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『国民的アイドル、俺の前だけ大型猫になります』 奏 × 伊織 #2
##2
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交際が始まってから数週間後。
事務所で、新しい企画会議があった。
大型密着ドキュメンタリー。
天峰奏のライブ裏、素顔、努力、孤独。
番組側は、奏の“支える人”として伊織も映したいと言った。
「枢木さん、画になりますし」
プロデューサーが笑う。
「雄女の専属マネージャーが国民的アイドルを支える、って絵面も強いです」
伊織は、仕事用の顔で頷いた。
「必要であれば、最低限の範囲で対応します」
奏は黙っていた。
笑っている。
完璧な営業用の笑顔。
けれど、伊織には分かる。
怒っている。
ものすごく。
会議が終わった後、楽屋のドアが閉まるなり、奏は低く言った。
「断る」
「奏」
「伊織は映さない」
「でも、番組としては奏の裏側を見せる企画です。俺が少し映るのは自然です」
「自然じゃない」
奏は伊織を見る。
「伊織を、俺の商品価値の一部にしたくない」
伊織は言葉に詰まった。
奏の声は静かだった。
だが、その奥に強い怒りがあった。
「俺は見られる仕事を選んだ」
奏が一歩近づく。
「でも伊織は違う」
「……俺はマネージャーです」
「だからこそだよ」
奏の指が、伊織の手首に触れる。
仕事中なら絶対にしない触れ方だった。
「伊織は、俺を生かすために裏にいる」
伊織の胸が熱くなる。
「その伊織まで消費されたら、俺はどこで息をすればいいの」
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伊織は、困っていた。
奏の言っていることは分かる。
嬉しいとも思う。
でも、仕事として考えれば、密着番組は大きなチャンスだった。
奏が完璧な商品としてだけではなく、一人の人間として見てもらえる可能性がある。
伊織はそれを支えたかった。
「奏」
「嫌」
「まだ何も言ってません」
「言う前から嫌」
「子供ですか」
「伊織に関しては子供でいい」
奏はソファに座り、伊織の腰へ腕を回そうとする。
伊織は台本でその手を叩いた。
「仕事中です」
「痛い」
「大げさ」
「恋人に叩かれた」
「マネージャーがアイドルの暴走を止めただけです」
奏は不満そうに見上げる。
その顔が、少しだけ幼い。
完璧なアイドルの裏側。
伊織しか知らない顔。
「奏」
伊織は静かに言った。
「俺は、あなたの隣に立つのが嫌なわけじゃありません」
奏の目が揺れる。
「でも、表に出たいわけでもないです」
「うん」
「俺は、あなたがステージで息をするための場所を守りたい」
伊織は台本を胸に抱いた。
「だから、番組に出るかどうかは、俺が選びます」
奏は黙った。
伊織は続ける。
「奏が隠したいから隠す、ではなくて」
少しだけ息を吸う。
「俺が、俺の意思で、どこまで見せるか決めたい」
奏の表情が変わった。
独占欲で覆っていた顔から、少しだけ力が抜ける。
「……そういうところ」
「え?」
「伊織、そういうところが好き」
伊織の顔が熱くなる。
「今、それ言う場面ですか」
「言う場面」
奏は伊織の手を取った。
「ごめん」
伊織は驚いた。
奏が、素直に謝ったから。
「俺、伊織を守りたいって顔して、閉じ込めようとしてた」
「奏」
「見せたくないのは本当」
奏は苦しそうに笑った。
「でも、伊織の意思まで奪いたいわけじゃない」
伊織の胸が、静かに満たされる。
「……では、仕事として線を引きましょう」
「うん」
「俺は顔出し最小限。名前と役職は出していい。ただし、雄女であることを見世物にする編集は禁止」
「絶対禁止」
「奏の睡眠不足や食事管理については、必要なら話します」
「怒られるやつだ」
「怒ります」
奏は少し笑った。
その笑顔は、ステージのものではない。
伊織の前でだけ見せる、安心した顔だった。
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密着撮影の日。
カメラが楽屋へ入る。
奏は完璧だった。
カメラに向かって笑い、スタッフに礼を言い、リハでは一度も音を外さない。
“天峰奏”として、どこまでも美しかった。
伊織はカメラの外に立ち、時間を確認する。
「奏、次の移動まで七分です」
「了解」
奏は笑顔で答える。
だが、カメラが一瞬外れた隙に、伊織へだけ視線を向けた。
疲れている。
伊織には分かる。
「水」
小さく言うと、奏は素直に受け取った。
密着スタッフが感心したように言う。
「枢木さん、本当に奏さんのこと何でも分かるんですね」
伊織は仕事用の笑顔で答えた。
「仕事ですので」
その瞬間、奏が小さく不満そうな顔をした。
伊織は見逃さない。
あとで拗ねるな、と思った。
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撮影の休憩中。
プロデューサーが言った。
「少しだけ、枢木さんにもカメラ前で話していただけますか?」
伊織は頷いた。
「内容によります」
「奏さんにとって、枢木さんはどんな存在か、という流れで」
奏の空気が変わった。
伊織はすぐに振り返る。
「奏」
低く名前を呼ぶ。
奏は何も言わない。
けれど、目が明らかに嫌だと言っていた。
伊織は小さく息を吐く。
「俺が答えます」
奏が顔を上げた。
伊織はカメラの前に立った。
ライトが当たる。
視線が集まる。
正直、苦手だった。
自分は表に出る人間ではない。
けれど、逃げない。
奏を支える立場として、自分で線を引くと決めたから。
「天峰奏さんは、完璧なアイドルです」
伊織は言った。
「でも、完璧なままでは人は生きられません」
カメラの向こうで、奏が息を呑むのが分かった。
「俺の仕事は、奏さんを完璧に見せることではなく、奏さんが明日もステージに立てる状態を守ることです」
言葉を選ぶ。
でも、嘘は言わない。
「ファンの皆さんが見ている天峰奏を、俺も尊敬しています」
伊織は、少しだけ奏を見る。
「でも俺は、その裏で水を飲んで、寝て、ちゃんと生きている奏さんも大事にしたい」
撮影現場が静かになった。
奏は、伊織を見ていた。
完璧なアイドルの顔ではない。
泣きそうなほど、素の顔だった。
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撮影後。
楽屋で、奏はしばらく黙っていた。
伊織は片づけをしながら言う。
「何ですか、その顔」
「伊織」
「はい」
「今の、放送したくない」
「またですか」
「違う」
奏が立ち上がる。
「見せたくないんじゃなくて」
ゆっくり近づいてくる。
「俺だけが聞きたかった」
伊織の手が止まる。
奏は伊織の前で立ち止まった。
「伊織は、俺を商品にしない」
「……当たり前です」
「でも、俺はずっと自分を商品だと思ってた」
奏の声が少し震えていた。
「求められるなら笑う。求められるなら歌う。求められるなら寝なくてもいい」
伊織の胸が痛む。
「奏」
「でも伊織は、俺に寝ろって言う」
奏が小さく笑った。
「飯食えって怒る。水飲めってうるさい。無理したら本気で怒る」
「全部必要なことです」
「うん」
奏は伊織の肩へ額を寄せた。
「俺、伊織がいないと、人間に戻れない」
その言葉が、伊織の胸を深く刺した。
伊織はそっと手を伸ばし、奏の背中へ触れる。
「戻れます」
「ほんと?」
「俺が戻します」
奏が息を吐く。
安心したみたいに。
「じゃあ、伊織」
「はい」
「俺の生活に入って」
伊織の呼吸が止まる。
「マネージャーとしてではなく」
奏が顔を上げる。
「恋人として」
伊織は何も言えなかった。
奏は続ける。
「仕事の予定表じゃなくて、俺の帰る場所に伊織の名前を入れたい」
顔が熱くなる。
「……アイドルがそんなことを簡単に」
「簡単じゃない」
奏の声は真剣だった。
「ずっと考えてた」
伊織は目を伏せる。
「俺は、奏の生活に入ったら、仕事との線引きが難しくなります」
「うん」
「あなたの評価に影響するかもしれない」
「うん」
「ファンに申し訳ないと思う日も、きっとあります」
「うん」
奏は全部聞いていた。
逃げずに。
「でも」
伊織は、小さく息を吸った。
「俺も、あなたが一人の部屋に帰っていくのを見るのは、もう嫌です」
奏の目が揺れる。
「帰った後に食べないのも、寝ないのも、平気な顔で次の日に笑うのも」
伊織は、奏の服を掴んだ。
「もう嫌です」
奏が、伊織を抱き締めた。
強く。
でも壊さないように。
「伊織」
「はい」
「一緒に帰って」
その一言は、プロポーズみたいに派手ではなかった。
けれど、奏にとっては何より重い言葉だった。
帰る場所を、伊織に差し出している。
天峰奏を降ろす場所へ、入ってほしいと言っている。
伊織は目を閉じた。
「はい」
小さく答える。
「一緒に帰ります」
奏の腕に、ぎゅっと力がこもった。
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それから、奏のスケジュール表は少し変わった。
収録。
取材。
リハーサル。
ライブ。
その隙間に、伊織が新しく書き込んだ項目がある。
“食事”
“睡眠”
“帰宅”
“伊織確認”
奏がそれを見て、少し笑った。
「伊織確認って何」
「俺が奏の状態を確認する時間です」
「毎日?」
「毎日」
「恋人っぽくない」
「健康管理です」
「じゃあ、俺も書く」
奏はペンを取った。
スケジュール表の一番下。
“伊織と帰る”
そう書いた。
伊織の顔が熱くなる。
「仕事用の表に書かないでください」
「大事な予定」
「公私混同です」
「伊織が俺の生活に入ったから」
奏は当然みたいに言った。
その顔があまりに嬉しそうで、伊織は叱る言葉を失った。
「……奏」
「何?」
「ちゃんと食べて、ちゃんと寝てください」
「うん」
「無理したら怒ります」
「うん」
「それから」
伊織は少しだけ迷って、続けた。
「俺の前では、天峰奏じゃなくていいです」
奏が目を見開く。
伊織は視線を逸らさなかった。
「完璧じゃなくていいです」
奏の表情が、ゆっくり崩れた。
ステージでは絶対に見せない顔。
伊織だけが見ていい顔だった。
「伊織」
「はい」
「今すぐ帰りたい」
「まだ仕事中です」
「冷たい」
「でも、終わったら一緒に帰ります」
奏は、それだけで満たされたように笑った。
その笑顔を見て、伊織も少しだけ笑う。
天峰奏は、みんなのアイドルだ。
けれど、ステージを降りた奏が帰る場所は、これから伊織が守る。
表に見せるためではなく。
商品にするためでもなく。
ただ、奏が明日も生きて、笑って、歌えるように。
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