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第25話 僕の護るべき星14

 僕が客間を出ると、憤怒の形相で立ち尽くす高瀬さんが居た。 「聡様!広樹様はお元気です!私めに「持病の容態が急変した」などと!」 「高瀬さん。もう戻られたのですか」  僕は足を止め、憤怒に震える高瀬さんを、少しも動じることなく見つめ返した。その鋭い眼光は僕を射抜こうとしていたけれど、今の僕には、お父様の全幅の信頼という最大の盾がある。 「それは、何よりでした。兄様がお元気なら、それに越したことはありません」 「白々しいことを!私は聡様から直々に広樹様の使いが来たと聞いたからこそ、劇場の警護を離れてここまで戻ったのです。私を新富座から遠ざけるための、見え透いた嘘だったのですね!」  高瀬さんは一歩詰め寄り、低く地を這うような声で僕を糾弾した。一条家の懐刀として、自分がまんまと15歳の少年に担がれたことが、よほど屈辱だったのだろう。  しかし、僕はふっと憐れむような笑みを浮かべ、声を一段と落とした。 「嘘?人聞きが悪いな、高瀬さん。僕はただ、兄様の使いだと名乗る者が僕の元へ飛び込んできたから、それをそのままあなたに伝えただけですよ。この騒々しい一条家だ、誰かが兄様の縁談を妬んで、狂言の嫌がらせを仕掛けたのかもしれない。  ……それとも、あなたが新富座の楽屋裏で、叔父様が大騒ぎを起こすのを『手助け』するために、あえてそこに残りたかったとでも言うのですか?」 「なっ……!何を仰いますか!」  高瀬さんの顔が、今度は驚愕と焦燥で強張った。 「叔父様は今、お父様の逆鱗に触れて、このお屋敷から完全に放逐されました。劇場の人間を巻き込んで、姉様と一条家の名誉を著しく傷つける狂言を起こしたからです。  ……高瀬さん。もしあの時、あなたが僕の言葉を無視して新富座に残り、叔父様のあの醜悪な乱行を止めもせず、あるいは一緒になって大騒ぎを助長させていたら、どうなっていたと思いますか?」  僕は高瀬さんのすぐ目の前まで歩み寄り、冷徹な計算が渦巻く瞳で彼を見上げた。 「お父様は、あなたをも叔父様の共犯と見なし、今頃一緒に放逐していたでしょう。僕は、我が家の忠臣であるあなたを、叔父様の巻き添えから『護ってあげた』のです。兄様の使いの真偽はどうあれ、あなたが本邸に戻っていたおかげで、あなたの潔白は証明された。違いますか?」 「それは……」  高瀬さんは言葉を詰まらせ、額に大粒の汗をにじませた。  僕の言葉が、明らかな詭弁であり、すべてを仕組んだ罠であることには気づいているはずだ。けれど、結果として僕の「嘘の伝言」が、高瀬さんを叔父様の自爆から遠ざけ、彼の立場を救ったという事実だけは覆せない。 「お父様は今、大変心を痛めておいでです。これ以上、あなたが僕に難癖をつけてお屋敷を騒がせれば、お父様の耳にどう届くか……、聡明なあなたなら分かりますよね」  僕はそう言って、高瀬さんの肩をポンと優しく叩いた。それは主人の息子としての、明確な警告であり、脅迫だった。  高瀬さんは悔しさに歯噛みしながらも、やがてゆっくりと頭を下げた。 「……失礼いたしました、聡様。私の……心得違いでございました」 「分かってくれればいいのです。これからも一条家のために、しっかり頼みます」  完璧な勝利の余韻に浸りながら、僕は高瀬さんをその場に残し、和館へと続く廊下を歩き出した。  胸の奥で、早くあの人に会いたいという衝動が激しく脈打っている。  お屋敷の奥で、僕の帰りを静かに待っている完璧な僕の執事。巧、今すぐお前のところへ行く。 (僕は、自分が思うより自分の大切な者の為なら、大胆になれるんだな…) ****************************** 「綾子様、大丈夫ですか」 「ええ…でも本当に聡一人に任せていいのかしら…あの子、すぐ泣き出してしまう子よ?」  綾子様はまだ小刻みに震えていた。確かに、聡様は泣き虫だ。自分の父親である旦那様に対しても怯えている節がある。  ――けれど。  それはまだ護るものがなく、自分の強さ、聡明さに気づかなかった聡様。今は違う。  今の聡様には、ご自身の身を賭してでも護りたいものがある。そしてそのために、一条家の血がもたらした冷徹な牙を剥くことを恐れない、本物の怪物へと変貌を遂げているのだ。その引き金を引いたのが、他でもない僕の不遜な告白だとしたら――。 「大丈夫です、綾子様。今の聡様は、僕たちが知っている昔の聡様ではございません。どうぞ安心してお休みください」  僕は努めて穏やかに、けれど確信を込めて綾子様に微笑みかけた。山口さんもその言葉に深く頷き、「お嬢様、巧の言う通りです。俺たちの想像以上に、聡様は腹が据わっていらっしゃる」と、優しく言葉を添える。  綾子様はようやく深く息を吐き出し、女中たちに支えられながら布団の中へと身を沈めた。極限の緊張から解放されたのか、その表情には瞬く間に深い疲労と安堵が広がっていく。 「山口さん、綾子様をお願いします。僕は……聡様のお部屋へ」 「ああ、分かっている。お前も気をつけてな、巧」  山口さんと短く視線を交わし、僕は和館の静まり返った廊下へと出た。  母屋の方からは、もう激しい怒鳴り声は聞こえてこない。ただならぬ静寂が、聡様が完璧に叔父を排斥し、高瀬さんをねじ伏せたことを物語っていた。  胸の鼓動が、一歩足を進めるごとに高鳴っていく。  暗い廊下を渡り、聡様の部屋の前に辿り着く。息を整え、襖を小さく叩いた。 「聡様、巧にございます。お戻りになられましたでしょうか」 「……待っていたよ、巧。入っておくれ」  襖の向こうから聞こえたのは、いつもの、けれどどこか熱を帯びた聡様の声だった。  僕が静かに襖を開けて部屋に入ると、そこには行灯の仄暗い光の中に佇む、一条家の若き支配者の姿があった。  学習院の正服を着た紛れもない聡様だ。夕方の5時半。夕暮れの明かりが窓から入り、聡様の部屋を朱色に染めていく。 「巧、扉を閉めて」  聡様は窓外の夕焼けを見つめたまま、静かに命じられた。言われた通りに襖を静かに滑らせると、部屋の中は朱色と、引き延ばされた長い影だけで満たされた。 「叔父様はもう二度と、この本邸の敷地を跨ぐことはないよ。高瀬さんも、自分の立場を守るために僕の嘘に従うしかない。……すべて、思った通りに片付いた」  聡様がゆっくりとこちらを振り返る。学習院の詰襟の金ボタンが、沈みゆく夕日に照らされて鈍く光っていた。その顔には、先ほどまで大人たちを翻弄していた冷徹な微笑みはなく、どこか酷く疲れ果てたような、ひび割れそうな脆さが同居している。 「怖かったよ」  ぽつりと、聡様が呟いた。その言葉に、僕は胸を突かれる。 「お父様の前で叔父様を追い詰めているときも、高瀬さんに言い放っているときも、もし一歩間違えれば、僕だけでなく巧まで泥の中に引きずり落としてしまうかもしれないと……そう思ったら、指先が震えそうだった」  聡様は僕の前に歩み寄ると、躊躇うように手を伸ばし、僕の小指の先だけをそっと引っ掛けるようにして握った。かすかに震えるその指の冷たさに、僕は先ほどまでの「怪物」の仮面の裏にある、15歳の少年の素顔を、ふと垣間見た気がした。  綾子様が言っていた通り、聡様は本来、争いを好まない優しい人なのだ。ただ、僕を、自分のたった一人の執事を守るというその一念だけで、今日という命懸けの舞台を演じきってみせた。 「聡様……」  僕は握られた小指にほんの少しだけ力を込め、まっすぐにその瞳を見つめ返した。 「よくぞご無事で、完璧に成し遂げてくださいました。お側でそのお姿を拝見し、僕は誇らしく、そして……これ以上なく救われる思いでございました。もう何も恐れることはございません。僕はどこへも行きません。ずっと、聡様の隣に居ます」  僕の言葉を聞いた聡様は、張り詰めていた糸が切れたように、ふっと幼い笑みをこぼした。 「うん。巧がそう言ってくれるだけで、僕のしたことは全て正しかったと思えるよ」  繋いだ小指を解かないまま、聡様は窓の外、燃えるような朱色から深い紫へと移り変わっていく空を見つめた。触れ合っているのはわずかな皮膚だけだったけれど、そこから伝わる確かな体温が、僕たちの間にある決して壊れない誓いを証明していた。  薄暗くなっていく部屋の中で、僕たちは言葉を無くしたまま、ただ静かに、訪れる夜の気配を共有していた。

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