14 / 30

『記憶をなくしても、お前だけは忘れなかった』 瑛一 × 湊 #2

##2 **** 成人して、湊は雄女化の申請をした。 迷わなかったわけではない。 身体が変わることも、術後の体調管理が必要になることも、怖くなかったと言えば嘘になる。 でも、一番怖かったのは、変わることではなかった。 瑛一の記憶が戻る日を、ただ待ち続ける自分になることだった。 瑛一が思い出すまで、幼馴染の顔をして隣にいる。 瑛一が選んでくれるまで、自分の未来を止めておく。 そんなふうには、もうしたくなかった。 湊は、瑛一の記憶を急かしたいわけではない。 けれど、自分の人生まで事故の日に置いていくつもりもなかった。 過去の瑛一に選ばれたいだけじゃない。 今の瑛一と、これからの自分で、ちゃんと未来へ進みたかった。 だから、選んだ。 待つためではなく、進むために。 **** 処置後。 湊は、病院の更衣室で鏡の前に立っていた。 以前より少し柔らかくなった輪郭。 わずかに変わった声。 きめ細かくなった肌。 けれど、そこに映っているのは、知らない誰かではなかった。 桜庭湊。 瑛一の幼馴染で。 瑛一をずっと好きで。 瑛一に「誰」と言われた日からも、隣に残った男。 「……瑛一、分かるかな」 その呟きには、二つの意味があった。 今の自分を見て、瑛一がどう思うのか。 そして、もう一つ。 記憶の中にいるはずの自分と、今ここにいる自分が違ってしまった時、瑛一はどちらを見るのだろう。 過去の湊を探すのか。 今の湊を見てくれるのか。 湊は、思い出してほしかった。 でも、過去だけを見てほしいわけじゃなかった。 今ここにいる自分を、ちゃんと見てほしかった。 **** 扉が開く。 「湊」 瑛一の声。 湊の心臓が跳ねた。 「……瑛一」 瑛一が入ってくる。 そして、湊を見た。 息を呑む。 けれど、すぐに「可愛い」とも「綺麗」とも言わなかった。 瑛一は、まるで何かを探すように湊を見つめている。 顔。 目元。 唇。 視線の揺れ。 強がるみたいに結ばれた口元。 それから、ゆっくり手を伸ばしかけて、止めた。 「……見たことある」 湊の呼吸が止まる。 「え?」 瑛一は、額に手を当てた。 「湊、その顔」 声が震えている。 「俺、昔も見た」 湊は動けなかった。 「今の顔そのものじゃない」 瑛一は、苦しそうに眉を寄せた。 「でも、分かる」 「何が……?」 「湊が、俺に見られて逃げたいのに、逃げない顔」 湊の胸が止まりそうになった。 「俺、昔もその顔を見て、苦しくなった」 その瞬間、瑛一の頭の奥で、何かが弾けた。 **** 夏祭り。 夜の川沿い。 提灯の光。 白い薄手のシャツを着た湊が、少し照れた顔で振り返っている。 「瑛一、見すぎ」 あの時の湊は、今とは違う身体だった。 声も、輪郭も、今とは少し違う。 それでも、同じだった。 見られると強がるところ。 逃げたいくせに、瑛一の前からは逃げないところ。 照れた時に、ほんの少しだけ唇を尖らせるところ。 そこにいたのは、間違いなく湊だった。 あの時の自分は、何と言った? 思い出せない。 でも、胸の奥が熱くなる。 好きだと思った。 あの日、自分は確かに思った。 湊は綺麗だと。 誰にも取られたくないと。 自分の隣にいてほしいと。 でも、言えなかった。 怖かった。 幼馴染という場所を失うのが、怖かった。 **** 「……湊」 瑛一の声が震える。 湊は不安そうに見上げた。 「何か、思い出したの?」 瑛一は頷きかけて、首を振る。 「全部じゃない」 正直に言う。 「でも、思い出した」 「何を」 瑛一は、湊へ一歩近づいた。 「俺、昔も同じこと思った」 湊の目が揺れる。 「何を?」 瑛一は、苦しそうに笑った。 「湊を見て、胸が苦しくなった」 湊は言葉を失う。 瑛一は続ける。 「言わなかった」 「……え」 「たぶん、怖かったんだと思う」 瑛一は自分の胸を押さえる。 「幼馴染のままなら隣にいられるって、俺も思ってた」 湊の目に涙が滲む。 それは、湊がずっと抱えていた気持ちと同じだった。 自分だけじゃなかった。 瑛一も、同じ場所で立ち止まっていた。 「瑛一……」 「湊」 瑛一は、頬に触れたまま言った。 「過去の湊を思い出したから好きなんじゃない」 湊の目が揺れる。 「今ここにいる湊を見て、昔の俺の気持ちが戻ってきた」 瑛一は、ゆっくり息を吸った。 「だから、過去だけじゃない」 「……瑛一」 「今の湊も、ちゃんと好きだ」 湊の涙が落ちた。 瑛一は親指でそれを拭う。 「俺、忘れても湊が好きだった」 その一言で、湊の中にあった不安が崩れた。 全部ではない。 まだ怖い。 でも、今の言葉だけは信じたかった。 **** 「……でも」 湊は震える声で言った。 「記憶、全部戻ったわけじゃないんだろ」 瑛一は頷く。 「うん」 「じゃあ、まだ分からない」 言ってしまってから、湊は唇を噛んだ。 「ごめん。違う。信じたいんだ」 瑛一は黙って聞いている。 「でも、怖い」 湊の声が小さくなる。 「お前が思い出してるのが、昔の俺だけだったらどうしようって」 「湊」 「今の俺を見てるんじゃなくて、記憶の中の俺を探してるだけだったらって」 瑛一の手が、湊の指を包んだ。 「じゃあ、確認して」 「確認?」 「何回でも」 瑛一は、湊の手を握った。 「俺が、今の湊を見てるか」 湊の目が揺れる。 「俺が湊を好きかどうか」 「……何回でも?」 「何回でも」 瑛一はまっすぐ湊を見る。 「朝起きた時でも、飯食う時でも、不安になった時でも」 手を強く握られる。 「聞いてくれたら、答える」 湊は涙をこらえきれなかった。 「……本当に?」 「本当」 「面倒にならない?」 「ならない」 「記憶が戻っても?」 「戻っても」 瑛一は、湊の額へ自分の額を寄せた。 「むしろ、戻ったらもっと言う」 湊は泣きながら笑ってしまった。 「それはそれで怖い」 「じゃあ慣れて」 「雑」 「湊が安心するまで言う」 瑛一の声が、深く胸に落ちる。 「好きだ」 湊の肩が震えた。 「湊が好きだ」 もう一度。 「記憶がなくても、戻りかけても、全部戻っても」 瑛一の手が、湊の指に絡む。 「好きだったことだけは、もう疑わない」 湊は、泣きながら瑛一に抱きついた。 **** それから、瑛一は記憶の欠片を少しずつ思い出し始めた。 夏祭り。 湊が射的で失敗して、悔しそうに唇を尖らせた顔。 中学の帰り道。 湊が眠そうにしながら、瑛一の肩へ寄りかかったこと。 高校の文化祭。 湊が他の男子に褒められた時、なぜか腹が立ったこと。 全部、断片だった。 順番も曖昧で、完全ではない。 けれど、そのすべてに湊がいた。 「また湊だ」 瑛一が呟くと、湊が隣で顔を赤くした。 「何が」 「思い出すこと、だいたい湊」 「……俺が幼馴染だからだろ」 「それだけじゃないと思う」 瑛一は、湊を見る。 「俺、昔から湊を見すぎ」 湊は顔を覆った。 「記憶戻りかけの人間が、そういうことを冷静に分析するな」 「だって本当だし」 「言うな」 「湊」 「何」 「照れてる?」 「照れてない」 「嘘」 瑛一が笑う。 その笑い方は、事故後の不安げな笑顔とは少し違っていた。 昔の瑛一に近い。 それが嬉しくて、湊は少し泣きそうになる。 **** 一方で、瑛一の不安も完全には消えなかった。 記憶が戻り始めた分、自分がどれだけ失ったかを自覚してしまう。 湊が一人で抱えていた時間。 事故直後の不安。 病室で「誰」と言われた時の顔。 その全部を、瑛一は覚えていない。 覚えていないことが、湊を傷つけた。 夜。 瑛一は、湊の家のソファで目を覚ました。 隣に湊がいない。 それだけで、胸がざわつく。 「湊?」 声が少し震えた。 キッチンから湊が顔を出す。 「いるよ。水取りに行っただけ」 瑛一は、息を吐いた。 けれど、すぐには落ち着かなかった。 湊が戻ってくると、瑛一はその手を掴んだ。 「瑛一?」 「確認」 「何の」 「湊がいるか」 湊の目が揺れる。 瑛一は苦笑した。 「ごめん。俺も怖い」 湊は、そっと瑛一の隣に座った。 「何が?」 「また忘れること」 瑛一の声は小さかった。 「今度は、好きだって分かった後で忘れたらどうしようって」 湊は息を止める。 瑛一は、湊の手を握ったまま続けた。 「湊を二回傷つけるのが怖い」 湊の胸が痛くなった。 怖いのは自分だけじゃない。 瑛一も怖い。 失った記憶の向こうで、自分を好きだったことに気づいたからこそ、また失うのを恐れている。 「瑛一」 湊は瑛一の手を握り返した。 「じゃあ、俺も確認する」 「うん」 「瑛一が忘れそうになったら、俺が言う」 瑛一が顔を上げる。 湊は少し照れながら続けた。 「お前は俺が好きだって」 瑛一の目が揺れる。 「俺も、言う」 「何を?」 「湊は俺の好きな人だって」 その言葉に、湊の顔が一気に赤くなる。 「……急に強い」 「覚えやすいだろ」 「そういう問題?」 瑛一が少し笑う。 湊も笑った。 不安は消えない。 でも、二人で確認していける。 そのことが、少しだけ未来を明るくした。 **** 数日後。 湊は、瑛一と一緒に夏祭りの会場へ行った。 記憶の断片が戻った場所。 提灯の光。 川沿いの風。 屋台の匂い。 瑛一はゆっくり歩きながら、周囲を見回していた。 「思い出す?」 湊が聞く。 「少し」 瑛一は頷いた。 「ここで、湊が射的外した」 「そこ思い出さなくていい」 「悔しそうな顔してた」 「忘れろ」 「無理」 瑛一が笑う。 湊は照れ隠しに歩く速度を上げた。 その背中を見て、瑛一の胸が熱くなる。 あの時も、こうやって見ていた気がする。 湊の背中。 振り返る横顔。 提灯の光に照らされた目元。 そして。 「湊」 瑛一が呼ぶ。 湊が振り返る。 「何?」 その顔を見た瞬間、瑛一の中で、記憶がまた一つ戻った。 ――俺、湊のこと好きかもしれない。 過去の自分の声。 夏祭りの夜。 言えなかった言葉。 飲み込んだ本音。 瑛一は立ち止まった。 湊が不安そうに近づく。 「瑛一?」 「思い出した」 「何を」 瑛一は、湊を見つめた。 「この場所で、湊が好きだと思った」 湊の目が大きくなる。 「でも言わなかった」 瑛一は苦しそうに笑う。 「怖かったんだと思う。幼馴染じゃなくなるのが」 湊の目から、涙が落ちた。 瑛一は、その涙に手を伸ばす。 「ごめん」 「何で謝るんだよ」 「遅くなった」 湊は首を振った。 「俺も言えなかった」 瑛一は湊の手を取る。 人通りの端。 提灯の光の下。 過去と今が、少しだけ重なっていく。 「でも、今分かった」 瑛一は、湊の手を握った。 「俺が戻りたいのは、この場所だけじゃない」 湊が顔を上げる。 「過去の夏祭りだけじゃなくて、今の湊がいる場所に戻りたい」 瑛一の声は、もう迷っていなかった。 「だから、昔の俺が言えなかった分も、今の俺が言う」 瑛一は湊の手を強く握った。 「湊」 「うん」 「昔の俺も、今の俺も、湊が好きだ」 湊は泣きながら笑った。 「……それ、ずるい」 「ずるくても言う」 「記憶、全部戻ってないのに」 「戻ってない」 瑛一は頷く。 「でも、好きだったことは戻った」 湊の手を強く握る。 「そこだけは、もうなくさない」 湊は、瑛一の胸へ額を押し付けた。 「……信じたい」 「うん」 「まだ怖いけど」 「うん」 「でも、信じたい」 瑛一は湊を抱き締めた。 「じゃあ、毎日信じさせる」 「重い」 「幼馴染期間が長いから、その分重い」 湊は泣きながら笑った。 その笑い声を聞いた瞬間、瑛一は思った。 この声を、ずっと覚えていたい。 たとえ何かを忘れても。 何度でも、ここへ戻ってきたい。 湊の声がする場所へ。 **** 帰り道。 瑛一と湊は、手を繋いで歩いていた。 湊はまだ少し照れている。 瑛一は、その横顔を何度も見ていた。 「見すぎ」 「見てる」 「開き直るな」 「忘れないように」 湊が黙る。 瑛一は少し笑った。 「でも、忘れたらまた見る」 「……え?」 「また好きになる」 湊の目が揺れる。 瑛一は繋いだ手に力を込めた。 「記憶がなくても湊を好きになったなら、俺は何回忘れても、たぶんまた湊を選ぶ」 湊は顔を伏せた。 「そういうの、ほんと反則」 「じゃあ覚えてて」 「何を」 「俺が反則なくらい湊を好きなこと」 湊は笑った。 泣きそうな顔で。 「覚えてる」 小さく答える。 「俺が覚えてる」 瑛一は頷いた。 「じゃあ、俺も覚える」 二人の手は、最後まで離れなかった。 記憶はまだ完全ではない。 過去は欠けたままだ。 それでも、二人は前へ進み始めていた。 忘れた恋を、もう一度。 今度は、言葉にしながら。

ともだちにシェアしよう!