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第六章 平穏の凪、冷えた指

 朝から曇天が広がる空を見上げながら、高梨(たかなし)は雪が降りそうだな、と思っていた。雪駄(せった)の代わりにわら靴を履いた人たちが、身を屈めるように急ぎ足ですれ違う。  懐中時計を手のひらに、路面電車の電停で佇んでいた高梨は、今日の予定を頭の中で組み立てていた。  母鼠の怪談の原稿をもらったあの日、荻窪(おぎくぼ)が読んでいた純愛小説がどうしても気になった。  高梨はつい踏み込んでしまった、荻窪の境界線に。  純愛小説を読んでいる荻窪に、好みなのか聞いてみれば好まないという。 『そういう感情には疎くてね。参考になるかと思ったんだ。』  その言葉に、高梨は心がひとつ分重くなった気がした。荻窪には、もしかして好いている人がいるのかもしれない、人知れず想うだけの相手なのかもしれない。  それが、写真のない写真立ての相手だとしたら……。 『それで? 高梨くんは私に何を訊きたいんだい?』  す、と上げられた視線に高梨は思わず、射竦められた気がした。低い声はじわりと簡単に、高梨を氷漬けにしてしまう力がある。  それでも踏み込んだのは、荻窪が高梨を少しは受け入れてくれている、と感じていたからだ。 『あの、先生は昔、どなたか好──、』  言いかけた瞬間に、荻窪の切れ長の瞳が無意識なのだろう、けれどゆっくりと、見開かれた。  その雰囲気から、高梨は思わず言葉を飲み込んだ。続きを言うことは、できなかった。ひたりと見据えたその双眸(そうぼう)は、高梨が見たことがないほど、暗く閉ざしていたからだ。 『高梨くん、悪いがそれには答えたくないな。』  責めるでもなく、荻窪は静かに視線を逸らした。その横顔は痛みを抱えているように見えて、高梨はこれ以上はなにも言えなくなる。  ──踏み込みすぎた。  ただ、そう感じた。 『ごめんなさい、先生。踏み込みすぎました。』  高梨は素直に頭を下げる、いまはそれしか思い浮かばない。  高梨はそんな荻窪から逃げるように、茶封筒を抱えると何事もなかったかのように立ち上がった。 「先生、原稿をありがとうございました。僕、職場へ戻りますね。それではまたお伺いします。」  そう言って頭を下げる。その間に高梨はうまく笑えるようにと、いつもの仮面をそっと付けた。  顔を上げたときには、いつもどおりの笑顔に戻れるように。  この間の出来事をつい思い出して、高梨は心の芯がまた、あの視線で氷漬けにされたように感じた。  思わず胸元に手を当てて、路面電車がやってくるだろう方向へと目線を向ける。  荻窪の心には誰かがいる──それが簡単な間柄ではないことは容易に察しがついた。  独りきりの生活に慣れすぎている、使われていない部屋までも、独特の静けさが染み込んでいる。  まるで──生きることを拒んでいるかのように見えるのはなぜなんだろう。  あの、「亡霊のようじゃないか」と表現されたあの写真、なにかを弔うかのように整列したあの庭木。  大きな屋敷に住んでいるのに、使われていない部屋。  それらすべてが指し示しているのはひとつしかない気がした。  ──先生には、知られたくないことがある。  見えないようにしていた、衣桁の着物は荻窪のものよりも小さく見える。時折、遠くを見る荻窪の視線は果てなく続く空よりも遠い。  手を伸ばしても届かない星空のようだ、と、高梨は思った。掴めそうで掴めないあの星空──。  高梨は懐中時計をそっとポケットに入れると、高梨が乗る路面電車が滑り込むように電停へと停まった。  すぅ、といつもの日常の音が耳に戻ってくる。  路面電車に乗り込むと、高梨はいつものように立ったまま吊革に掴まって、高い位置から見える遠くを見つめた。  緩やかな景色を見つめたまま、高梨は改めて今日一日にやることを整理する。  日常に追われることは悪いことじゃない、むしろいいことだ。なにも考えなくて済む、仕事の事だけに集中していればいいのだから。  数分も経てば職場に着く、高梨は今日やることを頭の中で順番に並べ終えると、出版社の扉を開けた。  忙しく朝の挨拶が交わされる隙間を縫って、自分の部署へと滑り込む。高梨はデスクの引き出しの中から、これから読まなくてはいけない、投稿されてきた小説の束を手に取った。  もさりとした束を手のひらに感じ、朝からいい気分ではないな、と思いながらもデスクの上でとんとんとまとめていく。  どの原稿もそうだが、みな、力作に込める気迫が文字に出ていた。  ──読みにくいな。  作家というのはどうしてこうも、独特な文字を書き記すのだろう。  個性といえばそうなのかもしれないが、頭にある世界を文字にするには、急がなければ消えていくのだろうか。  高梨はぺらり、ぺらりと一枚ずつ原稿を捲っていった。  力作……ではあるけれど、この物語はどこかで読んだことがある、最近流行りの一本筋に見たことのある肉をつけた文。  頭の中でぶつぶつつぶやきながら、第一選考の如く可不可を分けていった。  こうして分けていった中から、稀に編集長の気まぐれから拾われるような人もいて、ふと、若竹を思い出す。  この前もらった原稿を推敲するのに、これほど手袋が欲しいと思ったことはなかったな、と思い返した。  あの内容をいつも読み返して推敲するのは、高梨にとってある意味拷問といえる。  性への関心がもともと薄かったせいもある、あの家庭のせいで、逆に遠ざけたせいもあった。旧高等学校時代では、おそらく一番性への関心が無縁だった気がする。  いまでは、その無縁さが恨めしいと思うほど、そちらの方向には疎くなってしまった。  実家では、母が幸代との結婚を押し切ろうとしてきているし、余計に距離をおいてしまう。  そしてなおのこと、女性には興味が湧かなくなってしまった。高梨にとって、若竹の原稿はそもそもが事実を捲し立てられたかのような、そんな味気ないものにしか感じない。  ──情緒もなにも、あったものじゃない。  世の中にはそんな直接的な描写を好む人もいれば、そうではない人もいる。  高梨は圧倒的に後者だ。  人間には誰しも、そういった欲があるのは頭では理解しているつもりだ。  ただ、理解できないというわけではないけれど、自分に向けられる好機の視線や好意に関しては別だ、と思う。  気持ち悪い、そう思ってしまうことも多々あった。  自分はどこに行っても、どこにいても、きっとこのまま生きにくいままなのだろうと、思っていたのに。  高梨の手が止まる。  ここで初めての「可」を選び出した。  情緒のある文体に柔らかな表現、そして読みやすさ。この前荻窪が読んでいた純愛小説のように取っつきやすい雰囲気もあるそれをひとつ、可に選ぶ。  荻窪も、恋愛には疎いから、そう言いながら読んでいたあの本を──今度読んでみようかな。  高梨はそう思いながらまた、投稿小説を読み始めた。  窓の外は薄暗くなり、雪の粒が空から落ちてくる。  ばちばちと窓硝子に当たり、窓の桟にも積もり出してきた。  今日は降りそうな空模様だったからな、と雪を眺めながら高梨はまた原稿の選別に戻る。  昼までには終わらせて、同僚や先輩方と近所の定食屋で昼食を摂ったあと、次は……と手を伸ばした先はアンケートの解答葉書の束だ。  今日は朝からずっと人が書いた文字を書いているな……、そう思いながら、葉書を仕分けていく。  誰かが通り過ぎざま、「せいが出るな」と声をかけてくれたことには軽く返事を返し、また作業に没頭した。  一体いくつの作業を終わらせたのか、暗くなる頃には高梨の目がしょぼしょぼになる。  人が書いた文字はどうしても読みにくく、感情も乗りやすい。  ふと窓から外を見れば、暗がりの中、まるで明かりに突進してくる虫のように、窓にはいくつもの雪がぶつかっていた。  ──路面電車が動いているうちに、今日は引き上げるか。  窓から見る外はすでに、五寸(十五センチメートル)ほどは積もっているだろうか。  ふと、荻窪の家の前のことを思い出す。  荻窪のことだから、また家の中に閉じ籠もってなにもしないでいるのではないだろうか。  気になってしまったら、どうしようもない。 「荻窪先生のところから直下します。」 「はいよ、頼んだよぉ。」  のんびりとした編集長の声と重なって「高梨は、荻窪先生のこと、不気味に思わないんだな」という、噂話をするような声色が聞こえた。  一瞬だけ足を止める。しかし、すぐに止めた。そういう意味が分からなくもないからだ。  あの静けさそのものを吸い込んだような、静かな屋敷に独りで住んでいる上、お世話をしてくれる人がいなくても、自分でやってしまうような人だ。  言いたいことは分かる、同調はしないけれど。 「荻窪先生が大丈夫なら、専属で高梨についていてもらおうや。──あの先生、お前らが思ってるほど不気味な人じゃあないんだがな。」  高梨の背中越しにそう、編集長の声がかすかに届いた。  その言い方に、編集長はなにかを知っているのかいないのか分からなかった。だが、「不気味な人ではない」ことを知っている人が、自分以外にもいたことが少し嬉しかった。  社屋から外に出た高梨は、防寒具で身につけていた外套を風に持っていかれそうになる。  路面電車に乗り込んで、近くの電停で降りてから雑貨屋で雪かき用のスコップを買い込んで、荻窪家へ向かった。  いつものように目印はそこの角、そこを曲がったら見える黒塗りの木板でできた塀はすっかり白くなっている。  高梨は急いでさっき買ったばかりのスコップで辺りの雪を、掻きしていった。どこに置こうか迷いつつ、迷惑にならなそうな、家と塀の隙間に雪を置いていく。  ──聞いておけばよかったな。  あらかた雪を掻き終わり、最後は丁寧に狸の置物から素手で雪を払った。  正直なところ、いまもまだこの置物が狸の置物だということは信じられていない。  荻窪が「狸の置物」と称したから、狸の置物なんだな、と思っているだけだ。  高梨はひと息つくと、顔を出すかそれともやめるか、少し迷う。  だが、顔を見たいという気持ちのほうが、勝ってしまった。  玄関に鍵がかかっていたら、今日は帰ろう。そう思って手をかけてみれば、からからと軽い音をたてて開いてしまう。  高梨はきっと執筆中なのだろうと予測して、静かに入っていった。いつものように、玄関を上がり台所を経由して居間を抜け、縁側に。  真っ直ぐに行けば書斎だ。  縁側に出た瞬間に書斎にはいつもの石油ランプが灯っていて、まだ起きていることを知らせてくれる。  高梨は夜だということ、執筆していることを考慮して、ゆっくりと古い木板の廊下を歩き出した。 「ああ、高梨くんのあの下手くそなお茶が飲みたいな。」  荻窪の、思わずこぼれ出たようなそんな小さな声がして、高梨は驚いてしまう。  下手くそなお茶、という表現はいただけないが、少しでもそれを恋しく思ってくれているのか。 「下手くそとは心外ですね、先生。雪がひどくなってきたから、帰りに様子を見に来たのに、悪口を言われていたなんて。」  雪見障子を勢い良く開けてみれば、それに驚いた荻窪がほんの僅か固まったように高梨を見つめる。  そこから慌てるように、「ああ! 高梨くん、廊下に居てくれ! いますぐ手ぬぐいと着替えを用意するから」と、急いで私室に向かって、手に手ぬぐいなどをたくさん持ってすぐに戻ってきた。  荻窪が、手ぬぐいとなにか着物のようなものを手渡してくれたのは分かったが、それでまずは髪を拭こうとして手が止まる。  高梨の目の前に立っていた荻窪が、躊躇いなくその頭の雪を拭き始めたからだ。 「先生のお手を煩わせるつもりは……、」  高梨は慌てて、その手を止めようとする。冷えた身体をしているはずの自分を触らせるわけには、いかない。 「気にしなくていい。」  逆に荻窪に、その手をやんわりと降ろされてしまう。高梨は目の前に立つ、自分よりも少し背の高い荻窪にされるがまま、ただじっとしていた。 「あらかた水分が拭えたら、これしかなくて申し訳ないが、書斎の奥の部屋で着替えてくるといい。」  そう言って、高梨に手渡した着物を示したあと、源氏襖を指差した。  源氏襖の奥の部屋は、荻窪の私室だ。  ──あの襖の奥は、先生の私室だ。  高梨が思わずそれは、辞退する。個人的な空間に入るわけにはいかない、さすがにここは一線を置くべきだ。  だが、荻窪は特に何もないから気にしないでくれ、と言う。書斎で着替えられることがなにか、困るようなことなのだろうか。  そう思いつつも、高梨は源氏襖の奥へと足を向けた。  荻窪が言うように、そこは特に何もない静かな和室が広がっていた。  強いて言うなら、洗濯物を入れるための籠がひとつ、ふたつ。  しかし、寝室だ、と言う割には万年床ではない様子や、寝る前に読むのだろうか、本が一冊、二冊置いてある。  書斎から見ると、確かに何もない、という表現に当たるのかもしれないな、と高梨はそう思いながら、着替えることにした。  これしかなくてすまないが、と手渡された着物は、しっかりと洗ってある──それこそ、洗濯屋に出したのか、と思うほどの──手触りがした。  袖を通し、兵児帯(へこおび)を締める。  いつも自宅で着ているようにすると、少しは気持ちも砕けた気分だ。  渡された衣紋掛けに背広を掛けて、長押にかける。洋袴(ズボン)は皺にならないようにしてから、衣紋掛(えもんか)けに掛けて、同じように長押(なげし)にかけた。  すぅ、と源氏襖を開けると荻窪が文机に向かって、書き物をしているところだった。羽織った半纏は温かく、雪で冷えたはずの身体は温まり始めている。  物音に気がついた荻窪が振り返り「ほら、火鉢に当たりなさい」そう言って火鉢を指差した。  ぱちりと爆ぜる火鉢を前に、高梨は消え入りたい気分になる。  迷惑をかけに来たわけでは、なかったのに。  それでも、火鉢の上に手をかざせば、じんわりとした温かさが冷えた指先を温めていった。 「様子を見に来ただけでご迷惑をおかけするつもりじゃ……、」  これでは荻窪の仕事の邪魔しか、していない。高梨は少しでも早く荻窪家から辞そう、と思いながらも、離れがたいという感覚にも囚われていた。 「様子を見に来てくれてありがたいと思っているよ。……だけどね、高梨くん、きみが風邪を引いてはどうしようもないだろう?」  荻窪が苦笑する。  呆れた顔というよりは、困ったような顔をしていた。 「身体が温まるまで、火鉢の前に座っていなさい。」  そう言うと、荻窪はまた文机に向かってしまう。そうして、原稿に万年筆を走らせる音だけが響き出した。  ぱちり、火鉢の木炭が爆ぜる。ぼんやりとした橙色を見ていると、気が遠くなってきそうだった。  ばちばちと、雪が雨戸を叩く音が、だんだん遠くに聞こえてくる。うとうとしてきたとき、眠ってはだめだと何度も自分を叱咤したはずなのに。  高梨はまた、荻窪の書斎ですぅすぅと寝息を立ててしまっていた。  うつらうつらした記憶の中で、安心する重さが身体を包みこんだ気がして目を開けると、大きな手のひらが頭を撫でてくれた。 「気にせず眠りなさい。」  低い声が聞こえて、高梨はその声に安心感を覚え、無意識に薄く微笑んだ。  ──平穏の凪、冷えた指。

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