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第七章 柔き背を撫で、闇に消ゆ 其の一

 高梨はその日、朝から雪が降る中いつものように路面電車の電停で電車を待っていた。  春待ちの雪は重く、ひと粒ひと粒が大きい。  いままでの雪が握りこぶしくらいだとするなら、いま降りしきる雪は手のひらを思い切り広げたくらいの差があった。  手のひら程大きさの雪は、容赦なく電停に立つ高梨の身体を叩いていく。  ぶるりと寒さに身を震わせてから、外套の前を引き締める。ぼたぼた落ちてくる雪が前髪からずるりと垂れて、頬に当たった。つぅ、と涙のように伝うそれを、高梨は無関心に手の甲で拭き取った。  幾数日前、またしても荻窪家で迎えた朝は、驚いた。ものすごくゆっくりと眠り、これ以上ないほどのすっきりとした目覚めだったからだ。  しかし、いつもの自宅の薄暗くて湿っぽい天井ではなく、陽射しが入り込んだ朝の様子が、見慣れない。  思わず身体を起こすと、掛けられた布団がずるりと落ちた。手からは畳の感触が伝わり、自室の畳とは触感が違う。自室の畳はどこか湿っているのに対して、いま触れているこの畳はさらりとしていた。  一瞬どこにいるのか理解が追いつかず、辺りを見回してみれば、耳障りの良い低い声がする。 「やあ、おはよう。よく眠れたかい?」  荻窪の声に、やはり理解が追いついていかないまま、疑問系の言葉を返した。 「お、おはようございます……?」  ──なんでここに? ここはどこだ?  そんな疑問が溢れてくるということは、まだ頭が起きていないのだろうか。 「水でも飲むかい?」  混乱している高梨を落ち着かせようとしてくれたのか、差し出された洋風のグラスはとても品の良いものだ、と手から伝わる質感で気がついた。  そのまま誘われるように飲み干せば、昨日のことが一気に蘇ってくる。 「ここは、先生のお宅ですよね?」  確認のためにきいてみた。その声がどこか上擦っていて、高梨は自分が混乱していることが耳からも伝わってくる。そんな自分を楽しそうに見つめる荻窪の、少し愉快そうなその表情に見つめられ、頭は徐々に起きていった。 「私がいるのだから、私の家だね。」  当たり前のように返事が返ってきて、荻窪の手の中でいつもの万年筆が転がされる。  それはそのまま文机の上に、小さな音を立てて置かれた。  やってしまった、と青くなっている高梨の横で、荻窪は静かに近づいて額に手を当てる。 「熱はないようだね、風邪を引かなくて良かったよ。」  そう言って薄く、荻窪は安堵したように微笑んだ。それを見た高梨は、喉の奥よりもっと下からせり上がってくるような、頬を目掛けて一気に赤く染め上げるようななにかを感じて、息を呑んだ。 「あの、僕は迷惑をかけに来たわけじゃなく、雪がひどかったので心配で……!」  焦りと照れくささと申し訳なさが混在した、言葉にはできない感情が、喉の奥でぐるぐるとうごめいている。どれを先に言葉にしたらいいのか、迷ってしまう。  だが、結局どれも言葉にはならないまま、高梨は肩を竦めた。 「うん、迷惑だとは思っていないから、安心しなさい。」  穏やかな低い声が、そう伝えてくる。  言外に「大丈夫だから」という気持ちを乗せて。  これ以上謝るのも失礼に当たるだろうし、と顔を上げてみれば、荻窪は「君がここで見張っていてくれたから、原稿が仕上がったよ」と、冗談めかして渡してくれた。 「ありがとうございます! 早速読ませてください。」  いつものように、誰よりも最初に荻窪の原稿を手に取り、それを読めるのはこの仕事の特権だ。  流れるような独自の流線型の文字は、一度読めるようになってしまえば、読みやすく思えた。  雪の女が朽ちたくなくて、白花を探す話だった。  この女は朽ちることに恐怖を感じていて、それは人の命を奪うことにも悪気を感じていない。  むしろ、この女が生きていないからこそ、簡単に人の命を奪うのだろう。  この女の言う「朽ちる」とは、身体ではなく魂のほうなのだろうか。高梨はふと、読み進める手を止めて、考え込んだ。  白い花、というのは謎掛けなのだろうか。  この女は、一人の男を殺せなかったばかりに、朽ちていく──。  そうか。  この女が言う「白花」はきっと、男性の生命のことだ。高梨はふと思う。  生命を奪いつなぎ合わせていたのだろう。  だが、一人の男を殺せなかったばかりに、その生命のようなものが朽ちてしまったのだとしたら。 「先生、朽ちるのが怖いのはみな、同じではないでしょうか?」  高梨は、読み終えてから荻窪を見ると、静かな視線と目が合った。  高梨はこの「生きたい」と願った女の気持ちが、分からなくもない。しかし荻窪は、そんな高梨の言葉に、少しだけ悲しそうな色を浮かべた。  それから、ひたりと真顔になると荻窪は、高梨を留め置くかのような視線を向ける。  そうして、荻窪は少しだけ目を伏せた。 「朽ちるのを待つ者もいるとは思わないかい?」  あまりにも静かな──。  それでいて、ひどく残酷なひと言だ。  高梨は荻窪が「なぜ」そんなことを言うのかと思って見つめ返すが、当然のように答えはない。 「そういう人間もいるということだよ、高梨くん。」  そのひと言は、それがまるで自分自身がそうだと、告げているように感じて、高梨はなにも言えないまましばらく立ち尽くした。  生きることを拒んでいるかのような印象は、当たっていたのかと、ただ心にすとんと落ちてくる。  いつか感じたそれは、間違いではなかった。荻窪が纏うこの静かな空気は、「朽ちるのを待つ者」だからなのか。だが、高梨はそれとしてもどこか、なにか違うとも思えた。  高梨はいつものように、編集者としての顔になかなか戻れずにいる。  荻窪のあの言葉が心に刺さったまま、凍てついてしまって。  取ろうとしたら、自分の心の肉までもこ削いでしまいそうだったから。  ――先生は死にたいのですか。  そう、問うことはできなかった。もし、「そうだ」と答えが返ってきたら、自分がどう答えるのか考えられなかったから。なぜそう思うのかと、問い詰めてしまいそうだったから。  路面電車が、春待ちの雪を掻き分けながら、電停に流れ込んできた。  高梨はいつものように電車に乗り込むと、いつものように遠くの景色を見ることができない。ただ近場の、流れていく景色をただ映していた。  遠くの景色を眺めれば、きっと頭に荻窪がよく見る「空の向こうを見る横顔」を思い出してしまうから。  見つめる先を決めないままに、いつまのように頭の中で今日一日のやることを整理する。  行きたくはないが、若竹の原稿を取りに行かなければならなかった。  ──面倒だな。  担当を変わってほしいと言えるほどの能力も実力もまだ、ない。  しかも、若竹だ。変わりたい人などいないだろう。  高梨は重く息を吐き出した。  ──今日はなんだか、全部がうまく行かない気がする。  朝いちから若竹のところだなんて、ついてないな。  高梨は気分の切り替わりを意識するように、目をつぶった。  ***  北国の人間は基本的に雪の日はあまり傘をささない。それはなぜかといえば、単純に雪は「ほろう」ものだと思っているからではないだろうか。  高梨もまたその一人であることは間違いなく、このぼた雪の天気なのにも関わらず、傘を持っていなかった。  いつもの癖だ。  外套を着ている肩に積もる雪を、手で払い落とす。頭に積もる雪は、かぶりを振ってふるい落とす。  そうしながら歩くこの道がとても嫌なものでしかないのは、この先に若竹がいるからだ。  また、あのねっとりとした空間で、湿った音を聞きながら乱暴な筆音を聞かなければいけないのか。  いつものように下宿屋で靴を脱いで、古木の床をぎしぎしと歩いていく。  いろいろな染みが付いた襖越しに「高梨です」と声を掛ければ、どたどたと足音が響いて勢い良く襖が開いた。 「お待ちしていましたよ、高梨さん。」  高梨より小柄な若竹が、顔を出す。痩けた頬に窪んだ瞳が青白く、また寝ていないようだった。 「それはどうも。これ、手土産です。」  ぐい、と差し出したそれは適当に買った蜜煎餅だ。そんなに高価なものではなかった。  あまり高価なものを買っていけばこの若竹は、なにかとんでもない勘違いをしてくれそうだし、適当に選ぶことが一番良いと思われた。  だが、実際は何を買っていってもこの男はいい方向へと勝手に想像して、喜ぶから手に負えない。 「これ、蜜煎餅じゃないですか! 僕、大好きなんですよ、高梨さん、僕の好み調べました?」  ──無、無になれ。 「いいえ。歩いていたら売っていたので。」 「それじゃ、運命かなぁ。」  ──無心だ。 「どこにでも売っているでしょう。」 「ところで高梨さん、どうして部屋に入らないんですか?」  若竹は廊下から部屋の中に入ろうとしない高梨に、不思議そうな目を向ける。 「ああ、雪で濡れてしまったので、ここでお待ちします。」  若竹はその言葉を聞いて、す、と室内に戻っていった。今回は諦めたか、と安堵した瞬間、ぬ、と差し出されたのは薄汚れた一枚のぬぐいだ。 「これで拭いてくれたら、大丈夫ですよ。」 「いや、それは申し訳ないので遠慮しますよ。」  触りたくもない、いろんな染みが付いて黄ばんだ、いつ洗ったのかも分からないような手ぬぐいなんて。 「そんなこと言わずに。」  そう言って若竹はこともあろうか、高梨の頭にその手ぬぐいを乗せると拭こうと手を伸ばしてきた。 「若竹さん、そんなことをしていただく筋合いはございませんので。」  少し、拒絶の言葉がきつすぎたか。  そう思って見てみれば、若竹はどこかで夢心地の表情をしていた。 「高梨さん、首すじ、いい匂いしますね。なんだか柔らかそうで、お花みたいな蜜のような匂いですよ。」  さらに近づこうとしてきたので、高梨は思わず一歩後ずさる。血液が一気に胸の辺りに沈殿していくような、不快感──。  ──吐きそうだ。 「畳を濡らしたら大家さんに顔向けできないので、僕はここで待たせてもらいます。」  若竹は大家を持ち出せば、黙ることは知っていた。  ただ、それを頻繁に出すことはできないのだけれど。 「そこまでいうなら……、でも、高梨さんの首すじの匂いのおかげで良いものが書けそうですよ。」  にや、と笑うその顔は、まさしく情欲にまみれた顔をしていた。  胃の中からせり上がってくる気持ち悪さを必死に堪えて、高梨は廊下に立って待つことにした。  ──廊下で数時間でも待つほうがましだ。  いまでも鳥肌が引いてない。  今までの中で最高に気持ち悪い発言を浴びせられ、高梨は心身ともに一気に疲弊した。  どこでもいいから、早く帰りたい、そう思ったのは初めてかもしれない。  荻窪が読んでいた本は、この前書店で見つけて購入済みだ。いっそのことここで読んでおこうか、と鞄の中から本を取り出した。  時間を潰すためのもの、としての扱いは本に申し訳ないと思いつつ、頁を開く。  そこには引き裂かれそうになりながらも困難を乗り越える純愛物語が描かれていた。  簡単に言えば、だけれど。  ふと懐中時計を見れば、あれから二時間は経っている。さすがにそろそろ書き上がるだろうか。  声を掛けたくないが、仕方ない。高梨は襖越しに若竹へと声を掛けた。 「若竹さん、そろそろどうでしょうか?」  その声にしばらくの間のあと、ゆっくりと出てきた若竹は「高梨さんのおかげで最高のものが書けましたよ」と息も荒く原稿を差し出してきた。  もう片方の手には、あの、汚らしい手ぬぐいを握りしめて。 「では、原稿をいただいていきます。」  高梨は一刻も早くここから出たかった。  しかし、ちらりと横目で見た若竹の、気持ち悪さの真骨頂を垣間見ることになる。  なぜ息が荒かったのか、なぜ高梨に渡そうとした手ぬぐいを握りしめていたのか。  高梨はなにを見たのか。  手ぬぐいに拭われたそれはまだ光を反射するほど生々しく、独特の匂いを放っていた。  ──限界だ。 「それではまた再来月に。失礼します。」  態度だけはしっかりと頭を下げてから、高梨はいつもよりもずっと足早に、若竹が棲む下宿屋を飛び出した。  出版社に戻ってから高梨は、便所に立ち寄り胃の中のものを吐き出した。耐えきれない気持ち悪さが、全部出ていったような感覚に陥る。  すっきりしたかと聞かれれば、まったくすっきりはしないけれど。  口の中をゆすぎ、何度か顔を洗い、鏡の中の自分の顔を見てみれば、そこにはやつれて疲れきった顔が映っていた。  ──若竹と大して変わらないじゃないか、自分も。  濡れた口を手の甲で杜撰に拭くと、どこが痛いのかさえ分からない痛みに襲われる。  とりあえず、若竹の原稿は机の引き出しに仕舞ってから次は、と考えながら便所を後にした。 「高梨、荻窪先生の原稿はどうなってんだ?」  高梨が戻ってくるなり、編集長がそう声をかけてくる。若竹のことでいっぱいいっぱいになっていた自分を叱りとばし、「これから行きます」と返事を返した。 「そうか。あの先生一人っきりだからさ、なにかと世話してやってくれな。お前さんとは合うみたいだし。」  編集長はそう言ってから、直下でいいぞ、と付け足した。  編集長は、やっぱりなにかを知っているようだ。  それも、荻窪が今のようになる前の姿を知っている。  若竹のことも言いたかったが、いまはまだ立場が弱いせいで発言もままならない。  いずれは若竹から離れてやると心に決めて、高梨は荻窪家へと向かった。  ***  いつものように玄関に手をかけると、軽い音をたてて格子戸が開く。いつもと違うのは、奥の方から聞いたことのない小さくて頼りない足音が響いてきたことだ。  玄関に一歩足を踏み入れたところで、とたとたと小さくて覚束ない足音とともに、荻窪の珍しく焦った足音が聞こえてくる。   「ああ、待ちなさい、ちびや。」  少し急いだような、柔らかい荻窪の声が後を追うように続いた。  白い小さなもこもこが廊下を転がってきた──のではなく、走ってきたんだ、と理解した時にはその物体は荻窪の手に抱えられていた。 「すまないね、まだ全部を書き上げていないんだ。」  荻窪はその白い物体を手の中に抱きかかえると、高梨にすまなさそうにそう告げる。  しかし、高梨はそれどころではなかった。  あれ、よく見ると猫ではないだろうか。  猫は苦手だ。  夜によく、泣いているような声を出しているから。  夜目がいきなり光って脅かしてくるから。  なにかを探すように、威嚇するように鳴き続けていることがあるから。  触れば爪を出して蛇のような音を出すし、化け猫と言われるくらいに念が強い──。あの蛇のような目に見つめられることがどれほど恐ろしいか。 「もしかして高梨くん、猫がだめだったかい?」  高梨の反応を見た荻窪が、困ったようにそうきけば。 「そ、そんなことはありませんよ。ただ、僕あんまり動物と触れ合う機会がなかったので……、ただの食わず嫌いなだけです!」  慌てて否定する内容がすでに、苦手だと言っているようなものだった。 「苦手なものは仕方がないが……、この子はきみに悪さをするような子ではないよ。──きみがこの子に悪さをしない限り、だがね。」  荻窪の子猫を撫でる手はゆっくりと優しいもので、子猫もその手に身を任せている。  ──分かるよ、白い子猫ちゃん。  高梨は、思わず心の中で同意した。 「僕が動物をいじめるように見えますか?」  そんなことするはずがないじゃないですか、と言外に心外だと言う意味を込めて見上げれば、荻窪はそれがおかしかったのか、低くくつくつと笑った。 「そうは見えないから安心しなさい。──ちびや、高梨くんにご挨拶しようか。」  ちび、と呼ばれた子猫は、子猫独特の青い瞳で高梨をじぃっと見つめる。高梨が想像していたような蛇のような目ではなく、くすんだ青にまん丸い黒目がくるりんと、高梨を見つめた。桃色の鼻を赤く染め、すんすんとなにかを嗅ぐような仕草を見せたその子猫に、高梨は思わず目を奪われる。  猫って、こういう生き物だっただろうか。    ぽわぽわとした淡い毛並みがまるで毛玉のようで、高梨は思わず指を差し出した。  鼻先で確認するかのように匂いをかいで、すり、とその指に顔を擦り付けてくる。吸い込まれるような柔らかい毛並みに、高梨は擦り付けられた頬の意味を荻窪に尋ねてしまった 「これはどういう感情で……?」 「親愛の印とでも思っておけばいいだろう。」  少なくとも高梨は、ちびに受け入れてもらえたようだ。むりむりと動いたかと思うと、ていっ、とでもいうかのように飛び降りて、書斎へと走っていくちび。  思わず驚いて、息をのんでしまった。 「あの子をね、この前保護してしまってね。」  荻窪は書斎に向かいがてら、ちびとの経緯を話し出した。その世話に明け暮れていたから、筆が進まなかった、ということらしい。  見た感じ、やんちゃざかりだ。荻窪の今までの環境  とはかけ離れてしまったこともあって、筆が止まってしまったのか。  困ったな、と言いながらもどこか荻窪は楽しそうに微笑み、ちびのころころした姿を眺めている。目が離せないのは、好奇心旺盛な故に、いろいろなものに手を出してしまうかららしい。  ちびに慣れて、先生の筆を進めなくては。  そう高梨が決心しなくても、ちびが高梨にべったりくっついて離れなくなるのは、もうすぐのことだ。  ──柔き背を撫で、闇に消ゆ 其の一

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