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第四章 暗雲を突き刺す、かの陽射し
円タクと呼ばれるタクシーが、脇を走り抜けていく。高梨はそれを横目で追いながら、自分は路面電車のほうが好きだな、と思った。季節に応じて開けられる窓、流れるような景色が少し高い位置で眺めることができて、遠くまで視界が広がる、その景色が好きだ。
はるか遠くを見つめる、あの荻窪(おぎくぼ)の視線を追うように、高梨(たかなし)は青空の向こうへと視線を投げた。一体、どこを見ているのだろう、時折見せるあの瞳は、なにを――誰を思っているのだろう。
青空の下に白い雪の色の対比が、目に映える。今日はいい天気だ、高梨は白い陽射しを眩しそうに、うっすらと瞳を細めた。
今日は、担当のひとつである新人作家の若竹(わかたけ)のところに、最初に向かう。少し頑固なところはあるものの、真っ直ぐに物事を捉えるその姿勢が編集長の目に留まり、作家としてデビューできた。
荻窪を担当する少し前から担当している作家でもあるが、高梨は実は彼が少々苦手だ。少しばかりしつこいからだ。
彼の書く話は、真っ直ぐな官能小説、とでもいうべきだろうか。率直な物言いのそれが、編集長は気に入ったというが、高梨には情緒がないと思えた。
それに、この若竹、時折変な目で自分を見ている気さえする。
そういったものを含めた視線というか、そういう感じの意味合いのものだ。絡みつく視線が時折、粘着を帯びて纏わりついてくる。どこか熱が篭った視線と、一度握ったらなかなか離さない手、わざとらしく原稿を渡すときに掴む指が気持ち悪さを感じた。
小説の感じを知りたいと肩を抱こうとして来たり、手を絡ませようとしたり、それがとてつもなく重荷だ。
自分より少し上くらいだろうか、この若竹、荻窪の清廉な空気を知っている高梨としては、真逆に思えてしまう。
今日はそんな若竹のもとへ行かなくてはいけないと思うと、気が滅入って笑顔すら作るのが困難だ。
高梨は乗っていた路面電車から降りると、目的の場所へ向かう途中で手土産を購入した。適当に、甘いお菓子を購入しておく。どうせなにを買っても喜ぶに決まっている。それも、わざとらしく。
『手土産は気にしなくていい、今度から手ぶらで来てくれて構わないから。』
そう言ってくれた荻窪の声を思い出した。何気ないひと言に込められた気遣いを、感じ取れる。それだけではきっと高梨は引かないと思ったのだろう荻窪が付け加えた、そのひと言も。
『その代わり、たまに夕餉(ゆうげ)に付き合ってくれないかい?』
その言葉は高梨のひび割れている心の隙間を、まるで蜜のようにゆっくりとしみ込んでいく。たまに付き合う夕餉、という言葉は、高梨にとってとてつもなく魅力的だ。
それこそ、父や母が持ち出してくる誰かとの結婚話よりもずっと……。
雪道を気を付けて歩きながら、高梨は不意と足を止める。荻窪のことを考えていたら、若竹の家を通り過ぎるところだった、と気が付いて数歩戻った。
古びた、下宿屋が若竹の住む家だ。風呂はなく、便所は共同のよくある四畳半の部屋で高梨はこれから、若竹としばらくの間二人きりにならないといけないという、義務が待っている。
――正直、苦痛だ。
晴れやかな空とは真逆のどんよりとした気持ちに包まれながら、その下宿屋へと足を踏み入れた。
薄暗く湿気た匂いに混ざって、煙草の匂い、人間の皮脂の匂いが充満している。これは昔、どこかでも嗅いだことがある匂いだったが、高梨はどうしてもその匂いに馴染むことは出来なかった。
過去、同期の連中はそんな高梨を「気取ったやつだ」と鼻で笑って馬鹿にしてきたが、いまとなっては昔のこと――。
とはいえ、いままさに高梨の鼻腔を直撃してくるこの匂いは、本当に慣れない。
許されるなら鼻を摘まみたいくらいだ、と思いながら、若竹の下宿部屋の襖の外側から声を掛けた。
「若竹さん、いらっしゃいますか? 高梨です。」
そう言って襖を開けるとまず目に飛び込んでくるのは、いつも敷きっぱなしの万年床、そして、乱雑に畳の上に散らばった資料(という名の官能的な絵)。それから文机(ふづくえ)の前に鎮座する、小柄な男が一人。
「あ、高梨さん、やっといらしてくれたんですか。」
振り返って笑う若竹は、いつもどこか病的だ。やつれた頬に、寝不足のようなくまが常にある。
唯一、なけなしのお金で買ったという万年筆はすでにぼろぼろで、やや乱暴さを見せていた。まだ、使い始めてからそんなに経っていないはずなのだけれど……。
「どうも、これ、お土産です。書けました?」
ずい、と突き出した紙袋を手渡すと、正直座りたくはないが、かろうじて空いている隙間に正座する。畳が見えているのは、ここしかない。畳もすでに湿気で少したわんでいて、座るたびに膝がやや沈むのが少し気味の悪さを感じさせる。
「はい、だけど、ここ、この部分が……これでいいのかなって迷っていて。」
指された場所は、いつものように官能的な部分だった。
――この人、そういった経験がないのに、なぜこの分野を選んだんだろう。
高梨がそう思うのも無理はない。手を掴まれたり、触られたりする女性がどういった反応を示すのか、好意のある相手とそういった経験がないのか、と思ってしまうほど、常にそういった部分を「分からない」と言ってくるのだから。妄想だけでどうにかなるのだろうか。それなら、自分に頼らず書き切ってほしい。高梨は若竹から視線を逸しながら、心の中で毒づいた。
高梨は手のひらを向けて、若竹に原稿を寄越せと無言の要求をしてから、改めてその部分を読み込んだ。
相変わらず率直な表現の下にある、若竹のその行為への経験不足をどうしても、感じてしまう。ここはこうですね、ここはこうしたほうが、なんて言えば、「それなら高梨さんでちょっと練習させてもらっていいですか」なんて言われてしまうから、遠慮したい。
だが、それでは編集者としては務まらない……。
――気持ち悪い。
心がすべてを使って拒絶しているのが分かる。家とはまた違う拒絶だ。
「ここ、『男が彼女の手をそっと握ったとき、柔らかくその肉感的な感触に身震いした』ってあるでしょう? 身震い……された女性はこれ、否定されたと思うでしょうね。」
冷静に、指摘する。身震い、というよりも「悦びで身体が震えた」とか、そっちのほうが良くないか、と例えを出すと、若竹は原稿よりも高梨ばかり見つめていた。
「若竹さん、聞いていますか?」
彼の視線はいつも不躾だ。上から下へ、舐めるように見る目つき、そして、まるで触りたくてうずうずしているかのように蠢く指が、ただ気持ち悪い。
「では、高梨さん。僕の手を握ってみてもらえますか?」
差し出された手を見つめたまま、理解が追いつかなかった。
――いまこの人は、なにをしたくてそんなことを言っているんだろう?
手を見て、そのまま若竹の顔へと視線を向ける。
高梨はなぜいま自分が彼の手を握らなければならないのか、まるで理解できなかった。
「高梨さんに握られたら、分かるかもしれないですし、ね?」
いつものやつが始まった。高梨は頭が痛くなってくる。心を無にしてもなお、気持ち悪さが先立つこの男、編集長に丸めて突き返してやろうか、そう一瞬思うものの、この率直な官能小説が一部では、人気が出てきているのもまた事実だ。
もう少し若竹の人気が出てきたら、担当を外してもらえるかもしれない。そう思いながら「握ればいいんですか?」と彼の手を思わず、強めに握る。
じっとりと湿った感触と、どこかべたついたその手に鳥肌が立ちそうだ。
汗なのか皮脂油なのか、区別のつかない気持ちの悪さ。
「ああ、高梨さん、分かりました、この感覚ですね!」
お陰で書き直せそうです、そう付け足すと、若竹は文机に向き直る。
――さっさと書いて、原稿をくれよ。
高梨は心の中でそう毒づくと、気が付かれないように深く息を吐き出した。あとで、しっかり手を洗わなければ、気持ちが悪い。感触がまだ手のひらに残っている。握ったときに手のひらの中で蠢いた、若竹の指が高梨の手のひらを撫でるように動いていた。
高梨はまさしく「身震い」しそうだった。早くこの空間から出たい、ただただ、それだけを考える。
こんな空間にいて、若竹のごりごりとでも表現できそうな万年筆の音だけが響いていた。
荻窪の、原稿を滑るように滑らかな筆音を思い出して、高梨は遠くを見つめる。あの静かな空間がいかに透き通った湖のように見えているのか、思い知らされた気がした。
湖面に浮く、荻窪が乗っている小舟はゆらりとたゆたっているだけで、魚たちがそれを見つけてはそっと寄り添う。自分はきっとその魚の一匹なのだろうな。
でも、それだけでも良かった。
あの澄んだ湖水に浮かんでいられるのなら、それだけでも、十分息が出来る。水温は冷たくても温かくても、どちらでもいい。ただ、荻窪が作り出す湖に漂うことができれば、それでいい。
「高梨さん、できました!」
若竹が原稿を手渡してきた。今回は予想していたより早く仕上がったようで、高梨はほっと胸を撫でおろす。
一度原稿を出版社に預けに行って、今日はそのまま直帰で荻窪のところに寄っていこう。高梨はこれからの時間を算段しながら、それを受け取り「お疲れ様です、原稿をいただいていきますね」と丁寧に、いつものように、義務で頭を下げた。
「高梨さん、いつもいい匂いがしてますけど、最近は特にいい匂いですよね。」
そう言って、若竹がずい、と身を乗り出してくる。思わず避けるように立ち上がって、高梨は咄嗟にうなじへと手を当てた。
――気持ち悪い。
「担当が増えたのでそのせいかもしれませんね。」
これ以上は話すことはないとでも言うかのように、襖に手を掛ける。
「高梨さん、ますます忙しくなっちゃうなぁ。僕が売れっ子になってもずっと面倒見てほしいのに。」
若竹のそのひと言は、高梨の背筋に氷のような一撃を与えるには、あまりにも十分だった。
「売れっ子になったらそのときは、もっとベテランの担当がつきますよ。僕はまだまだ若輩者なので。失礼します。」
たんっ、と襖を閉めてから、高梨は足早に若竹が棲む下宿屋から飛び出した。
ずっと担当でいて欲しいなんて、御免被りたい。
「気持ち悪い。」
やっと吐き出せたその言葉は、きっちりと締めたネクタイを緩めたくなるほどの感情だ。あの、荻窪の静謐さが『変わり者』という言葉に括られていいものなのか、と思えて仕方なかった。
変わり者というのなら、あの若竹こそが変わり者だろう、高梨はそう思いながら、一度出版社に戻る。そうして、デスクの引き出しの中に若竹の原稿を仕舞うと、今度は荻窪の原稿を取りに行くことにした。
「荻窪先生のところから直下します。」
そう、声をかけてから編集室を後にする。ついでに、洗面所でこれでもかというほど手を洗い、冷たい水で真っ赤になった手に息をかけながら、しばらく電停に立って路面電車を待った。
空を見上げれば、まだ日は高い。懐中時計を確認してみれば、まだ午後になったばかり、というくらいの時間だ。
これくらいの時間であれば、荻窪はきっと起きていて、書斎で原稿と向き合っているかもしれない。高梨は遠くから近づいてくる路面電車を見つめながら、無意識に、あの白檀の香りを思い出していた。
路面電車に乗り込んで、遥か向こうの空を見る。
あの静かな空間に佇(たたず)む荻窪の、す、と背筋が伸びた背中を思い出した。
少しずつ雲行きが怪しくなってきた曇り空、そろそろ雪が降るのだろうか。冬の天気はとても変わりやすいから、午前は晴れていても午後からは雪になることは多々あった。
あれだけ文机に向かっている時間が長いはずなのに、猫背じゃない。荻窪が身に纏う空気は、筋が通った一本の線のようだ。彼が生きてきた生活の名残なのだろうか。それとも、両親の影響なのだろうか。
いつもの電停で路面電車を降りて、自分の家とは逆の方向へ進む。短い坂を登って、少し真っ直ぐ歩いてから、そこを左へ。
いつもの角を曲がれば、黒塗りの木板の塀に囲まれた、荻窪家が見えてくる。
――ああ、先生の家だ。
高梨は深く息をついた。
いつもの狸(のようにも見えなくもないような)置物にどこか安堵して、高梨はそっと玄関の引き戸に手をかける。
からからと軽い音をたてて、玄関を開ければいつものように静かな空間と、白檀の香りが漂っていた。
書斎に居るのだろう荻窪のところまでは、そっと、足音を忍ばせていく。少しの音で、気が散ってしまったら困るから。
居間を抜けて縁側へ、整然と並んだ庭木を横目に進めば、書斎がある。
雪見障子を開けて――。
高梨は思わず声が出た。
「先生、玄関が開いていたので勝手に入ってすみません……て、なに寝てるんです?」
畳に仰向けに寝転んだ荻窪の、天井を見るぼんやりとした瞳が印象的だ。ちらりとこちらに視線を向ければ、ぼんやりとしていた目つきがはっきりとする。
「先生、なにか思いついたんですね! 早速書いてみては? 原稿用紙もあるわけですし、あ、なにかお飲み物を用意しましょうか? 熱いのが良いです? それとも冷たいのが――、」
思わず矢継ぎ早に繰り出した質問に、荻窪がゆっくりと身体を起こしながら少しうるさそうに耳を押さえた。
「高梨くん、ちょっとでいい、静かにしてくれないかい?」
その低い声に、心がすぅ、と落ち着いていく。
――ああ、ざわついた心が凪いでいく。
「す、すみません……。」
騒ぎ立てたことで、荻窪の思考を中断してしまったのなら、自分が悪い。高梨はしょぼんと肩を落とした。
荻窪は「仕方がないな」とでも言うように、目だけで笑うとそのまま、文机に向かう。ようやく書き出しが決まったのか、かりかりと滑るような筆音をたて始めた。
荻窪が筆を走らせている間、高梨はそっと立ち上がって台所へ向かう。
夕飯をどうしようか、その前にお茶を入れて差し上げよう、頭の中でいろいろ考えながら、縁側を抜けて、居間へと向かった。
時折、いつも居間から縁側へ抜けて書斎へ向かう高梨が、一人で荻窪家を歩いているとき、台所の奥へと通じる廊下が気になる時がある。この廊下の先に、荻窪が言う「使っていない部屋」があるのだろう。音もなく静まり返った闇が広がり、その先は見えない。この屋敷の全貌は未だに把握できておらず、高梨は荻窪から聞いている、居間と書斎と私室の三部屋しか知らなかった。
本当にこの家には荻窪しかいない。
それはこの無音で体感できた。少しの物音でさえ、離れた書斎に居る荻窪の耳に届いてしまいそうだからだ。本当に音のない空間というのは、耳の付け根が痛くなるものだ。耳が音を拾おうとして、敏感になってしまう。だが、外から聞こえるかすかな音しか、聞こえない。
高梨は台所で湯を沸かし、お茶を入れる準備をしながら、台所に保管されている野菜類を探しだした。
小さく炎の音がするのと同時に、この無音だからこそ聞こえる、荻窪のかすかな筆音だけが響く。
この前、時間があるときに幼馴染の幸代から料理を教わったからだ。教わった、というよりは母に留められ、幸代の傍にいるように仕向けられた、とでも言えばいいのか。
だが高梨は、それを料理を覚える好機だ、と捉えることにして、しっかりと見て覚えた。
いももちやふかし芋なら、自分でも作れる。未開封の、この前の烏賊の塩辛も見つけた。
好きではなかったのだろうか、と思う反面、それはきちんと戸棚の見える位置に仕舞われていて、まるでいつも見えるところに置いていた――ように見えた。
――なんでそんなふうに置くかな。
戸棚にしまわれていた烏賊の塩辛を見つけたとき、高梨は心が震えた。
この「仕舞う」という行為は、きっと嫌いだからそうしたんじゃない、ということがよく分かる。
わざわざそこを指定席のように座らせてある、とように見えたからだ。
左右の食器類を詰めて、塩辛の場所を開けて、戸棚のど真ん中に据えられている。これを指定席と呼ばずになんと呼ぶのか。
荻窪のそんな些細な仕草や行動が、高梨にとっては心を明るく照らしてくれる。
――悪くなる前に食べようって伝えなきゃな。
高梨は、思わずこぼれた笑みを隠せないまま、お茶の準備を始めた。
――暗雲を突き刺す、かの陽射し。
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