11 / 30

『国民的アイドル、俺の前だけ大型猫になります』 奏 × 伊織 #2

##2 **** 交際が始まってから数週間後。 事務所で、新しい企画会議があった。 大型密着ドキュメンタリー。 天峰奏のライブ裏、素顔、努力、孤独。 番組側は、奏の“支える人”として伊織も映したいと言った。 「枢木さん、画になりますし」 プロデューサーが笑う。 「雄女の専属マネージャーが国民的アイドルを支える、って絵面も強いです」 伊織は、仕事用の顔で頷いた。 「必要であれば、最低限の範囲で対応します」 奏は黙っていた。 笑っている。 完璧な営業用の笑顔。 けれど、伊織には分かる。 怒っている。 ものすごく。 会議が終わった後、楽屋のドアが閉まるなり、奏は低く言った。 「断る」 「奏」 「伊織は映さない」 「でも、番組としては奏の裏側を見せる企画です。俺が少し映るのは自然です」 「自然じゃない」 奏は伊織を見る。 「伊織を、俺の商品価値の一部にしたくない」 伊織は言葉に詰まった。 奏の声は静かだった。 だが、その奥に強い怒りがあった。 「俺は見られる仕事を選んだ」 奏が一歩近づく。 「でも伊織は違う」 「……俺はマネージャーです」 「だからこそだよ」 奏の指が、伊織の手首に触れる。 仕事中なら絶対にしない触れ方だった。 「伊織は、俺を生かすために裏にいる」 伊織の胸が熱くなる。 「その伊織まで消費されたら、俺はどこで息をすればいいの」 **** 伊織は、困っていた。 奏の言っていることは分かる。 嬉しいとも思う。 でも、仕事として考えれば、密着番組は大きなチャンスだった。 奏が完璧な商品としてだけではなく、一人の人間として見てもらえる可能性がある。 伊織はそれを支えたかった。 「奏」 「嫌」 「まだ何も言ってません」 「言う前から嫌」 「子供ですか」 「伊織に関しては子供でいい」 奏はソファに座り、伊織の腰へ腕を回そうとする。 伊織は台本でその手を叩いた。 「仕事中です」 「痛い」 「大げさ」 「恋人に叩かれた」 「マネージャーがアイドルの暴走を止めただけです」 奏は不満そうに見上げる。 その顔が、少しだけ幼い。 完璧なアイドルの裏側。 伊織しか知らない顔。 「奏」 伊織は静かに言った。 「俺は、あなたの隣に立つのが嫌なわけじゃありません」 奏の目が揺れる。 「でも、表に出たいわけでもないです」 「うん」 「俺は、あなたがステージで息をするための場所を守りたい」 伊織は台本を胸に抱いた。 「だから、番組に出るかどうかは、俺が選びます」 奏は黙った。 伊織は続ける。 「奏が隠したいから隠す、ではなくて」 少しだけ息を吸う。 「俺が、俺の意思で、どこまで見せるか決めたい」 奏の表情が変わった。 独占欲で覆っていた顔から、少しだけ力が抜ける。 「……そういうところ」 「え?」 「伊織、そういうところが好き」 伊織の顔が熱くなる。 「今、それ言う場面ですか」 「言う場面」 奏は伊織の手を取った。 「ごめん」 伊織は驚いた。 奏が、素直に謝ったから。 「俺、伊織を守りたいって顔して、閉じ込めようとしてた」 「奏」 「見せたくないのは本当」 奏は苦しそうに笑った。 「でも、伊織の意思まで奪いたいわけじゃない」 伊織の胸が、静かに満たされる。 「……では、仕事として線を引きましょう」 「うん」 「俺は顔出し最小限。名前と役職は出していい。ただし、雄女であることを見世物にする編集は禁止」 「絶対禁止」 「奏の睡眠不足や食事管理については、必要なら話します」 「怒られるやつだ」 「怒ります」 奏は少し笑った。 その笑顔は、ステージのものではない。 伊織の前でだけ見せる、安心した顔だった。 **** 密着撮影の日。 カメラが楽屋へ入る。 奏は完璧だった。 カメラに向かって笑い、スタッフに礼を言い、リハでは一度も音を外さない。 “天峰奏”として、どこまでも美しかった。 伊織はカメラの外に立ち、時間を確認する。 「奏、次の移動まで七分です」 「了解」 奏は笑顔で答える。 だが、カメラが一瞬外れた隙に、伊織へだけ視線を向けた。 疲れている。 伊織には分かる。 「水」 小さく言うと、奏は素直に受け取った。 密着スタッフが感心したように言う。 「枢木さん、本当に奏さんのこと何でも分かるんですね」 伊織は仕事用の笑顔で答えた。 「仕事ですので」 その瞬間、奏が小さく不満そうな顔をした。 伊織は見逃さない。 あとで拗ねるな、と思った。 **** 撮影の休憩中。 プロデューサーが言った。 「少しだけ、枢木さんにもカメラ前で話していただけますか?」 伊織は頷いた。 「内容によります」 「奏さんにとって、枢木さんはどんな存在か、という流れで」 奏の空気が変わった。 伊織はすぐに振り返る。 「奏」 低く名前を呼ぶ。 奏は何も言わない。 けれど、目が明らかに嫌だと言っていた。 伊織は小さく息を吐く。 「俺が答えます」 奏が顔を上げた。 伊織はカメラの前に立った。 ライトが当たる。 視線が集まる。 正直、苦手だった。 自分は表に出る人間ではない。 けれど、逃げない。 奏を支える立場として、自分で線を引くと決めたから。 「天峰奏さんは、完璧なアイドルです」 伊織は言った。 「でも、完璧なままでは人は生きられません」 カメラの向こうで、奏が息を呑むのが分かった。 「俺の仕事は、奏さんを完璧に見せることではなく、奏さんが明日もステージに立てる状態を守ることです」 言葉を選ぶ。 でも、嘘は言わない。 「ファンの皆さんが見ている天峰奏を、俺も尊敬しています」 伊織は、少しだけ奏を見る。 「でも俺は、その裏で水を飲んで、寝て、ちゃんと生きている奏さんも大事にしたい」 撮影現場が静かになった。 奏は、伊織を見ていた。 完璧なアイドルの顔ではない。 泣きそうなほど、素の顔だった。 **** 撮影後。 楽屋で、奏はしばらく黙っていた。 伊織は片づけをしながら言う。 「何ですか、その顔」 「伊織」 「はい」 「今の、放送したくない」 「またですか」 「違う」 奏が立ち上がる。 「見せたくないんじゃなくて」 ゆっくり近づいてくる。 「俺だけが聞きたかった」 伊織の手が止まる。 奏は伊織の前で立ち止まった。 「伊織は、俺を商品にしない」 「……当たり前です」 「でも、俺はずっと自分を商品だと思ってた」 奏の声が少し震えていた。 「求められるなら笑う。求められるなら歌う。求められるなら寝なくてもいい」 伊織の胸が痛む。 「奏」 「でも伊織は、俺に寝ろって言う」 奏が小さく笑った。 「飯食えって怒る。水飲めってうるさい。無理したら本気で怒る」 「全部必要なことです」 「うん」 奏は伊織の肩へ額を寄せた。 「俺、伊織がいないと、人間に戻れない」 その言葉が、伊織の胸を深く刺した。 伊織はそっと手を伸ばし、奏の背中へ触れる。 「戻れます」 「ほんと?」 「俺が戻します」 奏が息を吐く。 安心したみたいに。 「じゃあ、伊織」 「はい」 「俺の生活に入って」 伊織の呼吸が止まる。 「マネージャーとしてではなく」 奏が顔を上げる。 「恋人として」 伊織は何も言えなかった。 奏は続ける。 「仕事の予定表じゃなくて、俺の帰る場所に伊織の名前を入れたい」 顔が熱くなる。 「……アイドルがそんなことを簡単に」 「簡単じゃない」 奏の声は真剣だった。 「ずっと考えてた」 伊織は目を伏せる。 「俺は、奏の生活に入ったら、仕事との線引きが難しくなります」 「うん」 「あなたの評価に影響するかもしれない」 「うん」 「ファンに申し訳ないと思う日も、きっとあります」 「うん」 奏は全部聞いていた。 逃げずに。 「でも」 伊織は、小さく息を吸った。 「俺も、あなたが一人の部屋に帰っていくのを見るのは、もう嫌です」 奏の目が揺れる。 「帰った後に食べないのも、寝ないのも、平気な顔で次の日に笑うのも」 伊織は、奏の服を掴んだ。 「もう嫌です」 奏が、伊織を抱き締めた。 強く。 でも壊さないように。 「伊織」 「はい」 「一緒に帰って」 その一言は、プロポーズみたいに派手ではなかった。 けれど、奏にとっては何より重い言葉だった。 帰る場所を、伊織に差し出している。 天峰奏を降ろす場所へ、入ってほしいと言っている。 伊織は目を閉じた。 「はい」 小さく答える。 「一緒に帰ります」 奏の腕に、ぎゅっと力がこもった。 **** それから、奏のスケジュール表は少し変わった。 収録。 取材。 リハーサル。 ライブ。 その隙間に、伊織が新しく書き込んだ項目がある。 “食事” “睡眠” “帰宅” “伊織確認” 奏がそれを見て、少し笑った。 「伊織確認って何」 「俺が奏の状態を確認する時間です」 「毎日?」 「毎日」 「恋人っぽくない」 「健康管理です」 「じゃあ、俺も書く」 奏はペンを取った。 スケジュール表の一番下。 “伊織と帰る” そう書いた。 伊織の顔が熱くなる。 「仕事用の表に書かないでください」 「大事な予定」 「公私混同です」 「伊織が俺の生活に入ったから」 奏は当然みたいに言った。 その顔があまりに嬉しそうで、伊織は叱る言葉を失った。 「……奏」 「何?」 「ちゃんと食べて、ちゃんと寝てください」 「うん」 「無理したら怒ります」 「うん」 「それから」 伊織は少しだけ迷って、続けた。 「俺の前では、天峰奏じゃなくていいです」 奏が目を見開く。 伊織は視線を逸らさなかった。 「完璧じゃなくていいです」 奏の表情が、ゆっくり崩れた。 ステージでは絶対に見せない顔。 伊織だけが見ていい顔だった。 「伊織」 「はい」 「今すぐ帰りたい」 「まだ仕事中です」 「冷たい」 「でも、終わったら一緒に帰ります」 奏は、それだけで満たされたように笑った。 その笑顔を見て、伊織も少しだけ笑う。 天峰奏は、みんなのアイドルだ。 けれど、ステージを降りた奏が帰る場所は、これから伊織が守る。 表に見せるためではなく。 商品にするためでもなく。 ただ、奏が明日も生きて、笑って、歌えるように。

ともだちにシェアしよう!