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第5章:主の居ぬ間に(1)

 湊がアルダスの店で働き始めて一ヶ月が経った。すっかり、この世界での生活にも慣れ、知り合いもできた。それはそれで楽しかったが、湊は悩んでいた。  相変わらずアルダスは湊に雑用しかさせてくれない。湊が手伝うと言っても 「おまえは自分の仕事をしろ」 と断られてしまう。仕方なく掃除や店番、材料の収集をしつつ、こっそりとアルダスの作業を覗き、調合に使う材料や手順をメモしていた。一ヶ月も経つと、レシピの数は二十にもなっていた。常連の客が頼む薬なら、湊でも作れるだろう。  給料もまだ貰えていなかった。そのうち払うからとアルダスは言ってくれるが、二人分の給料を出せるほど店の売上が良いとは思えない。せいぜいアルダス一人が食べていくのが精一杯だった。 「休憩に行っていいぞ」と言われて、湊は噴水のある中央広場へと向かう。空いているベンチに腰かけ、包みを開いて遅いランチを食べ始めた。  乾いた薄切りのライ麦パンと干からびたチーズ。どちらも朝食の残り物に過ぎない。噴水に口をつけて、お腹を満たす。湧き水らしいので、まだきれいだ。それでも、最初のうちは体に合わなくて、湊は何度もお腹を壊していた。  クォークの母親は給料が出ない不満を何度も口にする。 「ダブラーのところで働いていたら、今頃は私も不自由しなかっただろうね」  そう言って湊を睨みつけた。現実は厳しい。思い出して湊はため息をついた。 「よぅ、ため息なんかついてどうしたんだ?」  ぬめりのあるドスの効いた声に顔を上げると、ダブラーが腰に手を当てて立っていた。酒とタバコの匂いが漂ってくる。 「なんでもありません」  湊はぶっきらぼうに答えた。 「嘘つけ。また腹を空かせてるんだろ。ほら」 とダブラーは具が分厚く挟まったサンドイッチを一切れ差し出す。思わずゴクリと湊の喉が鳴った。けれども、ここで受け取ってしまえば、ダブラーに弱みを握られてしまう。 「やせ我慢はよせ。目はこいつに釘づけだぞ」  結局、空腹には勝てずに湊はサンドイッチを受け取る。そして、無我夢中で食べるのだった。口の周りがソースで汚れようが、構わずにむしゃぶりつく。パンや肉、野菜の味わいが全身にエネルギーを与えてくれるようだった。  これじゃ、まるでダブラーに手懐けられているみたいだ。そう分かっていても、湊は食べるのを止められなかった。あっという間に平らげて 「ごちそうさまです」 と会釈をするが、すぐに 「何もお返しできないですからね」 と背中を向けた。 「いいさ。俺様には哀れな子羊にサンドイッチを奢るくらいの余裕があるんだからな」  ダブラーはグルッと回り込んで湊の瞳を覗き込む。 「まだ給料が出てないんだろ」 「……そのうち出ます。たぶん……」  ダブラーは何かに気づいたように、湊の方へ手を伸ばす。頬のあたりまで伸びた髪の毛を優しく握られた。 「ずいぶんと長いな。伸ばしているのか?」 「え? ええ、あーっ。切る暇が無いだけです」  それは嘘だった。湊はわざと髪の毛を伸ばしている。そうすれば女の子に見えて、アルダスが可愛いと思ってくれるかもしれない。ヒントをくれたのはダブラーだった。 「こんなことしたって、アルダスは喜ばないぜ」 「別にアルダス様のためではありません」  ダブラーに見透かされて、つい早口になってしまう。 「もう戻らなければ」  湊は立ち上がり、噴水で口をゆすいだ。 「なんだ、もう行っちまうのか」  ダブラーは湊の手を握って引き留めようとする。湊は邪険に振り払って駆け出した。 「ま、意外と悪くねぇけどな……」  そんなダブラーの呟きには気づかずに。

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