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番外編①(8章〜終章の間) 月までの距離、約三十八万キロ#1

「うわぁー、あの頃のりっちゃんだぁ……」  詰襟の黒い学生服に身を包んだ理月に見惚れ、昴は小さく息を飲んだ。  つい先日あった藤原家新年会の際にいそいそと持ち帰らせていただいた、あの頃の懐かしい思い出が詰まっている制服だ。  やはり理月が着ると学ランというよりか、キャソックのように見えてしまう。いつもの昴の部屋のはずだが、あの日の音楽室がダブって見えた。 「ボタン全部留めるとちょっと窮屈かも。昴は……まあ分かってたけど、ひとつもボタンが留められてないね」 「高校卒業から十一年も経ってまだ制服ちゃんと着られる人、なかなか居ないと思うなあ。りっちゃん、全然変わってない。僕なんか卒業時点で既に窮屈だったし、流石にもう着られないや」  真正面から制服姿の理月を上から下まで眺め、昴は締まりなく頬を緩ませる。まるで高校時代にタイムスリップしたようだ。理月はあの頃から大人びた顔立ちをしていたから、本当にそう大差無く見える。    一方昴は、裾に腕は通せたものの肩も腕もパツパツで、ボタンはひとつも留められず前を開けている。スラックスのボタンはなんとか留められた。昴の高校卒業は九年前で理月よりも卒業からの年が経っていないはずなのだが、十一年と九年は誤差のようなものだろう。どちらにせよ高校生では通らない。    入学時に一六八センチだった身長は卒業頃までに十八センチ伸び、その間に制服は買い直したものの、よく伸びすぎたため在学時点で既にキツかった。それから身長は変わらないが、学生らしく細身だった頃より筋肉量が増えた今はもうボタンなど留められない。中に着用した白のワイシャツは普段着ているものだからジャストサイズだ。 「大きく育ったのは良いことだよ。腕が伸びて、手が大きくなって、力が付いて、演奏に凄みが増した。すっごくカッコいい。それに、昴は大人っぽくなったね。制服姿は懐かしいけど、もう高校生にはとても見えないな」  理月は昴の左手を掴んで少し持ち上げ、はにかんだ微笑みを昴に向ける。昴の手を掴んだ理月の右手は、昴より少し小さい。  理月は決して小柄なわけではなく、身長一七九センチあり、日本人男性の中では寧ろ高身長とされる方だ。とは分かっているが、昴と比較すればなんだって一回り小さいし、昴からすれば理月は触れたら壊れそうなほど華奢で可憐な麗しの君に見えている。実際は案外タフで普通に強いけれど、それはそれ。  ささくれ一つもない滑らかな理月の手でそっと手の甲を撫でられて、鼓動がドクドク高鳴る心地がする。    大事に大事に、十二年もの間初恋を抱えてきた。つい先日童貞を卒業して以来、この十二年分を取り返すように何度も身体を重ねてエッチなことをしてきたけれど、それでもたったこれだけで胸が跳ねる。   「僕自身、高校生を名乗るには無理があると思うけど……りっちゃんからカッコよくなったとか、大人っぽくなったって言ってもらえるの、すっごく嬉しいな。諦めないでよかったー」 「昴は最初からカッコいいよ。チワワみたいだった頃からずっとね。カッコいいチワワだった」 「チワワってカッコいいかなぁ? りっちゃんの言うカッコいいってなんかズレてない?」 「凛々しいチワワだって居るだろ。昴の手、本当に大きくなったよね。骨張って長くなったけど、無邪気で楽しい音色は変わらない。繊細で優しい音も綺麗だし、強くて重たい音も迫力があって好き。そんな音を作れる昴の手が、すごく好き」  理月はそう言いながら昴の手を引き、自分の頬にぴとりと当てた。  そのまま愛おしげに、労るようにすりっと頬擦りされ、ぽかぽかと手が温まる。  昴は掴まれた手をくるっとひっくり返し、手のひらを理月の頬に添えた。もう片方の手も頬に添えて両手で包む。 「確かに、りっちゃんって僕の手が好きだよね。僕が高校生の頃に料理して指切っちゃった時とか、僕以上にめちゃくちゃ心配してたの覚えてるよ。すっごく大事にされてるなって思う。ちょっと拗ねたけど」 「手は昴にとって一番大事な仕事道具だろ。拗ねてたの?」  理月の頬をむにむにと指で揉み、昴は少し口唇を尖らせた。理月は目を細めてくすっと笑う。 「りっちゃんが好きなのって、僕の演奏だけなのかなーって思っちゃったから。ピアノ弾けなくなったらりっちゃんに見捨てられちゃうかもとか思って、結構長いこと、料理するの怖かった。りっちゃん抜きにしても、ピアノが弾けなくなったら、って仮定そのものが怖かったんだけどね」 「昴が手に大怪我でもしたらと思うとゾッとする。心底気をつけてるの知ってるから、今は料理するくらいじゃそう心配しないけどね。それに、もし大怪我したとして、どんな手を使ってでも治すから不安がらなくていい」  昴の気を安らげてくれる笑みを湛えて、理月は「それから」と続けた。 「もし昴がピアノを弾けなくなったら、なんて考えたくもないけど……昴がピアノを弾けなくなったからって、価値がなくなるなんてことは絶対にない。僕は昴のピアノの音色に表れてる、昴の心が好きなんだ。万一ピアノを失っても、天地がひっくり返っても、きっと、昴の心の本質は変わらないよ。まっすぐで、綺麗で、楽しくて、優しすぎるくらい優しくて……僕はそんな昴そのものに恋して、愛してる」  理月の表情も声音も蕩けるように甘かった。けれど、大真面目に言ってくれているらしいということもよく分かる。大きな愛が骨身に沁みて、口唇がふにゃふにゃ緩んで口角が上がった。 「僕は、そうやって真剣に考えて、まっすぐ返してくれるりっちゃんが大好き。もしピアノ弾けなくなったら、想像も付かないくらいに辛いと思う。りっちゃんも、ものすごく悲しむだろうなあ。だからさ、そうならないように、一生涯ピアノが弾けるように頑張るね。おじいちゃんになっても、りっちゃんの隣でピアノが弾きたい」 「僕だって死ぬまで昴のピアノを聴いてたいけど、制服着ながら老後の話?」 「高校から墓場まで、一生傍に居るって誓いだよ。月の裏側だろうと、銀河の果てだろうと、どこまでだって付いていく」  頬からそっと手を離し、代わりに理月の左手を取って口元に引き寄せた。左手の甲にちゅっと口づけて笑みを浮かべると、理月の目と口唇が三日月のように綺麗な弧を描く。右手が頬に伸びてきて、愛おしげに頬をすりっと撫でられた。 「お互い、仕事で物理的な距離が離れたりすることは多々あると思うけど……それこそ、僕は駐在になっちゃうし。だけど、気持ちは一生傍に居るよ」 「ええーっ、気持ちだけじゃヤダ。今までどうにか我慢してきたけど、 物理的にも傍に居たいもん。手を伸ばしたらすぐ届く距離に居たいし、居てほしい。だから、速攻でアメリカまで追い掛けるからね」 「そうだね、追い掛けてきて。夜空の星みたく、手が届かないくらい遠くで見守りたい、って思ってたのに、手を伸ばしてみたら欲張りになっちゃったみたいだ。僕も、いつだって昴の傍に居たいよ」 「ああ、星とか月とか、遠くから見た方が綺麗だもんね。月は近づいたらボコボコだし、星はガスの塊だからそもそも近づけないし。でも、僕たちは人間ですから。遠く離れたら見えなくなっちゃうでしょ? それに、りっちゃんは遠目で見たって綺麗だけど、近くから見た方が綺麗だなあって思う。りっちゃんが人間の月で、僕が人間の昴に生まれて良かったあー」  頬に触れる右手に左手を重ね、しみじみとそう口にする。  月の表面はクレーターでボコボコだ。星の昴なんてもっとひどい。地面があるわけでもなくガスが燃えている光の球であり、ひとつひとつが太陽より大きいから一億数千万キロは距離を取らないと生身の人間には耐えられない。  どうもツボに入ったらしく、理月は喉を鳴らして可笑しそうに笑った。

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