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第28話 甘いもの、苦いもの、唯一自分で選べるもの#2

 週末、華の金曜日。久しぶりに実家の食卓に座ると、理月は無意識に背筋を正していた。実家に戻るといつも気が張ってしまう。実家は理月にとって寛げる場所ではなく、試験会場のような場所だった。理月にとって心が安らぐ場所は、昴と暮らす今の家だ。  百帖近いリビングは高い天井にシャンデリアが灯り、磨き上げられた大理石の床に光が柔らかく反射している。長く伸びる重厚なダイニングテーブルの上には前菜として季節の肴が整然と並び、燭台の炎が器の縁を照らしていた。  ちょうど駐在の打診があった四日前、父である唯月から『たまには家で食事でもどうだ』と直々に電話があった。断る理由も無く、断れる筈もなく、暫くぶりに家の敷居を跨いだという今時分だ。どうせすぐに新年会で顔を合わせる機会があるのに、どんな要件なのだろうかと内心不安がちらついている。  執事の山岡が淡々と料理を置き、音もなく下がっていく。広間のダイニングに残るのは理月と唯月、そして器に触れる箸の音だけだった。 「海外の案件は、どうだ」  酒盃を揺らしながら唯月に問いかけられ、安堵した。仕事の話だけであれば有難い。 「米国西海岸の開発は、クロージング前の条件を予定通り固められました。地元議員の理解も得られ、隣接区画の交渉もスムーズでした。取得コストの上振れリスクは残っていますが、代替シナリオも用意済みです。大きな障害はありません」  この話には触れられるだろうと思っていたから、用意していた言葉通りに報告する。唯月は険しく見える顔で短く頷いた。不機嫌という訳ではないのだろうが、唯月はいつも眉間に皴を寄せたような険しい表情をしているから、幼い頃から対面すると固くなってしまう。 「役員会は納得しているのか?」 「IRRと回収期間を二つのシナリオで提示しました。他の財務指標も補完しており、委員会を説得できる見通しです」  唯月は盃を卓に置き、しばし黙した後「そうか」とだけ言うと、また押し黙ってしまった。多くは喋らない寡黙な父だ。この沈黙がどうも気まずく、皿が空いてちょうどのタイミングで山岡が運んでくる食事にただ箸を進めていく。そう酒に強い方ではないけれど、食事に合わせた白ワインが水のように感じた。 「……おまえに駐在の話が出ると聞いたが」 「はい。先日打診を受けました。ありがたく拝命するつもりです」  先に沈黙を破ったのは唯月の方だった。ありがたく拝命する決意なんかできていないし、昴にもまだ話せていないのに、口だけは達者なものだなと内心自嘲する。 「……理月。仕事の席では無いんだから、そう固くならなくて良い」 「申し訳ありません。父さんと仕事の話をすると、つい畏まってしまって……」  仕事の話以外でも緊張するが――というか、仕事以外の話の方が何を言われるか分からなくてそわそわしてしまう。 「私も、おまえぐらいの年の頃は無理にでも海外に行かされたものだ。行きたくなかろうが、立場上断れるはずもなかった。駐在は苦労したものだが、当時に積んだ経験は今も活きている」  ぽつぽつと言葉を続けられ、少し驚いた。父の口ぶりが、本当は行きたくないと思っていたように聞こえたから。 「……おまえは、昔から食が細いな。しっかり食べて、体力をつけなさい。身体を壊したら仕事どころではないだろう。体調管理も仕事のうちだ」 「はい。ありがとうございます、いただきます」  しっかり食べるように促され、目を白黒させながら黙々と料理を口に運んでいく。唯月がまた押し黙ってしまったから、今度は理月から「海外駐在の際、父さんが苦心されたのはどのような点でしたか?」と聞いてみる。 「価値観も働き方も違う現地スタッフを束ねることと、日本の本社とのやり取りだな。当時はFAXや国際電話が頼りで、報連相すら事だった」 「お話だけでも大変だろうと分かります。今とは全く違う環境で成果を上げられた父さんを、改めて尊敬します」 「昔に比べて、今は格段に便利になったな。生き方にしても、選択肢が増えただろう。私が若い頃には、選択の余地など無かった。昔は良かった、なんて話もよく聞くものだが……私は、今の時代の方が好きだ」  怒っていなくとも険のある唯月の表情が少し柔らかくなり、ぱちぱちと目を瞬いた。 「私が表舞台に立てる時間はもう、そう長くはない。だが、おまえは今これからの社会を動かす側に立つ人間だ。駐在先でも必ず成果を挙げられることだろう。期待している」  唯月からこんな言葉を掛けられたのは、初めてだった。嬉しさよりも先に驚きがきたけれど、じわじわと喜びが追い付いてくる。 「っ……はい、必ず成果を挙げられるよう尽力いたします。ありがとうございます」  高揚感で、声が少し震えて上擦った。何でもない日に理月を呼んだ父の真意を捉えようと、身構えて穿ちすぎていたかもしれない。時折沈黙することはあったけれど、その後もぽつぽつと歓談し、屋敷を後にしてハイヤーの革の座面に凭れる。結局いつも通り仕事の話ばかりになってしまったけれど――父が自分を認めてくれたように感じて、嬉しかった。  父の言葉を噛み締めているうちに、慣れ親しんだ我が家の玄関に辿り着く。鍵を回してドアを開けると、オレンジ色がかった柔らかな灯りに出迎えられた。  玄関を抜けた廊下の突き当たりのガラス戸越しに、リビングの白い灯りが目に映る。短い廊下を歩く最中、がらりとガラスの引き戸が開いた。

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