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第37話 新しい日々

 大学近くの喫茶店は、午後の時間帯も混雑している。陽介は向かいに座る蓮のコーヒーカップが三杯目になったことに、今さら気づいた。 「そんなに飲んだら、やばいよ」 「だいじょぶ。このあと夜勤のバイトだし」  蓮はそう言って、テーブルいっぱいに広げた資料に向き合い直した。ちなみに、先ほどから開きっぱなしのレポートの画面は、一行も進んでいない。  今日、海はアルバイトの面接で外に出ていて、終わり次第この場所で落ち合うことになっていた。蓮を誘い、グループワークのレポートを片付けながら海を待っている。蓮にも海にもそう伝えてある。 「あのさ、聞きたいことあるなら、蓮には全部話そうと思ってるけど……」  先ほどから見るからに落ち着かない様子の蓮に、陽介は苦笑する。半年間連絡を無視し続けた挙句、事故を起こして迎えに来させたくせに、そのあとの数ヶ月間もほとんど誘いを断っている。いまのこの陽介と蓮の友情は、蓮の人の良さのおかげで成り立っているようなものだ。 「じゃあ、一個だけ聞いていい?」 「うん?」 「その、カイさんとは、結局付き合ってんの?」 「付き合ってるよ。てか、一緒に住んでる」 「まじかー、俺、陽介は仲間だと思ってたよ」 「なに仲間?」 「なにって、ド……」 「うわ! バカ」  そんな大っぴらに話すことじゃない、と顔が熱くなるのを感じながら、向かい側に座る蓮の口を押さえる。その瞳の奥に、控えめな好奇心の色が浮かんでいて、陽介はひとり覚悟を決めた。 「もーこの際だから、全部話させて。俺もコーヒーお代わりしてくる」  かいつまんで話すつもりだったが、蓮には結局、ことの顛末の全てを話した。そのためには陽介の過去のこともある程度伝える必要があった。  それなりの時間、話をしていたと思う。その間蓮は終始黙って陽介の話を聞いていた。 「なんか、話がいろいろすごすぎて」  緊張しなかったと言えば嘘になるが、自分でも意外なほどすらすらと言葉が出てきた。柊の前で服を脱いだあの日から、陽介の中でもなにか変わったのかもしれない。  真夏であっても、冷房の効いた室内では半袖は少し寒い。これまでの陽介は知らなかったことだ。 「そういえば、記憶喪失の、喪失のとこはどうなったんだっけ?」 「戻ってない。また病院行ったけど、戻る確率が半分、戻らない確率が半分、ってとこかな」  あれから何度か通院して調べてもらったが、結局はっきりとした原因はわからなかった。  小さい頃の陽介は、脳に強いストレスがかかると、一時的な記憶喪失を引き起こしていた、らしい。虐待の後遺症みたいなものだ、と医師は言った。  事故の際の衝撃と、生育歴からくる脳の“クセ”のようなものが複雑に絡み合っていて、過去にもあまり例がないらしい。 「じゃあなにがあったか、全部は思い出せてないまま一緒にいるってことだろ?」 「そうなる」 「好きになった瞬間とかも?」 「まあ……いやそれは、もう一回改めて好きになったっていうか」 「それってさ」  神妙な顔で考え込む仕草をしていた蓮が、ぱっとなにかを閃いたように手を叩いた。 「ある意味才能だよな」 「はあ?」  蓮が突然ぐっと身体を乗り出して、陽介は思わずその勢いにのけぞった。 「普通、何も覚えてないなんて不安じゃん。話してること、全部嘘かも知れないのに。毎週ストーカーかってぐらい会いに行ってたなんて、どうかしてる。……褒めてるよ?」 「わかってるよ」  正直、今の陽介は「記憶がない自分」を受け入れつつあった。もちろん、戻るに越したことはないと思う。過去の自分が海とどんな話をしたのかも、そのときの感情の手触りも、気にならないと言えば嘘になる。 「俺が知りたいのは、今も昔もずっと、海のことだけだったから。今はそれがわかるから、それだけでいい」  「知りたい」は恋によく似ていると思う。海を知りたいから好きだと思うのか、好きだから知りたいと思うのか、今でも混同することもある。ただ、海の全てを知ってもまだ隣にいたいと思うのは、きっと恋で間違いないんだと思う。 「まあでも、陽介らしいっちゃらしいや。ちゃんと全部丸く収まって、俺は一安心ですよ」 「いろいろ心配かけて、ごめん」 「ええ?」 「ほら、半年間連絡返してなかったし」 「ああー、愛の逃避行?」  ほんとになにも気にしてない、みたいな顔で、茶化すように蓮は笑った。 「なんであんなことしたのか、覚えてないからわかんないんだけど」  海にそれとなく尋ねたこともあるが、とくに思い当たるふしもないらしい。『オレがスマホ持ってないから、合わせたんじゃない?』というのが、海の見解だった。 「たぶん、前に蓮の言った通り、全部捨ててでも一緒にいたかったんじゃないかって、思う。っていうか、全部捨てないと、一緒にいられないと思ってた、っていうか……ごめん、なに言ってんだか」 「いまは? 違うんだろ」 「……うん」 「じゃあ、よかったじゃん」  蓮はそう言って、大きく伸びをした。男が好きだと言った時も、友人の恋バナとして受け止めるには重すぎる話を聞いたいまも、蓮の態度はあまり変わらない。そのことに、どれだけ陽介が救われているか。それは、思わず口をついて出た。 「ほんと、蓮には助けられてるよ。ありがとう」 「なんだそれ、改まって。照れる」  感動したような声で言って、蓮は目を細める。急に照れ臭くなって、誤魔化すようにカップを手に取った。冷めたコーヒーの表面に、自分の姿が映っている。 「で、そのカイさんに、これから俺も会うんだろ? なんか緊張してきた」 「なんで蓮が緊張すんの」 「こう、親心というか」  そのとき、ちょうど視界の隅に海の姿が見えた。面接用に整えた髪が、少し崩れてきていて、それを気にするように毛先をいじっている。  声をかけようとして、やめた。ぎゅうとリュックのストラップ部分を持って、不安そうに店内を見回す海の姿に、いたずら心のようなものが湧いたからだ。 「陽介!」  しばらくそうして見回したあとに、海の双眸が陽介の存在を見つけて、ぱっと輝いた。今朝も聞いた聞き慣れた声に、無邪気に手を大きく振る仕草に、ふっと胸の辺りが軽くなる。 「オレ、この辺慣れてないんだから、こんな見つけにくい場所やめて」  不満そうに口を尖らせながらも、機嫌は良さそうだ。この分だと、バイトの面接もうまく行ったんじゃないだろうか。 「たまには海に見つけてもらおうと思って」 「なにそれ! いじわる」  陽介と蓮の荷物を寄せて、海を二人の席に招く。蓮がする会釈に合わせて、海がぎこちなく一礼した。その頬に、店内の照明が当たっている。いつもと違う場所で見つめるだけで、新しい一面を発見したように新鮮な気持ちになるから不思議だ。 「海、俺と同じ大学に通ってて、高校からの友達の蓮」 「初めまして。陽介から話は聞いてます。藤崎蓮です」  海は差し出された蓮の手を、好奇心半分、警戒半分の表情で握り返すと、さっと陽介の隣へ腰を下ろした。もともと人見知りはしないタイプだと思うが、陽介の友人に会わせるのは初めてだから、多少緊張しているのかもしれない。 「陽介、この人はオレたちのことどんだけ知ってんの?」  そして声のトーンを落として、陽介に耳打ちする。もっとも、この距離感だとほとんど意味をなしていないような気もするが。 「全部」 「全部って、どこまで!?」 「全部は全部だろ」  海にケンゴの存在があったように、陽介にも蓮の存在があった。だから、海にも蓮に会わせたいと思った。それは陽介の小さなエゴだ。 「オレやだよ、恥ずかしい」 「……海がなにを想像してるのか知らないけど、たぶん全部ってそこまでじゃない」 「あのー、俺、席外した方がいいかな?」  一つになったように見える海と陽介の生き方は、これから少しずつ枝分かれしていく。枝分かれの先で、海は陽介の知らない姿を描いていくだろうし、陽介の知らない人とも出会う。きっとそれは、あの海の街のアパートで二人きりで暮らしていた頃には見られなかった景色なんだろう。  陽介の人生と海の人生は、これから隣り合い、それぞれの方向に伸びて、少しずつ混じり合いながら、進んでいくんだろう。だから今日もまた、陽介と海の人生が混じり合う交点の一つにしたかった。 「ほら、海も自己紹介して」  陽介に促されて、海は少し恥ずかしそうに視線を下げた後、少し考えこむような仕草をした。 「えっと、オレは今陽介と一緒に住んでて、今後も一緒に住む予定で、コーヒーと泳ぐのが好きです。コーヒーと言えば、喫茶店のバイト受かったよ! 来週から来て欲しいって……あ、そうだ名前言ってなかった」  そして、真っ直ぐに自分の前に座る蓮の方に目を向けた。人懐っこそうな笑顔を浮かべて、目の前の人への興味に溢れている。瞳の奥に、強くて柔らかなひかりが宿っている。誰にも知られずに生きていた、あの頃の子供はもういない。  だから、もう大丈夫。そんな確信が、陽介の胸の中にも暖かなひかりを灯した。 「初めまして、間宮海です」   【完】

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