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第9章:祝福の香(1)

 客足が落ち着き、そろそろ店を閉める時間になった頃、ミレイユが一人の女性を連れてやってきた。女性は頭から繊細な刺繍が施されたベールを被り、その顔を通りすがりの人々から見えないようにしていた。それでも、優雅な物腰から気品と浮世離れした雰囲気が伝わってくる。  さっそく、奥の作業場からアルダスが現れて、その女性と対峙する。ゆっくりとベールが外された途端、アルダスは驚きを露わにした。 「シルヴィ王女ではないですか」  少し離れたところで様子をうかがっていた湊も、王女と聞いて驚く。なぜミレイユが連れてきたのか不思議で仕方ない。 「私の母が侍女をしていたのです。大切なお姉さまですわ」  アルダスと湊の疑問に先回りするように、ミレイユが答えた。  シルヴィ王女は、おもむろに小さな木箱を取り出し、蓋を開けてアルダスに差し出した。中には色褪せた布の切れ端が納められている。アルダスとミレイユは交互に匂いを嗅いだ。 「この香りを、婚礼に使いたいのです」  静かな声だったが、その響きには確かな決意がこもっていた。 「一ヶ月後に彼女は隣国の王子と結婚するのです」  ミレイユがシルヴィ王女を気遣わしげに見やる。 「これは、幼い頃に私を育ててくれた乳母が愛用していた香りです。……亡き彼女への感謝と祈りを込めて、これを“祝福の香”として婚礼の日に使いたいのです」  婚礼では自分の好きな香りを「祝福の香」として使えるらしい。ミレイユが教えてくれた。 「夜眠れない時、この香りがする布をぎゅっと握っていたんです」  シルヴィ王女は遠い目をした。 「けれども、どこを探してもこの香りが見つからないのです」  国中はもちろん、近隣の国々も探し回ったが、同じ香りは見つからなかった。どうやら、彼女の乳母は遠く離れた異国から、この香りを持ち込んだらしい。だから、同じ香りをアルダスに再現してほしいと乞う。  アルダスは腕を組んで考え込んでしまった。 「アルダス様ならきっと出来ますわ」  ミレイユは潤んだ瞳でアルダスをじっと見つめる。この仕草にアルダスが弱いのを、湊は知っていた。 「分かりました。引き受けましょう」  そう言うと、シルヴィ王女が喜びを露わにする。アルダスは二人の女性に喜ばれて、満更でもないような顔をした。 「ただ、この依頼はダブラーにも伝えられていますの」  ミレイユは残念そうに付け足す。シルヴィ王女も戸惑った顔をしていた。どうやら彼女の父親、つまりイストリバ国王が勝手に指名してしまったらしい。ダブラーの力量があれば、この香りを再現できるだろうと湊は思った。 「国王は、ダブラーを王室の御用達にするつもりです。これまで選ばれたのは、そうそうたる錬金術師ばかり。アルダス様も負けていられませんわ」 「王室の御用達……」  王室の御用達になれば、錬金術師としての格が上がるだけでなく、店もますます繁盛するだろう。アルダスにしても、もちろん野心家のダブラーにしても、またとない機会だった。 「それでは、アルダス様。頼みますね」  そう言ってシルヴィ王女は帰ろうとする。アルダスとミレイユも見送りに外へ出た。その隙に湊は残された布の切れ端を手に取り、匂いを嗅ぐ。 「ん? この匂いは……」  前世で何度も嗅ぎ慣れた匂い。湊は確かにこの香りの正体を知っていた。 「バニラだ……」  アイスクリームやケーキから漂う甘くてまろやかな香り。久しぶりに匂いを嗅いで、湊は懐かしさを覚えた。  アルダスが一人で戻ってくる。どうやら、ミレイユはシルヴィ王女を送りに行ってしまったらしい。湊はこっそりと布の切れ端を戻した。  アルダスは湊を見るなり 「いいか。香りが完成するまではダブラーと会うな。万が一会っても口は利くな。絶対だぞ」 と、きつい口調で忠告してきた。きっと、情報を盗まれると思っているのだろう。湊は困惑しながらも、しきりに頷いた。 「それから……」 と、まだアルダスは話を続ける。 「おまえは手伝わなくても良い。この依頼は私一人でやり遂げてみせる。……誰かに手伝ってもらったと思われるのは癪だからな」  せっかく、香りの正体を突き止めたのに……。それでも、アルダスの覚悟を決めた表情を見ると、湊は何も言えなかった。

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