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第60話 あの日見た光は#3(完)

『本日最後の一曲は――月が恋しいから、Seleneにしちゃおっかな。それじゃあ、聴いてください』  駐在から六ヶ月が過ぎた十月初旬、二十時過ぎ。理月はタクシーの後部座席でイヤホンを付け、スマートフォンを横向けて動画を見ていた。三日前の生配信のアーカイブだ。タクシーの窓の外ではガラスの塔のようなマンハッタンのビル群がオレンジの光を散らしていて、手に持った小さな液晶画面の中では、昴が愛おしむようにピアノを弾いている。    ピアノの横に三脚を置いて撮っているからそうはっきりとは見えないけれど、白黒の鍵盤の上を左手が跳ねる度、あの日プレゼントした指輪が薬指でちかりと光って見える。ジャズの香りがする柔らかな音に耳を澄ませ、目を細めた。    今日は終日、区の許認可に関する詰めの会議をしてきたところ。左肩に手を当てて首を回してみるとゴキゴキ音が鳴り、耳に流れ込む美しい音色を妨げてしまい眉間に皴が寄る。  両手を組んでぐっと前に伸ばすと、左手の薬指に嵌めた指輪がパッと目に入った。 「……会いたいな」  ぽつりと日本語で呟き、指輪を指先でそっとなぞる。  跡継ぎとしてこれからも頑張ることを決めたのは理月自身だ。昴には昔から我慢ばかりさせているなと思い、次に会った時にはベッタベタに甘やかしてやろうと決める。昴を慮っているようでいて、昴を甘やかして可愛がりたいのもやっぱり理月自身だ。  でもまあ、もうすぐ会える。仕事が詰まっていたからなかなか来られなかったけれど、年末からは昴もこっちに住む予定だから。何をどうしたのか知らないが、マンハッタン周辺での仕事をたくさん入れたらしい。  タクシーが高層マンションのエントランス前で停まり、ダークグレーのコートのポケットにスマートフォンをしまい、ビジネスバッグを腕に掛けて降車した。風は冷たかったけれど、マンハッタンの夜特有の熱が路面に残っている。空を見上げてみると、ビルの上端にひょこっと丸い月が顔を覗かせていた。ほぼ満月に近い、満ちていく月だ。  オートロックを解除してマンションの中へと入り、カードキーを翳してエレベーターに乗り込んだ。ボタンを押さずとも勝手に最上階まで上がっていく。  駐在用の社宅ではピアノが弾けなさそうでどうしようかと悩んだけれど、ピアノのコンクールに出たいという話を父に零したら、父が自腹で防音室付きのペントハウスを用意してくれた。理月だって金は持っているが、ポンとペントハウスを用意してくれる父の財力には若干引いた。それに、ひとりで住む家だというのに、広すぎてちょっと寂しいし。    父とはまだぎくしゃくしているが、仕事以外の話も少しずつするようになって、駐在に来てからもたまに電話で話をしている。そういうわけで家にグランドピアノを置いているから、遅くなったけれどピアノに触る時間は確保しないとな、なんて考えながら玄関ドアを開けた。人感センサーが反応して淡い間接照明が灯る。    そこまではいつも通りだったが――玄関に置いたシューラックにライトブラウンの革靴が置いてあるのが目に留まり、理月は目を丸くした。 「――驚かせたいなら靴まで隠しておきなよ、って言ったのに」  ぽつりと呟き、ふっと目を細めた。昴はいっつも詰めが甘い。まあ、靴が置いてあるだけで普通に驚いたけれど。  土間はないから、シューラックのライトブラウンの革靴が置かれた隣に脱いだ靴をきちんと置いて、スリッパに履き替えて中へと歩き進めていく。防音室のドアを開けると、ぶわっ、と音が溢れてきた。先ほど聴いたばかりのノクターンM45《Selene》が鼓膜を震わせる。    ドアを開けても閉めても、鍵盤に意識を集中させている昴は理月に気付かない。遥か彼方の月がどうしても欲しいと渇望するラブソングだ。本物の理月は、もう今ここに帰ってきているわけだが。音を立てないようにそっとビジネスバッグを床に置き、腕組みしてドアに背を凭れた。  防音室の入口から見やる昴の横顔は多幸感に溢れていて、くっきりした二重の目を少し細めた笑顔で鍵盤を見つめている。    昴は一曲弾き終えて「ふう」と息を吐いたところでようやく理月の気配に気付いたらしく、ふっと理月に顔を向けた。 「あれ? りっちゃん、おかえり。いつの間に?」  とぼけた調子で笑う声が、懐かしい温度で胸をくすぐる。久しぶりに聴くその声は、画面越しのそれよりもずっと柔らかく、空気を震わせて真っすぐに届いてくる。   「……すーばーる。流石に言ってよ。来るのは年末って言ってただろ。どうやって入ったわけ?」  口調は努めて穏やかにしたけれど、ちょっとだけ泣いてしまいそうで、僅かに声が震えた。  昴は照れくさそうに肩を竦め、靴下を履いた足にスリッパを引っ掛けてピアノ椅子から立ち上がった。 「この間りっちゃんのお父さんと藤原家でごはん食べたんだけどさあ、その時に合鍵貰っちゃった」 「おい、いつの間に僕の父さんと仲良くなってるんだよ。僕より昴の方が父さんと仲良くなっちゃうじゃないか」 「ほら、りっちゃんのお父さんからすれば僕って義理の息子みたいなもんだし。自分のパートナーが自分の家族と仲が良いってめっちゃ良いことじゃない?」 「それはまあ、そうだけど」  言葉の端が照れで滲んでしまう。近づいてくる昴の足音が、広い防音室の床にやわらかく響いた。   「ね、すっごーく会いたくて、恋しくて仕方なかったよ。りっちゃんは?」  昴は真正面で立ち止まると腕を広げて、理月の背中に腕を回した。肩口に昴の顔が埋まり、ぎゅっと抱き締められる。 「……そんなの、僕も会いたくて、恋しくて仕方なかったに決まってる」  昴の背に腕を回し、ぎゅっと強く抱き締め返した。昴の髪が頬にふわふわ触れて擽ったい。   「ねえ、りっちゃん、一緒に弾かない? なんでもいいから」 「昴は帰ってくるたびいっつもそれだ……って、帰ってきたって言うのはおかしいか。今は同居じゃないもんね」  言いながらふとおかしいことに気づき、小首を傾げる。だけどそういえば、一人暮らしの頃に昴が遊びに来ていたときから、いつも昴はお邪魔しますじゃなくてただいまと言っていた気がするなと思い返した。   「おかしくないよ。この家に来たのは初めてだけど、なんていうか、りっちゃんが居るところが僕が帰るところだなあって思う」 「ああ、そっか。じゃあ、おかえりで良いんだ」  肩口に埋められていた昴の顔がふっと上がり、ぱちりと視線が交わった。どちらからともなく、そっと口唇を重ねる。 「……おかえり、昴。来てくれて、ありがとう」 「うん。ただいま、りっちゃん」  理月が口唇を離して『おかえり』と口にすれば、昴は目を細めて『ただいま』を返して頬を緩める。   「じゃあ、きらきら星弾こっか?」 「オッケー。今日は、最初から連弾にしよ」  抱き締め合った身体がそっと離れたかわり、昴に左手を差し出された。その手を取ってグランドピアノの傍に寄り、ピアノ椅子に詰めて二人並んで座る。    白黒の鍵盤の上に翳した四つの手の中、不揃いの指輪がふたつ。四つの手で、軽やかに美しい旋律を部屋の中いっぱいに響かせていく。たくさんの星が降り注ぐような音色に耳を澄ませて、眩しさに、愛おしさに、目を細めた。  あの日見た光は、今も遥か彼方で輝いて――けれど、昔も今も、これからもずっと、その光を降らせる星が、傍に居る。 fin.

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