1 / 2

第1話|100番目の王子と、あまりにしょっぱい再スタート

「人間は、人生の3分の1を寝て過ごす」なんて誰かが言っていたけれど、僕の場合は人生の最後が「水の中」だった。 32歳の夏。海。別に波打ち際でロマンチックな心中を図ったわけじゃない。ただ、浮き輪から外れてしまった見ず知らずの子供を助けようとしただけだ。 結果、子供は助かり、僕は塩水をたっぷりと肺に流し込んで、ブラック企業のサービス残業よりも過酷な「死」という名の強制退職を味わうことになった。 暗くて、冷たくて、息ができない。 あ、これ、詰んだな。 意識が泡となって消えていく。 それが、僕――乱場暖(らんば・だん)の最期の記憶だ。 ところが、だ。 「……様。ランチャ様、いつまで休んでいるのですか。職務ですので一度は起こしに来ましたが、これ以上は時間の無駄ですね」 耳元で、トーストに塗るバターのように平坦で冷たい声が聞こえた。 目を開ける。天井は高いが、剥がれかけた漆喰が目立つ。豪華なシャンデリアの代わりにぶら下がっているのは、煤けたランタンのような照明だ。まるでRPGの初期の街にある、一泊50ゴールドくらいの安い宿屋を連想させる。 「……え?」 体を起こそうとして、僕は自分の手に目を落とした。白くて、細い。32年かけて作り上げた、キーボードの叩きすぎで節くれ立った僕の手じゃない。 慌ててベッドから転げ落ちる。床は冷たくて硬い石造りだ。部屋の隅にある、銀が浮いてひび割れた姿見に駆け寄った。 そこに映っていたのは、18歳くらいの、死人のように顔色の悪い少年だった。着ているシャツは洗濯のしすぎで襟元がヨレヨレになり、所々が黄ばんでいる。 何より、髪がひどかった。手入れを放棄して久しいのか、肩までぼさぼさに伸び切っている。色は枯れた茶色というか、赤みのある不思議な黄色――「|蘭茶《らんちゃ》色」をしている。江戸時代の粋人が好んだ色らしいが、この汚れきった身なりでは、ただの「手入れされていない獣の毛」だ。 「誰だ、これ……」 「鏡に向かって独り言ですか。おめでたいことですね、ランチャ様」 振り返ると、銀ぶちの眼鏡をかけた無表情な男が、出口のドアノブに手をかけたまま立っていた。執事のような服を着ているが、その立ち居振る舞いからは敬意の欠片も感じられない。 彼は「起こす」という最低限のタスクを完了し、さっさと次の仕事へ向かおうとしていた。 「ここはどこだ?僕は……」 「寝ぼけている暇はありません。今日は王より大切な話がある日です。100番目の王子である貴方には、もともと発言権などありませんが、欠席すればその場で首が飛びますよ。……まあ、私としてはどちらでも構わないのですが」 100番目の王子。ランチャ。 そして、身なりを整える余裕すら与えられていない、今の僕。 どうやら僕は死んで、この「超絶マイナーで放置された王子」というポジションに転生してしまったらしい。 「……とりあえず、顔を洗わせてくれ」 僕はフラフラと洗面台に向かった。石を彫っただけの簡素なボウルに、並々と水が張られている。それを見た瞬間。 「ひっ……!」 心臓が、跳ね上がった。肺の奥がツンとする。鼻の奥に、あの時の塩水の味が蘇る。ただの水面が揺れるだけで、自分がまた暗い海の底に引きずり込まれるような気がして、足が震えた。 「何をしているんですか。水が怖いのですか?100番目の王子ともなると、知能だけでなく生命維持能力まで退行するとは驚きです」 ドアの外へ向かおうとしていた執事の声が、冷たく突き刺さる。僕は震える手で、ボロ布のようなタオルを水に浸し、顔を拭うのが精一杯だった。

ともだちにシェアしよう!