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第1話 満月の夜に残業しても良いですか
成瀬健一は、自宅マンションの玄関を開けてただいまと呟く。
リビングからは、嬉しそうなウサギがソワソワとする音が聞こえる。
待っていてくれる存在がいるってありがたいな。
「ただいま、満月」
リビングに入って、成瀬はケージの扉を開け満月に挨拶をする。
ふんふんと成瀬の匂いを嗅いでから、手に擦り寄ってくる満月を膝に抱き上げ、床に座る。
「働くって大変だよ、満月」
満月を撫でながら、成瀬は今日あった事を振り返り反省をするように報告した。
大学を卒業し、新入社員として不動産会社で働き始めた成瀬は、今日も電話対応に苦戦していた。
掛かってくる電話を先輩に取り次げば良いだけなのだが、何の電話を受けたのか、どう返事を返せば良いのかを伝えられないのだ。
教育係の佐伯は、内容などから推察してわかってくれるのだが、度重なるミスに成瀬は自信を無くしていた。
「バイトは色々してきたんだけどな」
満月が成瀬の撫でる手に合わせてぷぅぷぅと鼻を鳴らしながら目を閉じる。ウサギが目を閉じるのは珍しいと聞いたが、満月は成瀬の膝の上ではいつもこの調子だ。
「でも今日は、新しく取引先の人の名前も覚えたし、一度聞き間違えた人はもう間違えていない。明日もしっかり電話対応しよう。まだまだ始まったばかりだ」
成瀬は声を出してやる気を出すと、夕飯の準備を始めた。
キッチンについてくる満月は、野菜のおこぼれを期待しているようだ。
次の日、成瀬のデスクの電話が鳴り、多少緊張した気持ちで受話器を取った。
会社名を名乗ると、一言目に罵声が聞こえた。その声に成瀬は驚き、たどたどしく謝る。
「ご、用件をお聞かせいただけますでしょうか……」
なんとか声に出した言葉に、相手はさらに声を張り上げて怒鳴りながら伝えてくる。
受話器からは相手の声が漏れているのだろう、近くにいた社員たちの顔がひきつった。
「あ、あの……申し訳ございません……弊社の、誰に取り次げば……」
「貸せ」
しどろもどろに対応していると、後ろから低い声がして受話器を取られた。
受話器を取り上げたのは、同じ営業部の主任、高瀬臣。
営業部のエースでいつも成績はトップだ。真面目でクールな印象はフランス人系のハーフという外見も相まって少し近寄りがたいと成瀬は思っていた。
高瀬が電話口に出たことで、相手は落ち着いたのか受話器から声が漏れなくなった。高瀬は深く謝罪して、電話を切った。
「リバーパレスの内見、約束の時間を変更したのになんで来ないのかという内容だ。今から1時間後に必ず行くと伝えた。誰の担当だ」
「あ、俺です。でも、時間変更なんて連絡は無かったかと……」
高瀬の言葉に今部屋に入ってきた佐伯が答える。成瀬は数日前の記憶が蘇り、冷や汗が出てきた。
「お…俺です。その電話、俺が受けました。担当者に伝えれば良いからって言われて、でも担当者が誰かわからなくて、佐伯さんに確認する前に次の電話が……すみません!」
成瀬は深々と頭を下げる。佐伯は成瀬の態度に怒ることはしないが、困った顔を向けていた。
「はぁ〜、まぁしょうがないよ。こんな客もいるんだ。現地に行って謝ればどうにかなるでしょ。気にしなくて良いよ」
「はい。本当にすいません……」
落ち込む成瀬の横で、高瀬は佐伯に向かって問いかける。
「成瀬の教育係はお前だったか」
「はい。外回りばかりであまり教えてあげられてなくて」
「電話対応を軽く見るな。うちは客や業者からの相談や、クレームまで回線が一つなんだ。マニュアルだけじゃ対応できないことが多いだろう」
うわ、俺のせいで佐伯さんが怒られてる。
「成瀬、お前もまずメモを取れ。聞きなれない言葉ばかりの時は、文字にしておけば後からでも確認できるだろ」
「あ、はい。すいません」
「いや、任せっきりにしていた俺も悪かった。成瀬、今後は俺の下につけ。俺が教えてやる」
「え、主任の?」
毎月営業成績トップの主任の仕事なんて理解できるのかと成瀬は尻込んだが、さっきの電話対応は少し心が動いた。
こんなスタイリッシュな大人になれるのなら、主任に仕事を教わりたい。
数日後、成瀬が任されたのは、チラシの仕分けと梱包。夕方から始めた作業だから時間内には終わらないだろうと言われたが、次の日に持ち越すのは嫌だった。
明日の午前中は、大きな商談がある。高瀬に着いてその商談を見てみたいからだ。
「主任、今日残業して行っても良いですか」
「なんでだ」
「明日の商談、俺も行きたいんです」
残業したいという成瀬に高瀬は神妙な顔をした。
そんな悪いことを言ったかな。人件費とか?
「成瀬くん、今日はあまり遅くならない方が良いよ。君が残るなら、主任も残らないといけない」
あ、そういうことか。佐伯の言葉に、主任の態度の理由がわかった。
主任、予定でもあるのかな。
「いや、良い。俺もやり残しがある」
「あ、ありがとうございます」
机の上の書類を指して、主任は残業を受理してくれた。
自分のデスクに戻ると、佐伯がそっと耳打ちしてくる。
「成瀬くん、それでもなるべく早く帰ってね。今日は満月だから」
「え?あ、はい」
早く帰るのと満月になんの関係があるのだろうかと、成瀬は自宅にいるウサギを思い出し、ご飯遅くなっちゃうなと申し訳なく思った。
時刻は進み、外はしっかりと暗くなった。随分前に他の社員は帰っていき今オフィスにいるのは成瀬と高瀬のみだ。
高瀬は少し離れた自分のデスクで書類を見ながらパソコンに何かを入力している。
成瀬の作業は後少しで終わるというところだった。
「ふぅ〜〜〜」
長い息を吐く音が聞こえて、成瀬は高瀬へと顔を上げる。
疲れたのかな。ずっとパソコン作業してたし。
高瀬はしばらく目を瞑り、ゆっくりと目を開けた。
えっ?
その瞳は一瞬、金色に輝いた気がした。
なんとなく高瀬から目が離せないでいると、目が合い、眉間に皺を寄せられた。
「成瀬、今日はもう帰れ」
「え、後少しなんですけど」
「俺も帰る。片付け始めろ」
「あ、はい」
明日少し早く来ればいいかと、成瀬は片付け始めた。
「じゃあ、お先失礼します」
「あぁ」
帰ると言いつつも、パソコンを閉じただけで動かない高瀬を不思議に思いつつ、成瀬は挨拶をしてオフィスを出た。
夜空には、丸く大きな金色の月が浮かんでいる。
成瀬が月を見上げている頃、オフィスでは高瀬が窓から降り注ぐ月光を浴び、背を丸め息を荒げて唸っていた。
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