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第五章 転びゆく、心の在り処(まろびゆく、こころのありか)

 白く煙るような雪が舞っている。荻窪(おぎくぼ)家の庭の木々が白い綿帽子をかぶっているように、白い絨毯を敷き詰めるように雪が舞う。  和風家屋の書斎にぽつりと明かりが灯り、静まり返った家の中では、高梨(たかなし)が一人台所で頬を赤く染めていた。  まさか荻窪がこんなふうに烏賊の塩辛を、保存しているとは思っていなかった。  さっさと食べ終えてしまっているか、それか、好きではなかったら捨てていただろうに。荻窪の性格上、無下に捨てるということはあまり考えられなかったが、それもまたひとつの手段であることは、否定できない。  その、明らかに烏賊の塩辛の居場所はここだ、というふうに置いてあること自体、あり得ないほど嬉しく感じてしまう――。  熱く感じる頬に、緩みそうになる口元を手で覆った。  手にした茶筒をそっと置いた高梨は、呼吸を整えてから急須に茶葉を入れる。教えてもらった通りに淹れているはずなのだが、荻窪は「まだ渋いな」と言って笑うものだから、いつも悩む。  これくらいか、それともこれくらいか。荻窪が好む茶葉の量は相当細かく刻まれて、身体が覚えているのだろう。  湯の温度は熱めが好み、荻窪本人が淹れる時はまろやかな渋みが好み、高梨が淹れるときは多少渋みが強くても大丈夫――。  心の中で呪文のようにつぶやきながら、荻窪が好んで使う湯呑みに急須から注ぐ。もちろん、湯呑みは先に温めておくことも、荻窪から教えてもらったものだ。  しかし、お茶の渋み関して温度が関係することは、教えてもらえなかった高梨は、毎日今日こそはと奮闘していた。  おいしくなれ、おいしくなれ。  最後の一滴を淹れ終わるまで、無意識につぶやいている。  ぴちょん。  湯呑みの中で波紋が広がって、ほんわりと緑茶の匂いが立ち上る。荻窪家の緑茶は、いつもいい匂いがする。茶葉はいつも茶筒に入っているから、どこの茶葉なのかは分からないけれど、きっとこだわりのものなんだろう。  高梨は湯呑みをお盆に乗せると、書斎へと向かった。 「先生、お茶をお持ちしましたよ。熱い方で良かったですか?」  雪見障子を開けると、書斎ではちょうど万年筆を止めた荻窪が、高梨に気が付いた。 「ああ、ありがとう。私の好みを覚えていてくれたのかい。」  高梨はどこに置こうかと迷った末、文机(ふづくえ)の傍に置いてある小さな台の上に湯呑みを置いた。そして、偶然目に入った写真のない写真立て。思わずそこに視点が集まってしまう。これ以上は見てはいけない、そう思って静かに視線を外した。さっきまでの舞い上がるような気持ちは、一瞬にしてしぼまってしまう。  ──あの写真立てには意味がある、先生は意味のないものは置かない人だから。  これはどういう意味があるのだろう。高梨が数回呼吸している間、頭の中でぐるぐると考えていたことだ。  意味のないことはしない人が、写真が入っていない写真立てをいつも見える場所に置いている、それはつまりその写真立てには意味があるということだ──。 「夕飯を、食べていくかい?」  荻窪が高梨の淹れたお茶を飲みながら、ぼそりと低くつぶやいた。  きっと、写真立てについて考えていることが分かってしまったのだろう、夕飯の誘いもきっとそれを逸らすためのものだ、と思いながらも高梨はにこりと笑う。 「あ、はい、あの、先生がご迷惑でなかったら……僕が作りますよ。こう見えて作れるんです、練習しましたから!」  最初に作った料理はそれこそひどかった。荻窪が大慌てで台所に飛び込んできたとき、「先生もこんなに慌てることがあるんだなぁ」と思っていたら、自分が焼いていた魚が黒焦げで、黒煙が立ち上っていたからだ。  荻窪はそれを見て「まるで溶岩みたいだな」とつぶやいたことを、絶対に忘れない。料理を見て覚えた高梨は、それ以降絶対に失敗しないと心に決めた。何冊か、料理の本も買って読み込んだ。  練習する場所がなかっただけで、多少はきっとましになる、はずだ。  荻窪が高梨のその発言を聞いて、くつくつと低く笑いだした。言外に「きみが?」と言いたげな視線を向けられて、少しむっとする。 「ええ、幼馴染に教えてもらったので、この前のようにはなりませんよ。」  この際、そういうことにしておこう。本当は教えてもらったわけじゃないけれど、料理の本を買ったり、無理やり母に付き合わされて、幸代と台所に立ったときに盗み見て覚えたことは言わなくてもいい。 「幼馴染……ああ、もしかしてきみの婚約者殿……。」  婚約者、その言葉を聞いて身震いしてしまった。荻窪にまでそう言われてしまうと、こんなにもその言葉がいやな音に聞こえるものか。  この際はっきりと否定しておかなくては、後々またその「音」を聞きたくはなかった。 「そんなわけないでしょう? さっちゃんに迷惑がかかりますよ、先生。僕はまだまだ未熟ですからね、先生、そんなことくらいご承知でしょう。」  婚約者なんていらない、必要ない。そうはっきりと言ってしまいたい。だけど、そこは一度息を吸って心を整えてから、柔らかく否定する。  二度とその単語を言わないで、そういう思いを込めて少しだけ荻窪をにらみつけた。  それを見た荻窪が、少しだけ意地悪く笑う。意に介さずというわけでもなく、まるでそんな自分の反応を楽しんでいるかのように。  そんな荻窪に勝てるはずもない。高梨は肩を竦めて、「……もう、先生には敵いませんよ。さっさと夕飯にして、原稿を書いてもらいますからね!」と逃げるように台所へと向かった。  台所は書斎から少し離れたところにあるから、荻窪の音があまり聞こえない。  耳を澄ませばやっと聞こえるくらいの小さな物音が、この家の大きさを現しているようだ。そして、台所から繋がる廊下は、いつもその先が暗闇に包まれていて、なにも見えない。  高梨は「暗くなったら使っていいから」と言われている、乳白色の電灯傘を見上げた。電灯をつける「つまみ」は壁についているから、と教えてもらっていた通り、押してみた。  こち、と音がして、小さく少し唸るような音とともに、何度か明滅しながら淡く優しい暖色が台所を照らしてくれる。  これで作業がしやすくなった、と思いながら、高梨は野菜の選別を始めた。  まずはじゃがいも、かぼちゃ、それから米。米には、じゃがいもを混ぜて炊きこむか。高梨は吸水させる時間を考えて、まず米を洗うことから始めた。  そこから手早く(できる範囲で)じゃがいもの皮を剥き、玉ねぎを切り、煮込み料理を作っていく。  幸い、荻窪家には調味料が揃っているので、困ることはなかった。  しかし、あまり料理をしないように見える荻窪の家に、なぜこんなに調味料があるのだろう。  しかも、賞味期限は切れていない。  荻窪はそういったところはまめなのだろうか。  高梨は少し気になりつつも、夕飯の支度を進めていった。頭の中での練習だったが、案外思い通りに動けるものだ。高梨は忙しそうにあっちへこっちへと歩き回る。  その時にふと、白い割烹着(かっぽうぎ)が掛けられているのが目に入り、手に取ってみた。どこか懐かしい匂いがする気がして、袖を通してみる。  もちろん、全部は入らない。背後の紐が結べるわけもなく、高梨はなにをしているんだが、と苦笑した。  そのまま高梨はまた夕飯の支度へ没頭する。  いまは、いまだけはここが自分の城だとでも言うように。  高梨は心の中で歌を歌っていたつもりが、いつの間にか鼻歌になって漏れていたようだ。  最近、町中で耳にした流行歌の、耳に残るあの曲調を思い出す。少し悲しい音調の曲を口ずさみながら、高梨はふと、気配に気がついて振り返った。  まさか、そこにいるとは思わなかった人物がいて、驚きで鼓動が跳ねる。 「高梨くん、お茶を淹れようと思うんだが……。」   少し遠慮がちな荻窪が自身の湯呑みを手に、そこに立っている姿が見えた。  高梨はぎょっとして、慌てて荻窪の元へと早歩きで歩み寄る。 「僕が淹れますから、先生は座っていてください。」   まさか背後に立っているとも思わず、ご機嫌に鼻歌を歌っていた自分を消し去りたい。恥ずかしさをかき消すように、高梨は荻窪に声をかけた。 「では、頼むよ。」  荻窪の声が震えている、手が震えている。高梨は荻窪を、冷たく風通しの良い縁側に立たせてしまったことへの申し訳なさに、その手を握りしめた。  ごつごつとした無骨な手が、手のひらから確かに温かみを持って伝わってくる。 「先生、もしかしてお身体を冷やしましたか? すぐに熱いお茶を淹れますね。」  お盆と湯呑みを受け取って、高梨はまた台所へと引っ込んだ。  少し笑い声のような物が聞こえたような気もするが、高梨は急いでお茶を淹れることを優先する。 「先生、座って待っててくださいね。」  軽く声をかけてから茶葉を急須に入れて、蒸し時間を数えてみる。この速さが違うからあの味にならないのだろうか。  高梨はお茶を淹れるときの温度が関わっていることを知らないまま、ひたすら考えていた。 「お待たせしました、お茶をどうぞ。」  お盆で持ってきた持ってきたお茶を、そっと荻窪に差し出すと「さあ、その味は?」とでも聞きたげに輝いた視線を向ける。  今度こそうまくいってるいるはずだ、と思うのに今回も荻窪はただ「渋いな」と笑うだけだ。 「高梨くん、そういえば……きみ、手をどうしたんだい?」  そう言って荻窪が高梨の手を取る。料理をしていて水に触れている高梨の冷たい手が、無骨で大きな荻窪の手に包まれた。純粋で他意のない触り方に、高梨はどこかでほっと安堵する。温かな手のひらに握り込まれて、高梨は何も言えずにただ言葉を飲み込んだ。  こすり過ぎて赤く擦り切れてしまった関節を、そっと撫でられる。 「これは、あかぎれで……。」  言い淀んで、言葉を切った。洗いすぎたなんて、言えなかった。 「軟膏を塗っておきなさい。」  そう言って荻窪は、軟膏が入った引き出しの場所を目で探す。 「ああ、ほらあの戸棚の引き出しに入っているから、忘れずに塗るんだよ。」  場所を指した指先を目で追うと、高梨は小さな「ありがとうございます」という言葉がこぼれ出た。  意識のしないありがとうの言葉に、自分でも驚いてしまう。  それと同時に、掴まれている手が急に熱く感じた。 「夕飯ができたら、塗ります!」  荻窪の手からゆっくりと引き抜くことを意識して、そぅ、と手を引っ込める。軽く擦られただけのはずなのに、喉がぎゅう、と締め付けられるような、そんな気がした。  高梨は台所に逃げ込むと、顔が徐々に熱くなっていくのを感じる。  ああ、だめだ。  気が付いちゃいけなかった気持ちに、気がついてしまいそうだ。  高梨はずるずると力なく床にへたり込むと、両手で顔を覆う。  あの、ごつごつとした無骨な手が、どれほど優しく触れるのかを知っている。  あの低い声がどれほど優しく響くか、知っている。  そのたびに高梨は無意識に、それを好きだと叫んでいるようなものだった。  この想いは──尊敬なんかじゃない。  そう気がついて、高梨は深く息をついた。  この想いは隠そう、荻窪にはバレてしまわないようにしなくては。  そう心に誓うと、高梨は何事もなかったかのように、再び夕飯の支度を始めた。  白米とじゃがいもの炊き込みご飯も炊けて、おかずも煮込めた、よし、烏賊の塩辛も用意して……、と高梨は居間にある重厚な卓袱台へと運ぶ。 「先生、今回はうまくできたはずです。──あ、これ、食べてしまわないと悪くなってしまいますよ。」  そ、と出した烏賊の塩辛を、荻窪は「あ」と言うような顔で見つめた。 「高梨くんが来たときに、一緒に食べようと思っていてね。」  そうそう、という感じで薄く笑う。そこに嘘はなく、高梨はそんな荻窪に安堵する。 「腕によりをかけたので、きっと美味しいですよ!」  あえて元気に言い放つと、高梨は荻窪と一緒にいただきます、と手を合わせてから、味が心配で荻窪が食べる姿を見つめた。 「美味しいよ。」  ごくりと飲み込んでから、荻窪はそう返事をしてくれる。  それなら良かった、と安心して、自分もひと口運ぶと、確かに前回よりかなり飛躍的に上達していた。 「……食べられなくはない味、といったところですか。及第点ですね。」  荻窪はそんな高梨に一瞬だけ切れ長の瞳を丸くすると、小さく笑う。 「先生、塩辛を乗せて食べると美味しいですよ。あ、お湯使います? まだいいか、おかわりしますよね?」  つい、矢継ぎ早に繰り出す言葉に、今日はやけに口数が多いな、と思ってしまう。  それでもあまり気にならないのは、荻窪が穏やかな雰囲気を漂わせているからかもしれない。 「高梨くんが買ってきてくれた塩辛は、美味いな。」  そんな小さな声ですら、高梨にとっては嬉しく感じてしまう。 「先生、次はもっと美味しくなるはずです、僕の料理。」  一生懸命咀嚼してから飲み込む。  何かが欠けた味がする料理だけど、食べられなくはない。それに、高梨はそれが美味しいと感じていた。  きっと、家で出る料理のほうが味はいいはずなのに。高梨にとっては、こちらで食べる料理のほうがずっと美味しい。  温かいご飯と荻窪と、静かな空間がいまは優しく包んでくれる。  ──本当に、家に帰りたくない。  ぽたりと、心に落ちてきた言葉は、高梨の真の本音だ。荻窪家の居心地の良さを知らなければ良かった。 父の無言の圧力も、母が外見だけを褒める言葉も、すべてが上っ面に見えてしまう。  高梨はそう思いながら、残さずしっかり、お腹がいっぱいになるまで食べることができた。 「高梨くん、こちらにおいで。」  食後、茶碗を洗おうとしていた手を止められて、居間へと連れて行かれる。どうしたんだろうと首を傾げていると、荻窪の前に座らされた。 「手を出してごらん。」  両手を出してから、高梨はその意図に気がついて慌てて引っ込めようとする。  しかし、荻窪の手のほうが早かった。 「洗い物は私がやるから、置いておいていい。その代わり、きみはまず、軟膏を塗らないといけないよ。」  そう言って、丁寧に擦りむけたところに塗り込んでいく。大きな手が器用に、優しく動く様子を見ながら高梨は、震えてしまいそうだった。  申し訳なさと、手に触れられる喜びと、こんなことで心を震わせている自分が居たたまれなくて。  丁寧に塗り込められていく感触はなかなか消えず、高梨は荻窪が洗い物をしている間、完成した原稿を読んでいなさい、と渡された。  高梨は、卓袱台(ちゃぶだい)に置かれた原稿をそっと手に取る。  親鼠が子鼠を殺した人間に復讐する話だった。  高梨が原稿を読んでいる間に、荻窪は洗い物を終え、見たことのない本を片手に読書に勤しんでいた。 「あの、先先。」  おずおずと声をかけてから、荻窪の手元にある小説が最近巷で流行りの純愛小説だということを知る。 「なんだい? 高梨くん。」  荻窪の無骨な指が、純愛小説の頁を捲る。 「あの……、聞きたいことはたくさんあるんですが……ええと……、鼠はたくさん子を成しますよね。」  鼠算式という言葉もあるくらいだ、爆発的に増えるのは目に見えている。 「鼠がどんなふうに子育てするか知っているかい? 毛も生えていない目も皮膚に覆われた小指の先ほどの赤子を七匹から九匹産むんだ。」  荻窪は高梨が何を言いたいのかに気がついて、純愛小説から顔をあげた。 「自身の睡眠も食事も後回しにして、ただひたすら乳を与え排泄を促し、保温して安全を守るんだよ。」  そうして、ずり落ちてきた黒縁の眼鏡を引き上げると、また純愛小説へと視線を戻す。 「彼らの寿命の二年から三年の間の、妊娠期間が二十日ほど、独り立ちまでの間が三週間ほどと考えてごらん。愛情深くなければ、できないと思わないかい?」  その手は再び、頁を捲った。 「でも次の妊娠で……、」  高梨はここまで言ってから、それはまるで自分の家のようだ、と思って言葉が止まる。代わりを産めばいいなんて、軽々しく言ってはいけない──高梨はそう自戒した。 「次に生まれてくる子は、先の子たちじゃあないんだよ。」  荻窪の言うとおりだ。  そこまで愛情を掛けて育てた子鼠を殺されたら、親鼠は悲しいのだろう。  高梨の家のように、息子は三人いるから代わりがいるという、そんな扱いはしていない。 「そうですよね。親鼠が悲しむのは当然ですよね。僕は危うく米屋の店主と同じ考えをするところでした……。」  うちは、鼠以下だな、と高梨は心の中でつぶやいた。小さい頃からなでてもらった記憶もなく、温かい言葉をもらった記憶もない。  ただ、自分の発想が、自身の親と重なる寸前に止まることができてよかった。  高梨は、そう思って荻窪を見つめた。  ──転びゆく、心の在り処。

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