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『ヤクザ若頭に保護されたら、なぜか嫁扱いです』 燎牙 × 澄夜 #1
##1
龍ヶ崎燎牙(りゅうがさき・りょうが)は、雄咲市でも有名な男だった。
怖い男で、危険な男で、逆らってはいけない男。
人を睨むだけで空気を凍らせ、裏切った相手には容赦しない。部下ですら、燎牙の前では背筋を伸ばして息を潜める。
雄咲市の繁華街で、龍ヶ崎組の若頭を知らない者はいなかった。
そして、夜見坂澄夜(よみさか・すみや)は、その男と関わるつもりなど一ミリもなかった。
****
澄夜は、成人後、雄女化を選んでいた。
理由は、特別に劇的なものではない。
一人で生きていくため。
少しでも制度上の保障を得るため。
それから、いつか誰かと家族を持つ未来を、自分から閉ざしたくなかったから。
雄女化した身体は、以前より少し柔らかくなった。声も、肌も、周囲からの見られ方も変わった。
けれど澄夜自身は、相変わらずよく怒り、よく働き、よくツッコむ一般人だった。
「俺は普通に生活したいだけなんだよ」
それが口癖だった。
普通に働いて、普通に帰って、普通に飯を食う。
それだけでよかった。
ヤクザ若頭に保護される未来など、人生設計のどこにもなかった。
****
夜の繁華街。
割れた瓶の音と、怒号が響いた。
「逃げろ!!」
誰かの声に、澄夜は反射的に路地へ飛び込んだ。
「は!? 何で俺が巻き込まれてんの!?」
完全に最悪だった。
仕事帰りに安い惣菜を買って帰るだけのはずだったのに、なぜか黒スーツの男たちが殴り合う現場に遭遇した。
澄夜は慌てて後退る。
その瞬間、ドンッ、と誰かが壁へ叩きつけられた。
「……っ」
振り返る。
そこにいたのは、銀髪の男だった。
黒いシャツ。
鋭い目。
煙草の匂い。
そして、立っているだけで周囲を黙らせる圧。
「龍ヶ崎さん……」
誰かが震えた声で呼んだ。
龍ヶ崎燎牙。
この辺り一帯を仕切る組の若頭。
澄夜は本能で理解した。
――この人、本当に危ない。
「邪魔」
燎牙の低い声が落ちた。
次の瞬間、男が一人、地面へ沈んだ。
動きに迷いがない。
澄夜は惣菜袋を抱えたまま、そろそろ逃げようとした。
その時。
「おい」
燎牙が、真っ直ぐ澄夜を見た。
「怪我してる」
「え?」
言われて初めて、澄夜は腕が切れていることに気づいた。
瓶の破片でかすったらしい。
血が細く流れていた。
「いや、これくらい」
「来い」
「は!?」
燎牙は当然のように近づいてくる。
澄夜は後退った。
「いやいやいや、待ってください。俺、一般人なんで。そういう危ない人についていく趣味ないんで」
「血が出てる」
「出てますけど! 自分で病院行きます!」
「この時間に表の病院へ行くと、さっきの連中に顔を覚えられる」
燎牙は淡々と言った。
「お前、雄女だろ」
澄夜の肩が跳ねる。
「だったら何ですか」
「狙われる理由が増える」
低い声だった。
馬鹿にしているわけではない。
値踏みしているわけでもない。
ただ、危険を事実として言っている声だった。
「俺の縄張りに入れ」
「縄張りとか言うな! 怖いから!」
「怖くても来い」
「命令形!」
燎牙は澄夜の手首を掴んだ。
強い。
けれど、傷には触れない。
その妙な丁寧さに、澄夜は一瞬だけ黙った。
****
連れて行かれたのは、龍ヶ崎組の屋敷だった。
広すぎる玄関。
高そうな畳。
やたら静かな廊下。
澄夜は救急箱の前で正座させられ、完全に固まっていた。
「いや、何で俺ここにいるんですか!?」
「保護」
燎牙は煙草を咥えながら答えた。
「保護って言えば何でも許されると思うなよ!?」
「敵対組織がお前の顔を見た」
「最悪!!」
「外に出す方が危ない」
「言い方が監禁寄り!!」
組員たちは、廊下の向こうで青ざめていた。
若頭にここまで怒鳴れる人間など、ほとんどいない。
しかも相手は、さっき拾われてきたばかりの一般人である。
「腕」
燎牙が手を出す。
「自分でできます」
「左手で巻く気か」
「ぐ……」
澄夜は渋々腕を出した。
燎牙は雑そうに見えて、手当ては思ったより丁寧だった。
消毒液を含ませたガーゼを傷口に当てる。
「痛かったら言え」
「言ったらやめるんですか」
「我慢するなと言ってる」
澄夜は言葉に詰まった。
こういう男だと思わなかった。
もっと乱暴で、怖くて、こちらの都合なんて聞かない男だと思っていた。
「……痛いです」
小さく言うと、燎牙の手が少しだけ緩んだ。
「そうか」
「何か反応薄いな」
「暴れられるよりいい」
「俺を野良猫扱いするな」
「猫よりよく喋る」
「喧嘩売ってます?」
燎牙が少しだけ笑った。
怖い顔なのに、笑うと妙に色気がある。
澄夜はすぐに視線を逸らした。
危ない。
この男は、いろんな意味で危ない。
****
燎牙は、信用というものをあまり信じていなかった。
裏切りは日常。
損得で人が動くことも知っている。
部下はいる。
屋敷もある。
金も力もある。
だが、“家”はなかった。
帰る場所ではなく、戻る拠点。
眠る場所ではなく、目を閉じる場所。
食事も、煙草も、仕事の合間に済ませるものだった。
そこに、澄夜が入り込んだ。
「何ですか、この夕飯」
食卓で、澄夜が眉を寄せる。
「肉」
燎牙が答える。
「見れば分かります。野菜どこですか」
「添えてある」
「この小さい葉っぱを野菜扱いするな!」
組員が震えた。
「夜見坂さん、それは」
「だって咳してるじゃん! 煙草吸うし、飯は肉ばっかだし、肌荒れてるし!」
燎牙が黙る。
澄夜は遠慮なく続けた。
「若頭とか関係ないです。身体壊したら終わりだろ。ちゃんと食え」
部屋が凍った。
しかし燎牙は、灰皿へ手を伸ばしかけて、止めた。
煙草を置く。
「……一本だけ減らす」
組員たちがざわついた。
「若頭が従った……」
「天変地異か?」
澄夜は気づいていない。
自分だけが、燎牙を普通の男のように扱っていることに。
燎牙の身体を心配し、怒り、食事に文句を言い、煙草を減らせと命令する。
そんな人間は、燎牙の周りにはいなかった。
****
数日後。
澄夜は、まだ龍ヶ崎の屋敷にいた。
正確には、帰ろうとするたびに止められていた。
「帰ります」
「駄目だ」
「即答やめろ!」
「危ない」
「俺の家の方が心が安らぐんですけど!」
「敵対組織に張られてる可能性がある」
「現実的な理由出すな!」
燎牙は平然としている。
澄夜は頭を抱えた。
「俺、仕事あるんですけど」
「送る」
「遠足か」
「迎えも行く」
「過保護!!」
「保護だからな」
「便利ワードにするな!」
けれど、燎牙は本当に毎日送り迎えをした。
黒塗りの車が一般企業の前に停まるたび、澄夜は胃が痛くなる。
「目立つからやめてください!」
「目立った方が牽制になる」
「俺の社会的な平穏は!?」
「守る」
「そういう守り方じゃない!」
燎牙は少し考えた。
そして翌日から、車を一つ通りの向こうに停めるようになった。
澄夜は驚いた。
「……一応、聞いてくれるんですね」
「お前が嫌がるなら変える」
「じゃあまず保護を」
「それは無理だ」
「そこは聞けよ!」
燎牙は、わずかに笑った。
その笑い方が、妙に柔らかかった。
澄夜は心臓がうるさくなるのを感じた。
****
ある夜。
燎牙は血のついたシャツで帰ってきた。
「っ、何それ!」
澄夜が立ち上がる。
「かすっただけ」
「かすってねぇ!!」
澄夜は救急箱を掴んだ。
「座れ!」
組員たちが一斉に青ざめる。
若頭に命令した。
しかし燎牙は、素直に座った。
「……お前、怖くねぇの」
「怖いに決まってるだろ!」
澄夜は怒鳴りながら消毒液を取る。
手は少し震えていた。
「怖いけど、怪我してんのに平気な顔される方がムカつく!」
燎牙は黙った。
澄夜は傷を拭き、包帯を巻く。
「何でいつも自分のこと雑なんですか」
「慣れてる」
「慣れるな!」
「うるさいな」
「うるさくしますよ。死なれたら後味悪いから」
燎牙は、じっと澄夜を見た。
「後味か」
「何ですか」
「俺に死なれたくないって言え」
澄夜の手が止まる。
「……は?」
「違うのか」
燎牙の声は低い。
からかっているようで、どこか本気だった。
澄夜は顔が熱くなる。
「違わなくても言いません」
「そうか」
燎牙の口元が少し緩んだ。
「じゃあ、そういうことにしておく」
「何を納得した!?」
澄夜は包帯を強めに巻いた。
「痛い」
「知るか」
燎牙は文句を言わなかった。
その顔は、澄夜の知らない表情をしていた。
安心している顔だった。
****
組員たちは、もう分かっていた。
若頭が変わった。
以前なら朝まで戻らなかった仕事を、途中で切り上げる。
煙草の本数が減った。
食事に野菜が出るようになった。
何より、屋敷の空気が少し柔らかくなった。
理由は一人しかいない。
「若頭、最近すぐ帰りますよね」
「夜見坂さんが起きてるからだろ」
「もはや嫁」
「聞こえたら殺されるぞ」
その時、背後から低い声が落ちた。
「誰が嫁だ」
組員たちが飛び上がる。
澄夜だった。
「聞こえてるんですけど!?」
「すみません!!」
「あと俺は一般人です! 嫁じゃない!」
「一般人が若頭にあんな説教できます?」
「それは……それ!」
澄夜が言い返していると、廊下の奥から燎牙が現れた。
「澄夜」
「何ですか」
「飯」
「また肉だったら怒りますよ」
「今日は野菜もある」
「偉い」
その一言に、組員たちが固まった。
若頭が褒められている。
そして、少し嬉しそうにしている。
「……若頭、今の顔」
「見るな」
燎牙の低い声で、全員が散った。
澄夜だけが気づいていなかった。
自分が、燎牙の生活の真ん中に入り込み始めていることに。
****
ある日。
澄夜が屋敷の庭先で洗濯物を取り込んでいると、若い組員が声をかけてきた。
「夜見坂さん、手伝いますよ」
「あ、ありがとうございます」
組員が澄夜の腕に触れようとした瞬間。
「触るな」
低い声が落ちた。
空気が凍る。
燎牙だった。
表情は静かだが、目が笑っていない。
「若頭、これは」
「俺の許可なく触るな」
組員が慌てて下がる。
「す、すみません!」
澄夜は固まった。
「……何でそんな怒るんですか」
燎牙は少し黙る。
「ムカついた」
「は?」
「お前が、他の奴に触られると腹が立つ」
心臓が跳ねた。
「それ、普通に言うことですか」
「普通じゃねぇからな」
燎牙が近づく。
逃げようと思えば逃げられる。
でも、足が動かなかった。
「澄夜」
低い声。
「俺はお前を保護してるだけじゃない」
胸が熱くなる。
「じゃあ何ですか」
燎牙は、答えるまでに少し時間をかけた。
「帰したくない」
真っ直ぐだった。
「お前がここにいると、屋敷が家になる」
澄夜は言葉を失った。
危険な男。
怖い男。
近づいてはいけない男。
そう思っていた。
なのに、今の燎牙は、迷子みたいに不器用な顔をしている。
「……俺、ヤクザとか怖いんですけど」
「知ってる」
「ここ、普通じゃないし」
「知ってる」
「なのに」
澄夜は苦しそうに笑った。
「燎牙さんがいない方が、嫌になってきた」
燎牙の目が、わずかに見開かれる。
それから、本当に嬉しそうに笑った。
怖い顔の男が、初めて少年みたいに笑った。
澄夜は思った。
これは、まずい。
自分はたぶん、もうかなり深いところまで来ている。
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