭部外傷による記憶障害は、一般的に事故の直前から、数日、数ヶ月、長くて数年の記憶が失われることが多いですね」  医師が、陽介を見た。そのネームプレートが、蛍光灯の光を反射している。窓の外で、強い風が吹いている。  それらはすべて、いま、ここで起きている出来事なのに、陽介にとってはやけに現実感がなかった。 「治りますか?」 「多くの場合、時間とともに回復します。ただし、すべての記憶が戻るとは、限りません」  その言葉の意味の重さを、この時の陽介はまだ知る由もなかった。陽介にとって消えたこの半年間がどんな意味を持つのか、はっきりと理解できていなかったからかもしれない。 「焦らず、ゆっくり休んでください。無理に思い出そうとすると、かえって回復が遅れることもあります」  より詳細な精密検査は、入院期間中に行いましょう、そう言って医師は足早に去っていった。  一人になってようやく、胸の中に重苦しい不安が滲んできた。  映画やドラマで見る記憶喪失は大抵、自分自身のことや、大切な人の記憶を忘れている。だが、今の陽介はそれらを持っていた。自分が誰で、どこにいて、どんな友人と親交があったのかも思い出せる。  半年の間にあったであろう授業のことは思い出せないから、その部分に不安はある。  だけど、それ以外の何か。陽介の中からぽっかりと抜け落ちたそれの輪郭が、わからない。自分は何か、大切なことを忘れているんじゃないだろうか。そんな思いに駆られる。  一度思いついてしまうと、次から次へ、火の粉のように不安が降りかかってくる。  窓の外を見る。開きかけた桜の蕾が風に揺れていた。春の訪れを感じさせる柔らかい日差しが、慰めるように頬を撫でた。  たとえば、陽介が本当に大切なものを失くしているとして。  失われたものは、初めからそこになかったことと同じなのだろうか。

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