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『国民的アイドル、俺の前だけ大型猫になります』 奏 × 伊織 #3

##3 **** ライブ後の楽屋は、まだ熱を残していた。 照明の名残。 汗の匂い。 スタッフの足音。 廊下の向こうで、まだファンの歓声が遠く揺れている。 「伊織」 奏の声が、背後から落ちた。 ステージ上の天峰奏ではない。 甘い笑顔も、完璧な角度も、ファンへ向ける声も全部脱ぎ捨てた、ただの奏の声だった。 「……何ですか」 伊織が振り返る前に、後ろから抱き締められた。 「帰りたい」 「まだ着替えも確認も終わってません」 「伊織と帰りたい」 「順番が違います」 「じゃあ、ここで少しだけ充電する」 「アイドルが楽屋でマネージャーを充電器扱いしないでください」 そう言いながらも、伊織は奏を振り払わなかった。 奏の腕が、伊織の腰へ回る。 鏡の前。 そこには、ステージ衣装のままの奏と、黒いジャケットを羽織った伊織が映っていた。 見られることに慣れた男と、見られることを避けてきた男。 その二人が、同じ鏡の中にいる。 「伊織」 奏が、伊織の肩口へ額を寄せた。 「今日は、外に出したくない」 伊織の胸が跳ねる。 「またそれですか」 「うん」 「俺は物じゃありません」 「知ってる」 奏はすぐに答えた。 「だから、伊織が嫌ならやめる」 その言葉に、伊織は少しだけ黙った。 以前の奏なら、独占欲だけで隠そうとしたかもしれない。 けれど今は違う。 見せたくないと言いながら、伊織が選ぶのを待っている。 その変化が、ずるかった。 「……嫌とは言ってません」 鏡の中で、奏の目が甘く細くなる。 「じゃあ、見てもいい?」 「いつも見てるでしょう」 「そうじゃなくて」 奏の声が低くなる。 「天峰奏じゃない俺で、伊織を見たい」 その言葉だけで、伊織の身体が熱くなった。 **** 奏の指が、伊織のジャケットへ触れる。 ボタンを外す手つきはゆっくりだった。 ステージでは誰より迷いなく動く男が、伊織に触れる時だけ、少しだけ慎重になる。 「……奏」 「ん?」 「そんなに確認しなくてもいいです」 「確認する」 奏は、伊織の耳元で囁いた。 「伊織は、俺の商品じゃないから」 胸の奥が、ぎゅっと熱くなる。 「……ずるい言い方ですね」 「本音」 ジャケットが肩から落ちる。 鏡の中で、伊織の姿が少しずつ変わっていく。 普段は奏を整える側だ。 衣装の乱れを直し、髪を整え、汗を拭き、カメラに映る角度を確認する。 その自分が今、鏡の前で奏に見られている。 「っ……見すぎです」 「見たい」 即答だった。 「伊織は、いつも俺を見てる」 奏の唇が、伊織の首筋に触れる。 「だから今日は、俺が見る」 「っ……♡」 伊織は思わず息を漏らした。 奏が鏡越しにそれを見て、少しだけ目を細める。 「今の顔、外に出したくない」 「また……っ♡」 「でも、閉じ込めたいんじゃない」 奏の腕が、伊織を抱き直す。 「俺の前でだけ、安心して崩れてほしい」 その言葉が、伊織の理性を静かに揺らした。 **** キスは、鏡越しに始まった。 奏が後ろから伊織の顎に指を添え、少しだけ横を向かせる。 唇が重なる。 「んっ……♡」 ライブ後の奏は熱い。 ステージの興奮がまだ身体に残っている。 けれど、触れ方は乱暴ではなかった。 強く求めてくるのに、伊織の呼吸だけは逃さない。 「伊織、息」 「っ……分かって、ます……♡」 「嘘。止まってた」 「あなたのせいです……♡」 「なら、俺が戻す」 またキスされる。 戻すどころか、さらに深く乱される。 「ん、ぁ……♡」 鏡の中で、伊織の目元が甘く緩んでいく。 それを見てしまって、伊織は慌てて目を逸らした。 「見ないでください……♡」 「見る」 「仕事中の癖ですか」 「違う」 奏の声が、少し掠れた。 「恋人の顔を見たいだけ」 「っ……そういうことを、ステージ衣装のまま言わないでください……♡」 「脱いだらいい?」 「そういう意味じゃありません……♡」 奏が小さく笑う。 その笑い方は、ファンへ向けるものではない。 伊織だけが知っている、少し幼くて、少し欲張りな笑い方だった。 **** 奏の手が、伊織の腰を支える。 鏡の前で、逃げ場がない。 自分の顔も、奏の顔も見えてしまう。 「伊織」 「……何ですか♡」 「俺のこと、見て」 「鏡に映ってます……♡」 「そうじゃなくて」 奏が、伊織の指を絡め取る。 「天峰奏じゃない俺を見て」 伊織は息を止めた。 奏は、ずっと見られる仕事をしてきた。 完璧な顔で、完璧な笑顔で、完璧な角度で。 けれど今、鏡の中にいる奏は違う。 伊織に触れて、余裕をなくして、少しだけ不安そうにこちらを見ている。 「……見てます」 伊織は、小さく答えた。 「ずっと、見てます」 奏の目が揺れた。 「俺が、ステージを降りた後も?」 「はい」 「完璧じゃない時も?」 「はい」 「格好悪くても?」 伊織は、鏡越しに奏を見た。 「その時こそ、俺が見るんでしょう」 奏の腕に、力がこもった。 「伊織」 声が震えている。 「そういうこと言うから、外に見せたくなくなる」 「だから、俺は商品じゃありません」 「知ってる」 奏の唇が、伊織の耳に触れた。 「俺の帰る場所」 その言葉で、伊織の身体が甘く震えた。 「っ……♡」 「今、揺れた」 「言わないでください……♡」 「覚えておく」 「覚えなくていいです……♡」 「無理」 奏は、伊織の手を握ったまま、ゆっくり熱を重ねた。 「ぁ……っ♡」 声が漏れる。 鏡の中の自分が、知らない顔をしている。 奏に見られている。 奏を見ている。 その両方が、たまらなく恥ずかしい。 「伊織、綺麗」 「っ……それは、言わない約束では……♡」 「約束してない」 「ずるい……♡」 「可愛い、より嫌?」 伊織の顔が一気に熱くなる。 「どっちも困ります……♡」 奏は少しだけ笑った。 「じゃあ、俺が困ってることも言う」 「え……?」 「伊織が俺の前で崩れると、戻れなくなる」 奏の呼吸が、伊織の首筋へかかる。 「ステージの熱より、ずっと残る」 その言葉と同時に、深く触れられた。 「あっ……♡」 伊織の膝が揺れる。 奏がすぐに支える。 落とさない。 でも、離してもくれない。 **** 「奏……っ♡」 「うん」 「近い……♡」 「もっと近くしたい」 「っ……あなた、ほんとに……♡」 「伊織の前だと、我慢が下手になる」 その声に、胸が甘く締め付けられる。 完璧なアイドル。 どんな時も崩れない男。 そんな奏が、伊織の前でだけ、子供みたいに欲しがる。 それが嬉しくて、怖くて、どうしようもなく愛しい。 「……ちゃんと、帰ってくるなら」 伊織は、息を乱しながら言った。 「俺のところに」 奏の動きが、一瞬止まった。 「帰る」 短い声。 「絶対帰る」 「なら……っ♡」 伊織は、奏の手を握り返した。 「俺も、あなたの前でだけなら……少しは崩れてもいいです……♡」 奏の目が、見たことがないほど熱くなった。 「伊織」 「っ、何……♡」 「今の、放送禁止」 「当たり前です……♡」 「俺だけのやつ」 「だから言い方……♡」 奏が、深くキスをした。 「んっ♡」 それから、鏡越しに目が合う。 逃げられない。 逃げたくもない。 「伊織」 奏が囁く。 「俺を生かして」 胸の奥が、強く震えた。 伊織が前に言った事。 奏を完璧に見せることではなく、奏が明日もステージに立てる状態を守ることが自分の仕事だと。 でも今は、仕事ではない。 恋人として、その言葉を受け取る。 「生きてください」 伊織は、震える声で返した。 「俺のところに帰ってくるために」 奏の腕が、強くなる。 「うん」 「寝て、食べて、無理をして」 「最後が違う」 「無理をしたら怒られて」 奏が少し笑う。 伊織も、息を乱しながら笑った。 「それから……俺の前では、天峰奏じゃなくていいです……♡」 奏は、伊織の肩に顔を埋めた。 「伊織」 「はい……♡」 「好き」 その言葉と同時に、奥深くまで熱が届いた。 「ぁっ♡♡」 伊織の身体が大きく震える。 鏡の中の自分が、完全に余裕をなくしている。 それでも奏は目を逸らさない。 伊織も、逸らせなかった。 **** 「伊織、こっち見て」 「見て、ます……♡」 「もっと」 「無理……♡」 「無理じゃない」 奏の声は甘い。 けれど、少しだけ必死だった。 「俺だけが見たい」 「っ……♡」 「伊織が俺の前で安心して崩れるところ」 深く、熱が重なる。 「あっ♡」 「俺だけが知ってたい」 また。 「ぁ♡♡」 「伊織の声も、顔も、手が震えるところも」 「言わないで……っ♡」 「言う」 「奏……っ♡」 「俺にだけ見せて」 その言葉で、伊織の中の何かが切れた。 「っ……奏、さん……♡」 「さん、いらない」 「奏……♡」 「うん」 「俺、もう……♡」 「いいよ」 奏の声が、耳元で甘く沈む。 「俺の前で崩れて」 その瞬間、伊織の身体が大きく震えた。 「ぁっ♡♡♡」 熱が弾ける。 視界が白く滲む。 奏の腕が、すぐに伊織を抱き締めた。 「大丈夫」 低い声。 「落とさない」 伊織は奏に支えられたまま、力を抜いた。 鏡の中で、奏の顔も余裕をなくしている。 ステージ上では絶対に見せない顔。 伊織だけが見ていい顔だった。 「……奏」 「ん」 「その顔も、外に見せないでください……♡」 奏が少しだけ笑った。 「見せない」 そして、伊織の髪へ唇を押し当てる。 「伊織だけ」 その言葉に、伊織はもう一度胸を甘く締め付けられた。 **** しばらくして。 伊織は、奏の腕の中で息を整えていた。 楽屋の鏡には、少し乱れた二人が映っている。 奏は、伊織の肩に顔を埋めたままだった。 「奏」 「ん」 「そろそろ戻らないと」 「嫌」 「子供ですか」 「伊織限定で」 「便利な言葉にしないでください」 奏は、伊織の腰を抱く腕を緩めない。 「もう少し」 「五分だけです」 「十分」 「五分」 「七分」 「交渉しない」 「伊織、厳しい」 「あなたがすぐ無理をするからです」 「じゃあ、帰ったら怒って」 伊織は目を瞬いた。 奏が顔を上げる。 「飯食って、風呂入って、寝るまで見張って」 「本気ですか」 「本気」 奏の声は穏やかだった。 「伊織が俺の生活に入ってくれるの、嬉しい」 伊織は言葉に詰まった。 前に、奏は「一緒に帰って」と言った。 あの言葉を、今もちゃんと続けようとしている。 「……なら、ちゃんと帰りますよ」 「うん」 「俺の確認表も守ってください」 「伊織確認?」 「毎日です」 「好き」 「確認表が?」 「伊織が」 伊織の顔が熱くなる。 「そういう返し、禁止です」 「無理」 奏は、伊織の額へ短くキスをした。 「伊織」 「何ですか」 「ただいまって言ったら」 伊織は少し笑った。 「おかえりって言います」 奏の顔が、柔らかくほどける。 その顔を見て、伊織の胸も温かくなった。 「じゃあ、帰る」 「はい」 「一緒に」 「もちろん」 奏はようやく腕を解いた。 それでも、手は離さない。 伊織は少しだけ呆れた顔をした。 「歩きにくいです」 「離したくない」 「廊下では離してください」 「努力する」 「即答してください」 奏は笑った。 完璧なアイドルではない。 伊織の前でだけ甘える、少し面倒で、少し寂しがりの恋人。 伊織はその手を一度だけ握り返した。 「奏」 「ん?」 「ステージを降りたら、ちゃんと俺に戻ってきてください」 奏の目が、静かに揺れる。 「戻る」 短い言葉。 けれど、何より確かな約束だった。 「天峰奏のままじゃなくて?」 伊織が少しだけ意地悪く聞くと、奏は首を横に振った。 「伊織の前では、天峰奏を降りる」 その声は、ステージ上の甘い声ではなかった。 「ただの奏に戻る」 伊織の胸が、静かに熱くなった。 「では、降りた後のあなたを俺が預かります」 「預ける」 「商品管理ではありませんよ」 「うん」 奏が、柔らかく笑った。 「恋人管理」 「その言い方は却下です」 「じゃあ、伊織専用」 「もっと却下です」 いつものように言い返すと、奏が嬉しそうに笑った。 完璧なアイドルの笑顔ではない。 少し甘えて、少し安心して、少しだけ幼い顔。 伊織だけが知っている奏だった。 「伊織」 「何ですか」 「ステージを降りた顔で名前を呼んだら」 伊織は少し笑った。 「ちゃんと、奏と呼びます」 奏の顔が、柔らかくほどける。 「天峰奏じゃなくて?」 「俺の前では、奏です」 伊織は、鏡越しではなく、真正面から奏を見た。 「完璧なアイドルではなく、俺が知っている、少し面倒で寂しがりなあなたです」 奏は、困ったように笑った。 「そこまで言う?」 「言います。あなたがすぐ格好つけるので」 「伊織には、格好つけたい」 「では、格好つけた後は、ちゃんと脱いでください」 「伊織の前でだけ?」 「俺の前でだけです」 奏は、伊織の手を取った。 「じゃあ、降りる」 「ステージを、ですか」 「天峰奏を」 奏は、まだ衣装のままなのに、どこか少しだけ素の顔をしていた。 「伊織が見てるなら、ちゃんと降りられる」 伊織は頷き、楽屋の扉へ向かった。 廊下の向こうには、まだ歓声の残る世界がある。 けれど、奏の手は伊織の手を離さなかった。 ステージへ立つための手ではない。 ファンへ振るための手でもない。 天峰奏を少しずつ脱いで、ただの奏に戻るための手だった。 伊織は、その手を一度だけ握り返す。 完璧なアイドルを支えるためではなく。 ステージを降りた一人の男を、ちゃんと受け止めるために。

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