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第29話 甘いもの、苦いもの、唯一自分で選べるもの#3
「りっちゃん、おかえり」
「うん、ただいま」
温かみのある白い灯りを背にした昴の笑顔が目に映る。へにゃっと笑った笑顔が愛しくて、釣られて笑った。
「行く前は気が重たそうだったけど、なんだか嬉しそうだね? 良いことあった?」
「ああ。父に『期待してる』って言って貰えたんだ。もっと頑張ろうって思えた」
「ええ~? 既に常人の百倍は頑張ってるんだから、あんまり無理しちゃダメだよ。お酒飲んできたでしょ? ほら、お水持ってくから座って」
片眉を上げて顔を顰めながらそう言われて苦笑する。ありがとう、と口にして、素直にソファに腰掛けた。氷をたっぷり入れてシンクの浄水器で溢れんばかりに水を注いだコップを昴から手渡され、冷えた水をこくりと喉に流し込む。
「僕はさ、藤原の家のことはあまり好きじゃないけど……父の期待には応えたくて」
昴は隣に腰掛けて、ただ「うん」とだけ相槌を打つ。理月が話す言葉を待ってくれているようだった。
「小さい頃、父に構ってもらった記憶って、ほとんど無いんだ。代わりに側に居たのはお目付け役の山岡と、沢山の家庭教師だった。ああ、でもオーケストラのコンサートとかに付き合いで行くときはたまに連れて行ってくれて……ピアノのコンクールも一度だけ見に来てくれたな。緊張していつもより上手く弾けなかった」
理月はソファに視線を落とし、小さく続けた。父は多分、小さな子どもとの接し方が分からなかったんだろうなと今は思う。理月の記憶に残らないほどの頃に離婚して出て行ったらしい母とは愛があっての結婚というわけでもなかったようだから、おそらく跡継ぎを残す義務として子どもを作っただけだ。そりゃあ子どもに対して愛着が持てなくても仕方がないことだろう。
「りっちゃんは、お父さんのことが好きなんだね」
「好き、と言うか……尊敬してる。父も厳しく育てられて、色んな責任に打ち勝って、今の立場に居るんだなって。父が負ってる責任は、僕の比じゃない。父も多分、若い頃はきっと色々やりたいこととかあったんだろうけど、自分の運命を受け入れてトップに立ってるんだろうなって。今はちゃんと、理解出来る」
ちびちびと水を飲みながら言葉を続けた。からん、と氷が音を立てる。酒で浮かれた頭が少し冷えてきて、脳裏に過ぎるのは駐在の件だった。
まだ昴に言えていない。早く言った方が良いと分かっていたものの、舌が重たくて動かなかった。
三年の駐在は決定事項で、絶対だ。この話の流れで切り出してしまおうと思ったけれど、続ける前に昴が口を開いた。
「僕は正直、りっちゃんのお父さんにも家にも良い印象はない。だけど、お父さんの期待に応えたいっていうりっちゃんの気持ちは素敵だなって思う。りっちゃんは人一倍、責任感とか正義感とかがあるよね。そういうところも大好き。でも、一人で背負いこんじゃうところがあるから、僕に頼ったり甘えたりしてほしいなって思う。あんまり役には立たないかもしれないけど、傍に居るから」
「……僕は昴に頼りすぎだし、甘えすぎてるくらいだ。ありがとう」
さらりと髪を撫でながら笑い掛けられて、胸がぎゅっとする。傍に居てくれるだけで良い。そう思うのに、自ら離れようとしている。それで本当に良いのだろうかと自問する。言わないと、と決めたはずなのに。
「頼られたり甘えられてる感じ、全然しないけどなぁ。だから勝手に甘やかさせてもらいまーす。今夜も僕の子守歌生演奏リサイタル開いちゃう。何の曲が良い?」
「そうだな……じゃあ、きらきら星が良い」
「了解。それじゃ、シャワー浴びておいで。髪の毛も乾かしてあげちゃう」
「あははっ、至れり尽くせりだ」
明日こそ、ちゃんと言う。だから今夜は、嬉しい気持ちのまま眠らせて。心の中でそう言い訳して、昴の優しい言葉に甘えて小さく笑う。
温かいシャワーを浴びて、髪を乾かしてもらって、そっと優しく響く昴の演奏を聴きながら目を閉じた。
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