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第1章 朝は重めカレシと、秘密の黒塗り

グラシアス・タワー1203号室のキッチンに、甘い香りが広がっていた。 オレ——甘野杏(あまの・あん)は、エプロンをつけてトーストに杏ジャムを塗りながら、ふと微笑んだ。 ふあふあベーカリーで学んだ焼き加減を、自宅でも再現するのが、最近の小さな楽しみだ。 こんがり焼けたパン。 じゅわっと溶けたバター。 そこに、甘酸っぱい杏ジャムを薄く伸ばす。 「よし、今日もいい感じ」 小さく頷いた、その瞬間。 後ろから熱い体躯がぴったりと密着してきた。 「ん……杏、朝から美味そうな匂いさせて。俺を誘ってるのか?」 大鷹彰(おおたか・あきら)の低く甘い声が、耳のすぐ後ろで響く。 大きな手がオレの腰を掴み、背中に胸板を押しつけてくる。 「わっ……彰」 「いい匂いだな」 「パンの匂いでしょ」 「違う。杏の匂い」 「朝から変なこと言わないでよ……」 オレはくすぐったそうに肩をすくめながらも、嬉しさを隠せなかった。 彰はいつもこうだ。 朝は特に重い。 寝起きの低い声で甘えてきて、当然みたいにオレを抱きしめてくる。 「彰、朝からくっつきすぎだよ……重いってば」 「重くていい。お前は俺のものなんだから、離したくない」 「またそれ」 「何度でも言う」 彰の唇がオレの首筋に触れ、熱いキスを落としてくる。 ちゅ、と軽い音がして、そこから少し強く吸われる。 ぞくりと背筋が震えた。 「ひゃっ……もう、ほんとエッチなんだから♡ 朝ごはんが冷めちゃうよ」 「冷めても構わねえ」 彰の腕が、さらに強く腰を抱く。 「今夜、俺がたっぷり温めてやるから」 「朝からそんなこと言う?」 「杏が可愛いのが悪い」 「それ、全部オレのせいにするやつじゃん」 「そうだ」 「堂々としてるなぁ……♡」 オレが呆れたように笑うと、彰は少しだけ目を細めた。 その顔が、やけに甘い。 普段は落ち着いた大人の男なのに、オレの前ではすぐ重くなる。 そこが、困るくらい好きだった。 オレはわざと振り返り、からかうように微笑んだ。 「へえ……どうやって温めてくれるの? 教えてよ、彰」 彰の目が一瞬で熱を帯びる。 「……お前が俺の名前を甘く呼ぶくらい、深く抱きしめてやる」 「ずるい言い方」 「何がだ」 「そういう声で言われると、朝からドキドキする」 「なら成功だ」 「何の成功?」 「杏を俺だけでいっぱいにする作戦」 「ほんと重い♡」 彰は低く笑って、オレの腰をさらに引き寄せた。 オレは胸がどきりと高鳴るのを感じながら、さらに煽ってみる。 「ふふっ、彰ってばまた独占欲全開? 今日もバイト先で男に話しかけられたら、どうしてくれるんだ?」 彰の目が少し鋭くなる。 「報告しろ」 「やっぱり」 「すぐ報告して、俺がお前に『俺のもの』だって思い知らせる」 「思い知らせるって……彰、興奮してる?」 オレが意地悪く腰を軽く押しつけると、彰の息がほんの少し乱れた。 「はぁ……? ふざけんなよ、べ、別に興奮してねえし……」 「え? でも、声がちょっと低くなったよ♡」 「うるせぇ」 彰の顔が少し赤くなるのが見えて、オレはたまらなく可愛いと思った。 大きくて、強くて、重いくせに。 こういうところだけ、不器用だ。 「彰、照れてる」 「照れてねえ」 「照れてるって」 「黙れ」 「やだ♡」 結局、彰は堪えきれなくなったように、オレをキッチンカウンターへ軽く押しつけた。 「あっ……♡」 「煽ったのはお前だろ」 「朝ごはん……」 「あとで食う」 「もー……」 文句を言いながらも、オレは彰の首に腕を回してしまう。 彰の唇が重なった。 深いキスだった。 舌が触れ合い、熱い吐息が混ざる。 朝の静かなキッチンに、小さな水音だけが響いた。 「んっ……♡ ふ、ぁ……♡」 彰のキスは、いつも少し強引だ。 でも、その強引さの奥に、オレを大事にしている熱がある。 だから抗えない。 長いキスのあと、ようやく唇が離れた時には、膝が少し震えていた。 「はあ……はあ……彰、朝から本気出しすぎ……」 「悪い。お前が可愛すぎるのが悪いんだ」 「またオレのせい」 「そうだ」 彰は照れ隠しみたいに、オレのエプロンの紐を直してくれた。 その手つきがやけに丁寧で、胸が甘く鳴る。 オレも彰のネクタイを整えながら、もう一度軽くキスを返した。 「行ってらっしゃい。今日も仕事、頑張ってね」 「……ただいまを、楽しみにしてる」 「うん。待ってる」 彰はイベント会社の人だ。 現場に出ることもあるし、VIP案件のアテンドや手配もするらしい。 たまに仕事の規模がやたら大きい気はするけれど、彰はいつも 「案件による」 と言う。 オレにはよく分からない。 でも、彰が仕事のできる人なのは分かる。 そして、帰ってくるとすぐ甘えた重いカレシになることも、もう知っている。 玄関で最後に抱きしめ合う。 彰の腕は、やっぱり離れがたそうだった。 「杏」 「ん?」 「今日も、ちゃんと帰ってこい」 「ここ、オレの家でもあるでしょ?」 「だから言ってる」 「はいはい、重いカレシ」 「今さらだろ」 オレは笑って、彰の胸を軽く叩いた。 「行ってらっしゃい」 「ああ」 ドアが閉まる。 その瞬間、さっきまで甘かった彰の表情が一瞬で冷徹なものに切り替わるのを、オレはまだ知らなかった。 オレは彰の後ろ姿を見送りながら、胸が熱くなるのを感じていた。 この関係が、いつまで続くのかは分からない。 でも、今はこの甘さに溺れていたい。 **** 裏路地のいつもの場所。 彰は軽装のまま、停まっていた黒塗りの車に滑り込んだ。 車内には、完璧に仕立てられた高級スーツが用意されている。 彰は無言で袖を通し、ネクタイを締めた。 運転席から、明るい声が飛んでくる。 「おはようございます、社長! 本日も愛の巣からのご出勤、お見事でございます!」 執事兼秘書の橘玄太(たちばな・げんた)だ。 「うるさい、玄太。声が大きい」 「失礼いたしました! しかし社長、首筋にまた可愛らしい痕が」 「見るな」 「杏様、本日もお元気で何よりでございます」 「黙れ」 「はい!」 彰はため息をつきながら、シートに深く腰掛けた。 車が大鷹グループ本社に向かう間、彰はタブレットで今日のスケジュールを確認する。 海外ファンドとの資金交渉。 市長との都市計画ミーティング。 ゼネコン各社との調整。 どれも失敗が許されない大仕事だ。 しかし、彰の頭の一部は、すでに杏のことで埋まっていた。 今頃、トーストを食べているだろうか。 あのエプロン姿で、首筋の痕に気づいて慌てているだろうか。 「……可愛い」 「社長?」 「何でもない」 「杏様のことでございますね」 「黙れと言った」 「はい!」 その時、彰のスマホが震えた。 画面には、父からのメッセージが表示されている。 『例の見合い、そろそろ返事をしろ。相手方をいつまでも待たせるな』 彰の表情が、すっと冷えた。 玄太も、バックミラー越しにちらりと様子を見る。 「旦那様からですか」 「……ああ」 「また、お見合いの件で」 彰は画面を一瞥し、すぐに伏せた。 「今はどうでもいい」 「社長」 「杏の前では、その話をするな」 「承知しております」 彰は窓の外を見る。 父親からの見合い話。 大鷹家。 財界の家の男。 そのどれも、杏のそばに置くには、ひどく面倒なものだった。 まだ、言えない。 彰はそう思いながら、奥歯を噛んだ。 車は静かに本社へ向かった。 **** 本社に到着すると、彰は完璧なCEOの顔でエレベーターを降りた。 会議室では、役員たちがすでに待機している。 彰が席に着いた瞬間、空気が張り詰めた。 「では、今日の議題に入る。海外ファンドとの条件はこうだ——」 的確で迅速な指示が次々と飛ぶ。 誰もが 「さすが大鷹社長」 と息を飲むほどの有能さ。 トラブル対応も瞬時に解決し、部下たちは畏怖の眼差しを向けてくる。 「その条件では弱い。代替案を三つ用意しろ」 「は、はい」 「都市計画の資料は見直した。市長側が突いてくるなら、ここだ。先に潰しておけ」 「承知しました」 「ゼネコン各社には遅延ペナルティ条項を追加する。甘い契約は必要ない」 会議室の空気が震える。 冷徹で、有能で、隙がない。 それが大鷹彰の表の顔だった。 しかし、彰は十三時から十四時半までのスケジュールを強引に空けさせた。 「その時間は、絶対に予定を入れるな」 「は、はい……」 秘書たちが慌てて調整する中、彰は内心で小さく笑っていた。 杏補給の時間だ。 **** 午後一時二十分。 ふあふあベーカリーの向かいにあるカフェのテラス席。 彰は帽子と眼鏡で簡易変装をし、コーヒーカップを手にしながら店内を観察していた。 杏がエプロン姿で接客をしている。 笑顔が眩しい。 客にパンを渡す仕草も、トレイを持つ手つきも、全部愛おしい。 「……可愛い」 思わず声が漏れた。 その時、店内で若い男性客が杏に話しかけた。 「杏くん、今日も可愛いね。後で時間ある?」 彰の表情が一瞬で凍りついた。 「……あの野郎」 指がカップを強く握る。 みしり、と嫌な音がした。 彰はすぐに玄太へ短くメッセージを送る。 『杏に話しかけている男、誰だ』 数秒で返信が来た。 『ただの常連客かと。社長、カップを破壊なさらぬよう』 彰は画面を睨んだ。 『杏に近い』 『パン屋のカウンター越しでございます』 『笑わせた』 『接客でございます』 彰は低く唸りながら、杏が笑顔でその客に対応するのを見ていた。 胸の奥が熱い。 独占欲が渦を巻く。 あいつは俺のものだ。 他の誰にも渡さない。 けれど、杏の笑顔を見るだけで、彰の心は満たされていく。 同時に、もっと欲しくなる。 この甘い同棲生活は、まだ始まったばかりだった。 **** 夜。 帝都製菓アカデミーの授業を終えたオレがグラシアス・タワー1203号室に戻ると、彰はすでに軽装に戻ってソファに座っていた。 「ただいま、彰」 「おかえり、杏」 彰は即座に立ち上がり、オレを強く抱きしめた。 「わっ……♡」 「遅い」 「授業だったんだから仕方ないでしょ」 「分かってる。でも遅い」 「理屈が通ってない」 「杏が足りなかった」 「ほんと重いなぁ……♡」 彰はオレを抱き上げ、そのまま寝室へ連れていった。 ベッドへ下ろされると、すぐに深くキスされる。 「んっ……♡」 昼間の分まで求めるみたいな、熱くて重いキス。 オレは彰の首に腕を回し、甘く囁いた。 「もう、エッチなんだから♡ でも……いいよ、彰。たくさん甘やかして」 彰の目が熱を帯びる。 「今日一日、我慢してた」 「ふふっ、知ってる」 「バイト先で、男に話しかけられたか?」 オレは少し意地悪な気持ちになって、あざとく微笑んだ。 「ん……少しだけ。『杏くん、今日も可愛いね』って。笑顔で対応しちゃった」 彰の動きがピタリと止まった。 次の瞬間、彰の目が獣のような鋭い光を帯びる。 「……そうか」 低い声と共に、彰はオレを強く抱きしめ直した。 「彰?」 「笑顔を……他の男に見せたんだろ?」 「接客だよ……♡」 「分かってる」 「分かってる顔じゃない」 「分かってる。でも嫌だ」 彰の唇が首筋に触れる。 深く吸われて、身体が震えた。 「あっ……♡」 「杏は俺のものだ」 「うん……♡」 「他のやつに、可愛い顔を見せるな」 「それじゃ接客できないよ……♡」 「なら、俺の前でだけ、もっと可愛い顔しろ」 「彰……」 彰はオレを抱きしめたまま、何度もキスを落とした。 額。 頬。 唇。 首筋。 熱い腕に包まれて、身体の奥が甘く疼く。 「んっ♡ 彰……♡」 「杏、可愛い」 「言わないで……♡」 「もっと聞かせろ」 深く重なり、甘い熱が身体の奥へ広がっていく。 「あっ♡ ん、ぁ……♡ 彰、深い……♡」 「今ので震えた」 「言わないで……恥ずかしい……♡」 彰は、どこが弱いのか探るようにオレを見ていた。 でも、その目は真剣すぎて、余計に恥ずかしい。 奥をゆっくり擦られるたび、甘い震えが広がる。 「あっ♡ そこ……♡ 彰……♡」 「声が変わるな」 「分析しないで……♡」 「可愛いから無理だ」 「彰のそういうところ、ほんと性格悪い……好きだけど……♡」 彰の腕が強くなる。 けれど、乱暴ではなかった。 独占欲でいっぱいなのに、オレを壊さないように抱いてくれる。 それが分かるから、余計に胸が熱くなる。 「彰……好き……♡」 「俺もだ」 「重いけど、好き……♡」 「重くていい」 「うん……♡」 奥を擦られるたび、声が止まらない。 「んっ♡ あ、ぁ♡ 彰……♡♡」 「杏、俺を見ろ」 「むり……♡ 恥ずかしい……♡」 「見ろ」 低い声に、ぞくっとする。 オレは涙目で彰を見る。 彰の目には、オレしか映っていなかった。 「あっ……♡」 「可愛い」 「彰……♡」 最後は強く抱き寄せられたまま、二人同時に甘い絶頂へ溶けていった。 「はぁっ♡♡ 彰……♡」 「杏……好きだ」 熱い余韻の中で、彰がオレの髪にキスを落とす。 「……愛してるぜ、杏」 「オレも……彰が、好き……」 しばらく、二人で荒い息を整えながら抱き合っていた。 彰の手が、オレの背中を優しく撫でる。 さっきまでの熱が嘘みたいに、今は甘い。 「今日、本当に妬いてた?」 「当たり前だ」 「でも、オレが笑うのは仕事だよ?」 「分かってる」 「分かってるのに妬くの?」 「妬く」 「わがまま」 「お前限定だ」 「……そういうの、ずるい」 彰はオレの額にキスをした。 「泣かせたか?」 「泣いてないし……ちょっとだけ、気持ちよすぎただけ……♡」 「そうか」 彰が少し満足そうに笑う。 オレはぐったりしながらも、彰の胸に顔を埋めて小さく笑った。 「もう……本当、重いカレシなんだから♡」 「今さらだろ」 彰はオレを優しく抱きしめ、汗で濡れた額にキスを落とした。 この甘く、激しく、濃厚な同棲生活は、まだ始まったばかりだった。

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