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『記憶をなくしても、お前だけは忘れなかった』 瑛一 × 湊 #1
##1
九条瑛一(くじょう・えいいち)は、自分の名前すら覚えていなかった。
****
雨だった。
救急車の赤い光。
濡れたアスファルト。
頭を流れる血。
誰かが必死に名前を呼んでいる。
「瑛一!」
その声だけが、妙に遠くて、妙に近かった。
手を伸ばそうとした。
でも、指先は動かなかった。
自分が誰なのか。
どこへ帰ればいいのか。
誰を大事にしていたのか。
全部、白く消えていく。
最後に残ったのは、泣きそうな声だけだった。
「瑛一、置いていくなよ……!」
その声に答えたいのに、何も思い出せなかった。
****
目を覚ました時、瑛一が最初に見たのは白い天井だった。
消毒液の匂い。
点滴の管。
ぼんやりした視界。
病室だった。
「……ここ、どこ」
声が掠れていた。
その声に反応して、ベッド脇の男が顔を上げた。
柔らかい黒髪。
少し眠そうな目。
でも、今は泣き腫らしたように赤い。
「気づいた?」
男は笑おうとした。
けれど、うまく笑えていなかった。
瑛一は、その顔を見て胸が痛くなった。
理由は分からない。
「……誰」
その瞬間、男の表情が少しだけ壊れた。
でもすぐに、無理やり笑った。
「桜庭湊(さくらば・みなと)」
男は、自分を指差して言った。
「お前の幼馴染」
幼馴染。
その言葉だけが、妙に胸に残った。
****
「名前、分かる?」
湊がベッド脇へ座る。
瑛一は少し考えた。
何も浮かばない。
「……分からない」
「そっか」
湊は、あまりにも静かに頷いた。
静かすぎて、瑛一の方が不安になった。
「お前、九条瑛一って言うんだよ」
「九条……瑛一」
自分の名前のはずなのに、他人の名前みたいだった。
湊が、少しだけ声を柔らかくする。
「うん。瑛一」
名前を呼ばれた瞬間。
胸の奥が、ほんの少し温かくなった。
覚えていない。
なのに、その声で呼ばれると落ち着く。
怖かった。
自分が空っぽになったみたいで。
でも、湊の声だけは、なぜか怖くなかった。
「……もう一回」
瑛一が呟く。
湊が目を丸くした。
「え?」
「名前」
湊の目が揺れる。
それでも、湊は小さく頷いた。
「瑛一」
胸が痛い。
でも、嫌じゃない痛みだった。
****
事故で、瑛一は記憶を失っていた。
家族のこと。
学校のこと。
友人のこと。
昨日まで何をしていたのか。
全部、分からない。
写真を見せられても、説明されても、頭の中ではつながらない。
けれど、湊だけは違った。
顔を見ても、思い出すわけではない。
名前を聞いても、過去が戻るわけではない。
それでも、湊が病室にいると呼吸が少し楽になった。
「瑛一、飯食える?」
湊が弁当箱を開ける。
「……それ、何」
「オムライス」
「俺、好きだった?」
「うん。昔から」
湊は少し笑った。
「毎週食ってた。飽きるだろって言っても、飽きないって言ってた」
瑛一はスプーンを持つ。
一口食べる。
懐かしい。
味の記憶だけが、身体の奥から浮き上がる。
「……うまい」
湊の手が止まった。
「覚えてる?」
瑛一は首を振る。
「分かんない」
少し考えて、正直に言った。
「でも、安心する」
湊の顔が、泣きそうに歪んだ。
それを見た瞬間、瑛一の胸が苦しくなる。
「湊」
「ん?」
「泣くな」
「泣いてない」
「嘘」
瑛一は、無意識に湊の袖を掴んでいた。
自分でも驚く。
けれど、離したくなかった。
湊はその手を見て、少しだけ目を伏せる。
「……昔から、そうだったよ」
「何が」
「不安になると、俺の服掴む」
胸が、また痛んだ。
覚えていないのに。
身体だけが、湊を知っているみたいだった。
****
湊は、ずっと瑛一が好きだった。
子供の頃から。
でも、言えなかった。
瑛一は人気者だった。
運動もできて、明るくて、誰とでもすぐ仲良くなった。
告白されることも多かった。
けれど湊は、そのたびに幼馴染の顔をして笑った。
「また告白されたの?」
「された」
「すごいな、お前」
「湊は?」
「俺?」
「誰かに告白されたりしないの?」
湊は笑って誤魔化していた。
「俺はそういうのないよ」
嘘だった。
本当は、ずっと瑛一を見ていた。
瑛一が誰かと付き合う未来を何度も想像した。
そのたびに、胸の奥が削られた。
でも、幼馴染でいられるなら、それでいいと思っていた。
言ってしまえば、壊れる。
壊れるくらいなら、隣にいられる距離を守りたかった。
****
退院後、瑛一は湊の家へ通うようになった。
記憶を取り戻すため、昔の写真や持ち物を見せてもらうことになったのだ。
湊の部屋には、二人で写った写真が多かった。
小学生の遠足。
中学の文化祭。
夏祭り。
制服姿で笑っている写真。
瑛一は、そのどれも覚えていない。
けれど、写真の中の自分は、いつも湊の近くにいた。
「俺、湊の隣ばっかだな」
「そうだよ」
湊は苦笑する。
「お前、何かあるとすぐ俺のところ来てた」
「俺が?」
「うん。テストの結果見せに来るのも、昼飯誘うのも、部活終わりに迎えに来るのも、だいたいお前」
瑛一は写真を見つめる。
どの写真の自分も、湊を見ている。
カメラではなく。
隣にいる湊を。
「……俺、湊のこと好きだったのかな」
ぽつりと呟いた。
湊の手が止まる。
空気が固まった。
「え?」
「いや」
瑛一は自分でも驚いていた。
考える前に、言葉が出た。
「写真見てると、そんな顔してる」
湊は視線を逸らした。
「記憶ないのに、そういうこと言うなよ」
その声が少し震えている。
瑛一は、胸が苦しくなった。
「湊」
「何」
「俺、変なこと言った?」
「変じゃない」
湊は笑おうとした。
でも、やっぱりうまく笑えなかった。
「ただ、ずるい」
その言葉の意味が、瑛一にはまだ分からなかった。
****
ある日、高校時代の友人たちが見舞いを兼ねて集まった。
「九条、記憶なくしても顔はそのままだな」
「当たり前だろ」
「湊にだけ懐いてるのもそのままだし」
湊が慌てる。
「変なこと言うな」
友人たちは笑った。
「変じゃないだろ。昔から九条って桜庭優先だったし」
「恋人できたって聞いたら、誰だよって詰めてたしな」
「いや、できてないから!」
湊が顔を赤くして叫ぶ。
瑛一は目を丸くした。
「俺、そんなだった?」
「気づいてなかったのお前だけ」
友人が笑う。
「夫夫みたいって散々言われてたぞ」
湊の顔がさらに赤くなる。
「やめろって!」
瑛一は、湊を見た。
自分が覚えていない過去を、周囲は当然のように知っている。
自分だけが取り残されている。
それが悔しかった。
同時に、不思議だった。
記憶を失う前の自分も、湊を探していたらしい。
今の自分も、湊がいないと落ち着かない。
なら。
忘れたものの中に、まだ残っているものがあるのかもしれない。
****
その夜。
湊の家のソファで、瑛一はぽつりと言った。
「湊」
「ん?」
「俺さ」
湊がこちらを見る。
瑛一は、自分の胸を押さえた。
「お前だけ、分かる」
湊の呼吸が止まった。
「……は?」
「声とか」
瑛一はゆっくり言葉を探す。
「匂いとか」
湊の顔が赤くなる。
「そういう言い方するな」
「触ると安心する」
気づけば、瑛一は湊へ近づいていた。
湊が動けなくなる。
瑛一は、無意識に湊を抱き締めた。
「っ、瑛一?」
「落ち着く」
湊の体温。
服の匂い。
腕の中の細さ。
全部、知っている気がする。
「お前いないと、不安になる」
瑛一の声は、思ったより真剣だった。
「俺、お前じゃないと嫌だと思う」
湊の身体が小さく震えた。
「……瑛一」
「うん」
「今の気持ち、記憶が戻ったら消えるかもしれないだろ」
湊の声が苦しかった。
「今のお前は、何も覚えてないから」
瑛一は湊を抱き締めたまま黙る。
湊は続けた。
「俺に安心するのだって、幼馴染だったからかもしれない。事故の後、俺がそばにいたからかもしれない」
「湊」
「俺、期待したら駄目になる」
その言葉が、瑛一の胸を刺した。
湊は笑おうとする。
でも、笑えていない。
「今の瑛一、ずるい」
瑛一は、湊を強く抱き締めた。
「なくならない」
「何で分かるんだよ」
「分からない」
正直に言った。
湊の身体が固まる。
瑛一は続ける。
「でも、記憶がないのに湊が好きだと思った」
湊の目が揺れる。
「だったら、俺の中で一番奥に残ってたのは、湊なんだと思う」
湊は何も言えなかった。
瑛一は、湊の肩へ額を押し付ける。
「俺、多分」
声が震えた。
「最初から、湊ばっか見てた」
湊の指が、瑛一の服を掴む。
子供の頃から、自分が隠していたもの。
諦めたふりをして、何度も飲み込んだもの。
それが、記憶をなくした瑛一の口から返ってくる。
嬉しいのに怖い。
怖いのに、もう離れられなかった。
****
ある夜。
瑛一は、湊のソファで眠っていた。
記憶が戻らない焦りで、最近は眠りが浅かった。
湊が毛布を掛け直そうとした時。
「……湊」
苦しそうな声。
「瑛一?」
瑛一の手が、無意識に湊の服を掴んだ。
「どこにも行くな……」
眉間に皺が寄っている。
まるで、世界で唯一の支えを失うみたいに。
湊は胸が締め付けられた。
「いるよ」
そっと手を握る。
その瞬間、瑛一の呼吸が少し落ち着いた。
「……湊の声、安心する」
目を閉じたまま呟く。
湊はその場に座り込んだ。
「ずるいよ、ほんと」
小さく呟く。
瑛一は眠ったまま、湊の手を離さなかった。
湊も、離せなかった。
****
記憶は戻らない。
けれど、恋は少しずつ形になっていった。
朝、目が覚めると、瑛一はまず湊を探す。
食事をすると、湊の味だけは安心すると言う。
外で知らない人に声をかけられると、一瞬不安そうに湊を見る。
そして湊が「大丈夫」と言うと、少しだけ笑う。
湊は、そのたびに嬉しくて、苦しかった。
自分が特別だと分かる。
でも、それが今だけのものかもしれない。
記憶が戻ったら、瑛一は事故前の自分に戻るかもしれない。
その時、今の言葉も、触れ方も、全部なかったことになるかもしれない。
だから湊は、完全には信じきれなかった。
信じたいのに。
信じたら、壊れた時に立っていられない気がした。
瑛一は、そんな湊を見ていた。
覚えていない自分が、湊を傷つけている。
その事実が悔しかった。
「湊」
「何」
「俺、思い出す」
「……急に何」
「湊を不安にさせたままにしたくない」
湊は息を止める。
瑛一はまっすぐ言った。
「忘れてた分、ちゃんと思い出す」
その言葉が、湊には嬉しくて、怖かった。
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