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『怖い上司が、家では俺を褒め殺してくる』 怜士 × 遥斗 #2
##2
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付き合い始めてからも、遥斗はしばらく怜士を「部長」と呼んでいた。
仕事中なら分かる。
だが、休日のカフェでも、夜の電話でも、つい口から出てしまう。
「部長、明日の資料なんですけど」
「今は勤務時間外だ」
「あ、すみません」
「謝るところではない」
電話越しの怜士の声が、少し低くなる。
「遥斗」
名前を呼ばれただけで、遥斗の心臓が跳ねる。
「はい」
「俺のことを、仕事の肩書きで遠ざけるな」
遥斗は言葉に詰まった。
遠ざけているつもりはなかった。
けれど、そうだったのかもしれない。
怜士は完璧な上司で、自分はミスの多い部下。
恋人になった今でも、その差が怖かった。
「……怜士さん」
初めて、そう呼んだ。
電話の向こうで、怜士が黙る。
「部長?」
「呼び直すな」
「え」
「今のままでいい」
声が少しだけ掠れていた。
遥斗の顔が熱くなる。
「怜士さん」
「……ああ」
たったそれだけで、胸がいっぱいになった。
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数日後。
遥斗は、また無理をした。
大型案件の資料修正。
先方への再提案。
社内調整。
雄女化した身体は疲労が顔に出やすいと分かっているのに、遥斗はそれを隠そうとした。
怜士に心配されたくなかった。
恋人になったから甘やかされていると思われたくなかった。
だから、いつも以上に働いた。
その結果、会議後に足元がふらついた。
「橘!」
怜士の声が飛ぶ。
遥斗は壁に手をついた。
「だ、大丈夫です」
「大丈夫な顔ではない」
怜士がすぐに近づき、遥斗の手首を取る。
脈を確かめるような仕草に、遥斗は慌てた。
「会社です、部長」
「だから何だ」
「見られます」
「倒れる方が問題だ」
怜士は周囲へ短く指示を出した。
「会議は十五分延長。資料は共有済みの最新版を使え。俺は橘を休ませる」
社員たちは一瞬固まったが、怜士の声に逆らう者はいなかった。
休憩室。
遥斗はソファへ座らされ、温かい飲み物を渡された。
「飲め」
「すみません……」
「謝るな」
怜士は遥斗の前に立った。
厳しい顔だった。
「また自分を粗末にしたな」
遥斗は目を伏せる。
「恋人になったからって、甘えてると思われたくなくて」
「誰に」
「周りに」
「俺にか」
遥斗は息を詰めた。
怜士の声は静かだったが、怒っていた。
「遥斗」
「はい」
「俺が選んだ相手を、お前自身が低く扱うな」
胸を突かれた。
怜士は続ける。
「お前が頑張っているのは知っている。だから、頑張るなとは言わない」
その目が、まっすぐ遥斗を見つめる。
「だが、倒れるほど削ることを努力とは呼ばない」
遥斗の視界が滲んだ。
「怜士さん」
「俺に管理させろ」
「……管理?」
「食事。睡眠。仕事量。休むタイミング」
「それ、恋人というより上司では」
「恋人だから、さらに厳しくなる」
「怖い!」
遥斗が思わずツッコむと、怜士の口元がわずかに緩んだ。
その少しの笑みだけで、遥斗は安心してしまう。
悔しい。
でも、嬉しい。
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その日の夜。
怜士は遥斗を自宅まで送った。
遥斗の部屋は、思ったよりも質素だった。
小さなテーブル。
仕事用のノートパソコン。
冷蔵庫には、栄養ドリンクとゼリー飲料ばかり。
怜士は冷蔵庫を見て、無言になった。
「……怜士さん?」
「これは何だ」
「冷蔵庫です」
「中身の話だ」
「忙しい時は便利で」
怜士の視線が鋭くなる。
「遥斗」
「はい」
「明日、買い物に行く」
「え」
「食材を買う。作り置きもする」
「え、怜士さんが?」
「俺が」
「部長、料理できるんですか?」
「勤務時間外だ」
「怜士さん、料理できるんですか?」
怜士は少しだけ目を細めた。
「できる。お前よりは」
「それは大体の人がそうです」
「自覚があるなら改善しろ」
遥斗は思わず笑ってしまった。
怜士は厳しい。
でも、その厳しさの向きが、もう以前とは違う。
ミスを正すためだけではない。
遥斗を生かすための厳しさだった。
****
週末。
二人はスーパーにいた。
怜士は買い物かごへ、野菜、肉、魚、卵、ヨーグルトを淡々と入れていく。
遥斗はその横で目を丸くしていた。
「怜士さん、買い物まで効率的ですね」
「献立を決めてから来ている」
「すご……」
「遥斗、菓子パンを戻せ」
「見てた!?」
「見ている」
その言葉に、遥斗の胸が少し跳ねた。
仕事でも。
食事でも。
怜士は見ている。
けれど、監視されている感じではない。
見捨てないために見ている。
そんなふうに思えた。
「怜士さん」
「何だ」
「俺、こういうの慣れてないです」
「買い物か」
「違います」
遥斗はかごの持ち手を握った。
「誰かに、ここまで生活の中に入ってこられるの」
怜士が足を止める。
「嫌か」
遥斗は首を振った。
「怖いです」
正直に言った。
「でも、嫌じゃないです」
怜士はしばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「俺も慣れていない」
「え?」
「誰かの食事を考えて、帰宅時間を気にして、休日に買い物へ来る生活に」
怜士は少しだけ苦笑する。
「仕事だけで回っていた生活に、お前が入ってきた」
遥斗の胸が熱くなる。
「迷惑ですか」
「逆だ」
怜士が遥斗を見る。
「ようやく、人間らしい生活になった」
遥斗は何も言えなかった。
スーパーの蛍光灯の下。
買い物かごを持った完璧な上司が、そんなことを言う。
ずるいと思った。
****
夜。
怜士の家。
キッチンには、作り置きの惣菜が並んでいた。
遥斗はテーブルに座り、目の前の料理を見つめる。
「すごい……」
「数日は持つ」
「怜士さん、何で独身だったんですか」
「必要がなかった」
「今は?」
怜士は皿を置きながら、少しだけ間を空けた。
「必要になった」
遥斗の顔が熱くなる。
「そういうこと、さらっと言いますよね」
「さらっとではない」
怜士は向かいに座った。
「考えて言っている」
さらにずるかった。
食後。
遥斗が食器を片づけようとすると、怜士が止めた。
「今日は休め」
「でも」
「倒れかけた人間が言う台詞ではない」
「う……」
怜士はソファへ座るよう促した。
遥斗は素直に腰を下ろす。
すると、怜士が隣へ来て、遥斗の額へ触れた。
「熱は下がったな」
「医者みたいですね」
「管理対象だからな」
「言い方!」
遥斗が笑うと、怜士の表情が少し和らいだ。
その顔を見ると、胸がいっぱいになる。
「怜士さん」
「何だ」
「俺、頑張りたいです」
「知っている」
「ちゃんと、あなたの隣に立てる人になりたい」
怜士は遥斗を見つめた。
「もう立っている」
「でも」
「遥斗」
怜士の声が低くなる。
「俺の隣は、完璧な人間のために空けているわけじゃない」
遥斗の息が止まる。
「お前のために空けた」
怜士は、遥斗の手を取った。
仕事中なら絶対にしない触れ方だった。
「だから、勝手に降りるな」
涙が出そうになった。
遥斗は何とか笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「……はい」
怜士の手が、遥斗の指を包む。
「それと」
「はい」
「俺の生活に入れ」
遥斗は目を見開いた。
怜士は、まっすぐ見ていた。
「食事も、睡眠も、帰る時間も。お前の分を、俺の予定に入れたい」
「それって」
「同居の話だ」
遥斗の顔が一気に赤くなる。
「急すぎません!?」
「急ではない。かなり考えた」
「いつからですか」
「お前の冷蔵庫を見た時点で確定した」
「理由が生活感!」
「重要だろ」
「重要ですけど!」
怜士は真顔だった。
けれど、その耳が少しだけ赤い気がした。
遥斗は胸が苦しくなるほど嬉しかった。
結婚しよう、という派手な言葉ではない。
甘いだけの告白でもない。
でも怜士らしい。
自分の生活に入れ。
帰る場所でいてくれ。
一緒に整えていこう。
そう言われている気がした。
「……俺でいいんですか」
口から出た瞬間、遥斗はしまったと思った。
怜士の目が少し険しくなる。
「遥斗」
「はい」
「また自分を下げた」
「すみません」
「謝るところでもない」
怜士は、遥斗の手を強く握った。
「俺が選んだ」
その声は、揺れなかった。
「お前だから、俺の生活に入れたい」
遥斗の目から、涙が落ちた。
「……怜士さん」
「何だ」
「俺、帰る場所になれますか」
怜士の表情が、ほんの少しだけ崩れた。
「もうなっている」
その一言で、遥斗は完全に泣いた。
怜士は慌てない。
ただ、遥斗を静かに抱き寄せる。
完璧な上司の腕ではなく。
恋人の腕だった。
「泣くな」
「無理です」
「なら、落ち着くまでここにいろ」
「……命令ですか」
「お願いだ」
遥斗は泣きながら笑った。
「怜士さん、お願い下手ですね」
「慣れていない」
「じゃあ練習してください」
「分かった」
怜士は遥斗の髪へ、そっと口づけた。
「遥斗、俺の帰る場所でいてくれ」
遥斗の胸が熱くなる。
「はい」
震える声で答える。
「俺でよければ」
怜士がすぐに眉を寄せた。
「“俺がいい”と言え」
遥斗は涙を拭いながら、少し笑った。
「……俺が、いいんですね」
「そうだ」
即答だった。
その迷いのなさに、遥斗はまた泣きそうになる。
厳しくて、完璧で、少し不器用で。
でも、自分を下げるたびに、必ず正してくれる人。
遥斗は、その手を握り返した。
「じゃあ、怜士さん」
「何だ」
「俺も、あなたの生活に入れてください」
怜士は静かに頷いた。
「最初から、そのつもりだ」
こうして、遥斗は怜士の生活に入った。
部下としてではなく。
管理対象としてだけでもなく。
怜士が、帰る理由として選んだ相手として。
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