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第14章:世界でたった一つの(1)

「あうあ……、あうあ……」  うなされているような自分の声を、湊は確かに聞いたような気がした。すぐに誰かが 「おい、春原。大丈夫か!」 と話しかけてくる。ぬめりのあるドスの効いた声は、確かに聞き覚えがあった。ゆっくりと湊の瞼が開く。白い天井と周りを覆うカーテン。自分を覗き込む人影が徐々にはっきりしてくる。 「目を覚ましてくれたんだな」  ボロボロと大粒の涙を流していたのは石動だった。湊の右手がしっかりと、その大きな手のひらに握られている。 「バカやろう。心配させやがって……」  その続きは声になっていなかった。こみあげてくる感情を、精一杯こらえているように見える。湊は自分の手の感触を確かめるように、ゆっくりと石動の手を握った。すぐに力強く握り返してくる。すっかり馴染んだぬくもりと湿り気。まさか、ずっと僕のことを?  医者や看護師たちが呼ばれ、隅々まで調べられる。君の名前は? と聞かれて、湊は「ク……春原湊です」と答えた。  医者たちが去ってしまうと、石動も電話をかけてくるからと言って去ってしまった。途端に右手が寂しくなる。まだ、呆然としている湊に、いつからいたのか、彼の母親が話しかけてきた。 「社長さんはずっとあなたのそばにいたのよ」  話によると、飛び降りた湊を地上にいた石動が体を張って受け止めたらしい。おかげで湊は複数箇所の打撲と、腕の骨折だけで済んだ。もちろん、石動も手の甲や肋骨にひびが入るなど、代償を負ってしまったが。 「ずいぶんとあなたのことを思ってくれるのね。仲が良かったの?」  母親の言葉に湊は首を横に振る。ピキッと体に痛みが走って顔をしかめた。母親が呆れながら首元に手を伸ばす。  石動とはいつも憎まれ口を叩く間柄だった。少なくとも仲が良かったという記憶はない。けれども、湊の脳裏には石動の心配そうな顔が蘇っていた。トイレで白衣を洗っていた時や飛び降りようとした時……。こんな顔をするんだって思うくらい必死だった。  その時、病室のドアが勢いよく開いて、石動が戻ってきた。片手にはビニール袋を下げている。 「おい、サンドイッチを買ってきたんだ。食べるか?」 「社長さん、お医者さんから水以外は口にさせないでくれって言われてるんです」  母親に宥められて、石動はポリポリと頭をかいた。 「それじゃ、私はお医者さんと話してきますね」  そう言って、母親は出て行ってしまった。湊は石動と二人っきりになる。 「あの……僕を助けてくれてありがとうございます」 「当然だろ。俺の可愛い部下なんだから」  石動はジロリと湊を睨みつける。 「でも、社長にケガをさせてしまいました」 「こんなケガ、何でもないさ。伊達に柔道をやっていたんじゃねぇからな」  石動は握りこぶしを作って見せる。それでも、まだ体が痛むのか顔をしかめた。 「どうして僕を助けてくださったのですか? 部下なんてたくさんいるでしょう」  感謝の気持ちとは裏腹に、湊はいつもの癖で可愛げがないことを口走る。すぐに石動の顔が息がかかるくらい近づいた。鼻腔をくすぐる酒とタバコとバニラの匂い。思い詰めたような顔をしている。 「それは……大切な仲間を失いたくないからだ」  仲間? 湊が呆気に取られていると、ゆっくり唇が重ねられた。豪快な見た目に反して柔らかい唇。最初は遠慮がちに、やがて貪るように湊の唇を食んだ。初めてなのに懐かしい感触。それは夢の中の大切な人を思い出させた。  唇が離れる。石動は気まずそうに背を向けてしまった。 「俺は最初から気づいていたんだ。おまえが俺の仲間だって。でも、勇気が出なかった。弱虫だったんだよ。社長の座を失いたくないって。いや、社長なんてどうでもいい。ただ、すべてを壊してしまうのが怖かったんだ」  湊は石動の気持ちが痛いほど分かっていた。こんな田舎で、しかも二代目として会社を継いだ石動が本当の自分を露わにすれば、失うものは大きいだろう。  石動は再び湊と向き直って、右手をしっかりと握る。 「おまえが飛び降りたくなるほど追い詰められた時、俺はひどく後悔した。こんなにそばにいたのに、何一つ気づいてやれなかったって。だから俺、助けたのさ」  湊の目から涙がこぼれる。何一つ気づいてなかったのは自分の方だ。こんなに思ってくれる人がそばにいたのに。本当に見る目が無いな、と唇が震えてしまう。 「社長、ごめんなさい。僕のせいで……」  きっと石動が失ったものは大きかっただろう。湊はこんな自分で本当に釣り合いが取れるのか、まったく自信が無かった。 「大丈夫さ。親父は渋々ながらも認めてくれたし、社員たちには文句を言わせねぇぜ」  そう言って、石動は豪快に笑う。つられて湊も笑ってしまった。 「おっ、やっと笑ってくれたな」  石動が再び唇を重ねてくる。席を外している間に吸ってきたのか、タバコの味がした。 「吸いたくなったか? でも、医者が良いというまで我慢しろよ」 「いいえ。もう吸う必要は無いんです」  タバコは伊堂寺の気を引きたくて吸っていただけだった。こんな近くに仲間が見つかった今、咳込んでまで吸いたいとは思わなかった。 「伊堂寺のこと……気になるか?」  気にならないと言えば嘘になる。けれども、石動に悪いような気がして、湊は言葉を詰まらせた。そんな湊の手を、石動は静かに取った。 「……もう、おまえを手に入れたんだ。だから……」  一瞬、言葉が途切れる。 「今さら、逃がす気は無ぇよ」  その声は低く、どこまでもまっすぐだった。湊は石動の手をしっかりと握り直す。安心したのか、石動はぽつりぽつりと話し始めた。 「伊堂寺は課長から降格したよ。そうしたら、すぐに辞めちまった」  湊は内心、申し訳なく思った。自分のせいでこんな目に遭うなんて。 「澄川も辞めちまったのは痛かったけどな」  思いがけない続きに、湊はハッとして石動を見る。心底残念がっているように見えた。 「あいつら、できていたんだ。澄川のお腹には伊堂寺の子どもがいるらしい。盲点だったな。まさか二人が繋がっていたなんて」  やはり課長は根っからの女好きだったんだ。そんな男を好きでいた自分に、湊は苦笑が漏れてしまう。 「なんだ、笑うのかよ。てっきり泣いたり、がっかりしたりすると思ったのに」 「もういいんです。今は社長がいてくれますから」 「可愛いこと、言ってくれるじゃねぇか」  何度目かの口づけ。そのたびに湊は身も心も解けてゆくのを感じた。これからは石動について行こう。あの人の分まで。 「退院したら、俺の下で働いてほしい。もう席は空けてあるんだ」  研究員でなくなるのは残念だったが、湊の心は決まっていた。これからは社長がやりたいことを実現するのが自分の仕事だ。湊は自分の瞳に石動を映して 「よろしくお願いします。社長」 と誓った。途端に石動は不満げな顔をする。 「その“社長”って呼ぶの止めろよ」 「でも、何て呼べば……」 「そうだな。これからは名前で呼んでくれ」 「じゃあ……直哉さん?」  返事の代わりにまた口づけられる。その時、病室のドアが開いた。慌てて、石動が体を離す。母親が入ってくると 「明日もまた来るからな。変な気、起こすんじゃねぇぞ」 と言い残して帰ってしまった。後に残された湊を見て、母親がクスクスと笑う。 「湊は本当に可愛がられているのね」  湊は動揺を露わにする。彼は気づいていなかった。何度も口づけされて、唇がてらてらと光っていたことを。

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