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第26話 僕の護るべき星15

 いつものように、僕の父がディナーベルを鳴らす音が聞こえてきた。 「もうすぐ夕飯のお時間ですよ、聡様。普段着にお着替えをいたしましょう」 「うん。わかっているよ、巧」  まずは学習院の正服の上着を脱がせ、それから薄手の木綿のシャツを着せる。聡様が椅子に腰掛け、足をすっと差し出されるのを、僕は前に屈み込んでまずは靴を脱がせた。次に分厚い学習院のズボンを脱がせて、初夏用の軽い半ズボンを広げて足を急がせ、胴回りのボタンを留めて衣服を調える。  重い冬用のズボンを脱いだ瞬間、聡様の足元に初夏の涼しい風が通り抜けていく。 「ああ、涼しい……」 「それなら、僕が聡様の部屋へ上がった時にすぐ、おっしゃればよかったのに」 「そうなんだけどね。巧の顔を見て、全部終わったんだなって思ったら、なんだかホッとしちゃって」  聡様は照れくさそうに頭をかいたが、次の瞬間俯き加減になる。 「兄様、怒ってないかな。僕、兄様のお体の事勝手に使っちゃって…――」 「怒るわけがありません。広樹様は優しいお方ですし、何より綾子様のあの窮地を知れば、自分の名前が役に立ったことをむしろ喜んでくださるはずです」  僕はしゃがんだ姿勢のまま顔を上げ、聡様の不安に揺れる瞳を見つめてそう言った。 「それに、今回のことで高瀬さんは兄様の体調に一層気を配るようになります。巡り巡って、それは広樹様を守る盾にもなるのです。聡様がご自分を責める必要なんて、どこにもありません」  聡様は僕の言葉を噛みしめるように小さく頷くと、ふっと視線を和らげて僕の肩に手を置いた。 「……そうだね。巧にそう言ってもらえると、本当に救われる。僕の選んだ道は、誰も傷つけずに、みんなを守るためのものだったんだって、そう信じられるよ」 「はい。ですから、どうかお顔をお上げください。これから旦那様とのお食事の席です。『よくできた息子』として、いつも通り堂々と、穏やかに微笑んでいらしてください」  僕は立ち上がり、仕上げに聡様のシャツの襟元を優しく整えた。指先がほんの一瞬、聡様の鎖骨のあたりに触れ、お互いの呼吸がわずかに重なる。肌を抜ける初夏の夕風が、二人の間の甘く張り詰めた空気を静かに流していった。  チリン、と再び階下からディナーベルの澄んだ音が響く。現実の時間が、僕たちを迎えにきたのだ。 「さあ、行きましょう。聡様」 「うん。行こう、巧」  聡様はいつもの気品ある微笑みを完璧にその顔に湛え、部屋の扉へと歩み出した。その背中は、もう二度とあの泣き虫だった少年には戻らないという、静かな覚悟に満ちていた。 「聡!」  綾子様が聡様を見つけると、喜色満面の笑みで迎えた。今回の件において、綾子様が聡様に抱く感謝の念は、いかに言葉を尽くしても足りないほど深いものなのだろう。聡様が気にしていた、広樹様はそんな綾子様を不思議に思いながらも、至って普段通りの様子だ。  旦那様に至っては、散々叔父と揉めただけありやや疲労の色がうかがえる。  今日の夕食は、初鰹のお造りに、(たけのこ)(ふき)の若竹煮、若鮎の塩焼き、 じゅんさいと独活(うど)の酢の物、すまし汁。それに鮮やかな緑色の豆が転がる「豆ご飯」だ。どれも初夏の匂いがする和の食卓だ。  僕の今日の役回りは聡様のレモネードをお出しすること。それと綾子様に葡萄ジュースをお出しすること。旦那様は日本酒を召し上がるが、それは他の女中が担当になっている。病気がちな広樹様には湯気の立つ温かい麦湯を気心の知れた山口さんがいれている。 「聡、本当にありがとう。今日の芝居は、一生忘れられないほど素晴らしいものでしたわ」  綾子様は旦那様の目を盗むようにして、声を潜めながらも、弾んだ声で聡様に語りかけた。その瞳には、窮地を救われた安堵と、恋を隠し通せたことへの歓びが、まるで初夏の陽光のようにきらめいている。 「喜んでいただけて何よりです、姉様。僕も、姉様とご一緒できて本当に楽しかったですよ」  聡様はいつもの「心優しい弟」の顔で、おっとりと微笑み返した。  その完璧な使い分けを、僕は給仕の位置から静かに見つめていた。トレイの上に乗せたガラス杯の中で、レモネードの黄色い液体が、窓から差し込む夕暮れの残光を浴びてきらきらと揺れている。 「なんだ、綾子。今日新富座へ行ったのだろう。雪之丞の芝居がそんなに良かったのか」  日本酒の杯を傾けていた旦那様が、幾分か疲れた声をあげた。叔父様との大喧嘩の余韻がまだ残っているのだろう、眉間には深い皺が刻まれたままだが、聡様と綾子様の和やかな様子を見て、いくらか毒気が抜けたようでもある。 「ええ、お父様。それはもう、言葉にできないほどでございました。ねえ、聡?」 「はい。客席の熱気も凄まじくて、圧倒されてしまいました」  聡様はそう言って、僕の方へすっと視線を向けられた。  僕は恭しく一歩前へ進み出ると、聡様の手元へ、冷たいレモネードの杯をそっと置いた。微かに触れた指先から、聡様がまだ内側に秘めている、あの「戦い」の興奮の残火のような熱が伝わってくる。 「巧、ありがとう」 「恐れ入ります、聡様」  続いて綾子様の前へ、深い紫色の葡萄ジュースを静かに差し出す。綾子様は僕にも、万感の思いがこもった視線を一瞬だけ寄せてくださった。  その傍らでは、山口さんが広樹様の湯呑みに、丁寧に温かい麦湯を注いでいる。広樹様はその温もりを両手で包み込みながら、不思議そうに首を傾げた。 「ふうん……。そんなに素晴らしいお芝居だったのかい。僕も体が良くなったら、一度観に行ってみたいものだな。聡がそこまで言うなんて、珍しいじゃないか」 「ええ、兄様。その時はぜひ、僕がご案内します。兄様には早くお元気になってもらって、浅山家のご令嬢とも、お出かけしていただかなくてはなりませんからね」  聡様は何の邪気もない、兄を心から慕う弟の顔でそう言った。  その言葉の裏にある「兄の縁談を守り抜いた」という冷徹な計算と自負を、この食卓で知る者は、聡様本人と、僕、そして山口さんしかいない。 「おいおい、気が早いな。まだ彼女とはそういう仲じゃないぞ」 と、広樹様。だが、顔はまんざらでもないご様子だ。 (聡様だけじゃなく、僕も応援してます!)  初鰹のみずみずしい赤や、豆ご飯の鮮やかな緑が並ぶ、一見すればどこまでも平穏で美しい一条家の食卓。  箸が器に当たる軽やかな音や、父様がすするお酒の匂いに包まれながら、僕たちの「裏の絆」は、誰にも気づかれないまま、このお屋敷の奥深くへと静かに根を張っていくのだった。

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