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第9章:祝福の香(2)

 家に帰った湊は、夕食やクォークの母親との団らんもそこそこに、自分の部屋にこもって図鑑を広げていた。手元のメモには複雑な計算式がいくつも書かれている。  目を閉じて、過去の授業や石動製薬での実験を思い出す。あの時、バニラの香りの再現に使ったのは「リグニン」という成分だった。リグニン……紙を作った後に残る成分。  異世界の植物は名称こそ違えど、絵や特徴から照合すれば、対応するものがきっと見つかるはずだった。湊は時間を忘れて図鑑をめくり続け、ようやく似たような素材のページにたどり着いた。 「……これだ。紙を作る工程で出る『灰白の木くず』。リグナという樹の皮から作られる紙に含まれるって……」  それはまさに、リグニンと同じ働きを持つ素材だった。  だが、それだけではバニラの香りは生まれない。さらに分解や生成といった化学反応を促す触媒が必要だった。  頭の中でシミュレーションするうちに、分解するにはキノコに似た植物が役立つかもしれないと考えた。生成には「香りの目覚め草」が使えそうである。絞り汁を混ぜると、香りが立ち上るらしい。  湊は仕事の合間に、これらの材料を揃えてしまった。灰白の木くずは職人街の製紙工場で、香りの目覚め草はいつもの草原で、そして、キノコに似た植物は森で入手できた。一日中歩き回って疲れたが、湊は充実していた。  その日の仕事が終わってから、湊は自宅で調合を始めた。クォークの母親は良い顔をしなかったが、湊の期待に満ちた表情に何も言わなかった。  何度も試行錯誤しているうちに、香りが近づいていく。まるで魔法のようだった。そして、クォークの母親が目覚める頃、ようやく目的の香りが完成した。あの布の切れ端に染みついていた匂いと同じ香り。 「あんた。また夜更かししたのかい」 「それより、母さん。この匂いを嗅いでみてよ」  湊はクォークの母親へ、蝋に混ぜた香りを差し出す。彼女は匂いを嗅ぐと、途端に晴れやかな表情を見せた。 「良い香りじゃないか。どうしたんだい」 「記憶を頼りに作ったんだ」 「さすがは私の息子だね。あんたは天才だよ」  天才と言われて湊は苦笑する。だが、これで王女の依頼に応えられそうだった。完成した香りを持ってアルダスの店へ急ぐ。湊は胸を高鳴らせながら扉を開けた。すでにアルダスもミレイユもいたが、喜び勇んで入ってきた湊を見て怪訝そうな表情をする。 「香りができたのです!」  そう言って、湊は香りを混ぜた蝋が入った器を無邪気に差し出す。最初に手に取ったのはミレイユだった。 「……まぁ、あの香りと同じですわ」  ミレイユはアルダスに器を差し出す。アルダスは最初こそ嫌がったが、ミレイユに促されて渋々手に取った。一瞬、驚きを露わにしたが、すぐに顔をしかめる。湊はその真意を測りかねていた。 「この香りを差し出せば、王女もきっと……」 と言いかけたところで 「おまえは手伝わなくても良いと言ったはずだ」 と、アルダスは乱暴に器をカウンターに置いた。 「しかし……」  湊は逡巡する。 「……それは、おまえの香りじゃないか」  アルダスの声に悔しさが滲む。湊は返す言葉が見つからなかった。 「この依頼は私一人でやり遂げてみせる。余計なことはするな」  そう言ってアルダスは奥の作業場へと入ってしまった。「アルダス様ならきっと作れますわ!」とミレイユが後を追いかけてゆく。  一人、店へと残された湊は俯いていた。確かに余計なことだったかもしれない。だが、自分は少しでもアルダスの役に立てばと思っていたのだ。湊は持ってきた器をゴミ箱に捨てる。辺りに漂うバニラの香りが涙を誘った。

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