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第2話 知らない名前

 ベッドに腰掛けると、どっと疲れが押し寄せた。  次から次へと検査を受けさせられたせいで、疲労感が全身におもりのようにぶら下がっているみたいだった。起き上がることすら許してもらえない。  ちらりとサイドボードに目をやると、陽介が事故にあった時の所持品だという物品が並んでいた。  黒いショルダーバッグ、財布、スマートフォン、免許証。 「あ、やば」  黒いショルダーバッグを指先に引っ掛けて引き寄せる。横着したせいで、開いていたらしいバッグの口からものがこぼれ落ちて、ため息をついた。  アパートの鍵と、自転車の鍵。数枚のレシート。それから、食べかけのガムが入っている。  床に落ちたそれらを乱暴にバッグの口に詰め込みながら、ふと奥の方が気になった。  ひんやりとしているカバンに手を入れると、かしゃり、と指先にビニールのような感覚があった。首を傾げる。 「なんだこれ」  薄い半透明のビニール袋に包まれた、細長いなにか。これまでの人生で見たことがなかったせいで、写真のネガフィルムだ、とすぐにはわからなかった。  光に透かすと、小さなコマが並んでいるのが見える。ぼんやりしていて、何が写っているのかはわからない。まさに陽介の頭の中身みたいだ、と思った。    これが本当に自分のものなのだろうか。  この中に、陽介の失われた半年間が示されているのだろうか。  しばらくそうして、フィルムを眺めていた。だが、いくら眺めても被写体は浮かび上がってこなかった。  次は、スマートフォンを手に取った。画面は蜘蛛の巣でも張ったみたいに割れている。陽介の記憶の中はこんなに酷い割れ方をしていないから、きっと事故で割れたんだろう。  電源は入っていない。壊れてしまっているのかもしれない。電源ボタンに指をかけたところで、こんこん、と控えめなノック音が病室に響いて、悪いことをしているわけでもないのに、思わずスマホを取り落としそうになった。 「陽介、入っていい?」  女性の声に入口へ目を向けると、ドアの向こう側には、よく見知った二つの顔が、ほとんど同じ表情を浮かべて並んでいた。二人とも陽介の幼馴染だ。自然と口元が緩む。 「渚沙、湊斗」 「陽ちゃん、久しぶり」  男女の双子だが背丈もそれほど変わらないし、二人とも中性的な顔立ちのせいで遠目から見ると性差もわかりにくい。  遠慮なしに病室に足を踏み入れてくる方が姉の渚沙で、その影に隠れるようについてくるほうが弟の湊斗だ。渚沙の方は記憶にあるのよりも髪が伸びていて、胸の辺りまである。色も少し明るくなったみたいだ。湊斗の方はあまり変わらず、相変わらず歳の割に幼い顔立ちに短髪の癖毛を乗っけていた。 「お誕生日おめでとう。はいこれ、お見舞いと誕生日プレゼント」 「湊斗はね、いま花屋で働いてるんだ」  湊斗が差し出した花束を見て、なぜか誇らしげに、渚沙が言う。赤いチューリップと白いチューリップが並んで黄色い包装紙に包まれていて、可愛らしい。 「俺の誕生日なんかよく覚えてたな」 「忘れないよ、何回祝ったと思ってるの」  お見舞いとしての花ではなく、あくまで誕生日プレゼントとして渡すところが、湊斗らしい、と笑う。 「連絡もらってびっくりしたんだから。いつの間にバイクの免許なんか取ったの?」  陽介の記憶上は、双子と最後に会ったのは去年の3月。つまり、会うのはちょうど1年ぶりになる。 「覚えてないんだよな。その感じだと、二人も知らないみたいだし」 「覚えてない?」  不思議そうな顔をする二人に、陽介は自分の身体の状態と、それに伴う記憶喪失のことについて、かいつまんで説明した。  話し終わるまで黙って聞いていた二人は、なにかを探り合うように顔を見合わせ、そして何も言わずに視線をこちらに戻した。なにか言葉を交わしたように、陽介には見えた。 「私たちのこと、覚えてる?」  探るように、渚沙が言う。 「もちろん」  すかさず陽介は答えた。 「渚沙と湊斗。一緒に養護施設で育った」  二人は、それを聞いてほっとしたようにはにかんだ。  渚沙と湊斗。陽介にとって、彼らは幼馴染というより「家族」だった。かつて海辺の小さな児童養護施設で、一緒に暮らしていた。まるで兄弟のように育ったのを、よく覚えている。 「半年間のこと、ほんとに何も覚えてないの? 一つも?」 「うーん、今のところは」 「そっか、寂しいね」 「そうでもないよ。半年より前の記憶はあるわけだし」  気づいたら大学一年目が終わろうとしてたのにはビビったけど、と冗談めかして言うと、渚沙も湊斗もつられて表情を崩した。 「大学は楽しい?」 「全然連絡くれないんだもん。よっぽど楽しいのかと思ってた」  それから少し二人と談笑した。大学のこと、湊斗の就職先の花屋のこと、渚沙の通っている保育の専門学校のこと。それなりにお互い苦労はしているが、それなりに充実していること。  昔話でもしようかと思ったが、なんとなく二人がそれを避けているような気がして、話題を出すのはやめておいた。 「あのさ」  話が途切れたタイミングで、ふとなんの気なしに陽介は例のネガフィルムを二人に見せた。 「これ知ってる? 事故のときに持ってたらしいんだけど」 「うーん、フィルム? 陽介、写真なんか撮るっけ」  予想通り、と言うべきか、二人はなにも知らなかった。 「これを印刷した写真はないの? 普通、一緒に紙に印刷してもらうか、データくれるよね」 「ない……と思うけど。そう言えば、かばんが空いてて中身が散らばってたって警察の人に言われた」 「こういうのって写真屋さんに行けばもう一回印刷してもらえるんじゃない?」  二人は陽介の期待が萎んでいくのに気づいてか、フォローするように話を繋げてくれた。  これ以上この話を深掘りしても仕方ない。落胆する気持ちを抑えながら、陽介としてはつとめて明るく話題を変えた。 「夏ぐらいに俺が誰かと会ってなかったか、知らない? 医者にはあんまり無理するなって言われたけど、流石に気になるでしょ」 「会ったの?」  少し驚いたように、渚沙が言う。その予想していなかった言葉に面食らう。  微妙に話が噛み合っていないような気がして曖昧に言葉を濁すと、渚沙は言ってはいけないことを口にしたような顔をしてあっと自分の口を塞いだ。 「俺は誰かと会う約束をしてた?」  興奮で心臓の音が早くなる。渚沙はなにか重要なことを知っている気がする。そしてそれを陽介に隠そうとしている。  詰め寄ると、渚沙は顔の前で大袈裟に手を振った。 「いや、違うの。なんでもない。忘れて」 「渚沙、知ってることがあるなら教えて」  隣でオロオロと成り行きを見守っている湊斗に視線を向けると、彼は観念したように口を開いた。 「カイちゃんと、会うって」 「湊斗!!」 「……事件の話聞くって」 「湊斗ってば!」  今度は渚沙が、自分の口をそうしたように湊斗の口を塞いだ。 『カイ』  鈍く痛む頭が、その言葉を聞いて、高速で回転する。夏の終わりに会ったような気がする『誰か』のイメージが頭の中におぼろげに浮かぶ。 「カイ?」  自分の口から出た単語にまるで馴染みがなくて、陽介はもう一度同じ単語を繰り返す。カイ。それはどうやら人の名前らしかった。 「カイって誰? 事件ってなんのこと?」  養護施設で暮らしていた中に、そんな名前の子はいなかった。はずだ。波の音が聞こえるあの場所で、陽介は渚沙と湊斗と、たまに入れ替わる数人の子供たちとでおだやかに暮らしていた。一人一人の顔と名前を、間違えるはずがない。 「陽介、本気?」  渚沙が、信じられないという顔で陽介を見つめる。陽介の表情を見て、冗談ではないと悟ったのだろう。 「これも事故の影響かな、でも……」  渚沙が、独り言のように呟く。 「カイのことも、事件のことも覚えてないの?」  じわりと、脇の下にいやな汗をかく。ものすごく大切なことを、忘れているんじゃないか。  ああ、そういえば。渚沙と湊斗とは、海の近くの小さな施設で暮らしていた。それは幼少期から、小学校中学年くらいまでの記憶だ。  そしてそれは高校までを陽介が過ごした施設とは別のものだ。  なにかのきっかけがあって、二人とは別の施設で暮らすようになった。 「俺が忘れたのは半年間だけだ」  猛烈な焦燥感が陽介の中を駆け巡る。忘れている、大切なこと。大切かも知れなかったこと。目の前の二人の顔がぐにゃりと歪んだ。 「俺たちは、三人だったよな、あの小さな家で」  ずきりとこめかみに、刺すような痛みが走る。そこから頭蓋骨を無理やりこじ開けて、封じ込めたなにかを取り出そうとしているみたいだった。  だれかが、なにかが、必死に開かれるのを拒んでいるせいで、頭の痛みはあっという間に大きくなって、脈打つ鼓動ですら痛みを引き起こす。 「そうだって言ってくれよ」  二人は、すぐには何も答えなかった。  目眩がする。目の前がちかちかと明滅する。心臓の音がうるさい。  そしてゆっくりと、ためらうように渚沙が首を振った。 「私たちはね、四人だったよ」  湊斗が続ける。 「僕と、渚沙と、陽ちゃんと、カイちゃん」  頭が痛い。陽介自身が自分の頭の中をこじ開けようとしている側なのか、抵抗している側なのか、わからない。そのどちらでもあるような気もした。  ふいに頭の中に、声が響いた。 『陽介』  誰かが、名前を呼ぶ。  薄ぼんやりとした春の日差しの中で、小さな陽介のまるい頭を誰かが撫でる。  男か女か、子供か大人か、それすらわからない。  陽介はその手の主を、たしかに知っていた。

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