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第2章 雨宿りと、運命の甘い嘘
夜のグラシアス・タワー1203号室。
窓の外では、雨が強く降っていた。
街のネオンが雨粒に滲んで、ガラス越しにぼんやり揺れている。
オレ——甘野杏は、ベッドの上で彰の胸に頬を預けていた。
さっきまで深く抱き合っていた熱が、まだ身体の奥に残っている。
彰の腕は、オレの腰を抱いたまま離れない。
大きな手が背中をゆっくり撫でてくれるたび、安心して、また少し甘えたくなる。
「彰……もうちょっとだけ、こうしてて」
オレがそう言うと、彰は低く笑った。
「甘えん坊だな、杏。でも……嫌いじゃない」
「だって、彰が気持ちよすぎたんだもん……離れたくない」
言ってから、自分で少し恥ずかしくなる。
でも彰は茶化さず、オレの髪を優しく梳いた。
「離さない」
「……ほんと重い」
「今さらだろ」
「うん、知ってる♡」
彰の胸に顔を埋めると、心臓の音が聞こえた。
ゆっくりで、でも力強い音。
この音を聞いていると、不思議と何も怖くなくなる。
しばらくすると、外の雨音がさらに強くなった。
ざあざあと、窓を叩く音が部屋の中まで響いてくる。
彰がオレの手を取った。
「雨が降ってきたな。一緒に見に行こう」
「今?」
「ああ」
「彰、急にロマンチックぶるよね」
「ぶってない」
「じゃあ素?」
「杏といる時は、だいたい素だ」
そう言われると、何も返せなくなる。
オレは彰に手を引かれ、ベランダへ出た。
冷たい空気が肌に触れる。
街は雨に濡れ、ネオンがぼやけて綺麗だった。
彰は後ろからオレを包み込むように抱きしめ、顎を肩に乗せてくる。
「……雨が降っていたな。あの日も、こんな雨だった」
低く懐かしむような声。
その言葉で、オレの記憶は半年前へと戻っていった。
****
半年前。
突然の豪雨だった。
大鷹グループのCEOである俺——大鷹彰は、移動中の車が突然故障したため、代車が来るまでの間、周辺を歩いていた。
本来なら、雨の中を歩く必要なんてなかった。
玄太を呼べば、すぐに何とかなる。
それでも、その時の俺は、なぜか駅近くの軒先に立っていた。
雨が視界を白く霞ませる。
靴先に水が跳ねる。
その時だった。
びしょ濡れの青年が、軒下へ駆け込んできた。
前髪から水滴が落ちている。
制服は雨に濡れて、細い肩が小さく震えていた。
その瞬間、俺の胸に強烈な感情が突き刺さった。
綺麗だと思った。
ただ綺麗というだけでは足りない。
守ってやりたい。
温めてやりたい。
誰にも渡したくない。
そんな感情が一気に押し寄せて、息が詰まった。
なんて綺麗な目をしているんだ。
濡れた前髪。
震える唇。
警戒しているのに、どこか柔らかい瞳。
一目見ただけで、ここまで誰かを欲したことはなかった。
俺は、できるだけ穏やかに声をかけた。
「大丈夫か? ずいぶん濡れてるな」
青年——甘野杏は、俺の黒い仕立てのいい服を見て、明らかに警戒した顔になった。
「……あの、なぜオレに声をかけるんですか? もしかして、商売男と勘違いされました?」
「違う」
「じゃあ……ヤクザとかチンピラが、商売男にスカウトでも……?」
「誤解だ」
俺は即座に否定した。
普通なら、こんな誤解をされた時点で面倒だと思う。
けれど目の前の杏が、濡れたまま必死に警戒している様子まで、なぜか可愛く見えてしまった。
重症だ。
出会って数分で、もう自覚した。
杏は俺をじっと見上げたまま、少しだけ声を落とす。
「すみません。兄さんと母さんから、金持ちの男の人には近づくなって、しつこく言われてて」
胸の奥が、嫌な音を立てた。
「……なぜだ」
「お金持ちって、お金で何でも解決出来ると思っているでしょ? そういう人に関わるとロクな事にならないって。特に、甘い言葉で近づいてくる人ほど、ちゃんと疑えって」
俺は一瞬、言葉を失った。
大鷹家。
財界。
父親から迫られている見合い。
全部、自分に刺さる言葉だった。
ここで正体を言えば、この子は確実に距離を取る。
そう直感した。
だから、俺は嘘をついた。
「俺はイベント会社の現場監督だ」
「現場監督?」
杏の目が疑わしげに細くなる。
「今日も、石油王のVIP客を遊園地に招待する大規模イベントの現場監督をしてたんだ。この服はそのためのものだ」
言いながら、自分でもかなり無理があると思った。
だが、杏は雨の音を聞きながら、俺をじっと見上げた。
「……石油王?」
「そうだ」
「遊園地?」
「ああ」
「現場監督さんって、そんな服着るんですか?」
鋭い。
俺は一瞬だけ詰まった。
「……案件による」
「便利な言葉ですね」
「そうだな」
杏が小さく笑った。
その笑顔に、胸の奥が熱くなる。
雨がさらに強くなった。
杏は腕を抱え、小さく震えている。
「……なら、お言葉に甘えます」
その言葉を聞いた瞬間、俺は即座に玄太へ連絡を入れた。
『最寄りの空き物件を今すぐ確保しろ。着替えと温かい飲み物も全部用意。急げ』
すぐに玄太から返信が来る。
『了解いたしました、社長。愛の巣候補を特急でご用意いたします』
俺は内心で冷や汗をかいた。
愛の巣ではない。
まだ違う。
たぶん。
すぐに追加で送る。
『部屋だけ整えろ。余計なことはするな』
『承知いたしました。この玄太、影の手配担当に徹します』
『絶対に余計なことをするな』
『社長の恋の行方以外は余計なことをいたしません』
『それが余計だ』
俺はスマホを伏せた。
杏はその様子を見て、首を傾げる。
「仕事ですか?」
「ああ。会社の手配担当だ」
「イベント会社って、急な手配もできるんですね」
「……有能なやつがいる」
「へえ。すごい」
杏は素直に感心していた。
俺は少しだけ胸が痛んだ。
嘘が、ひとつ増えた。
****
駅前のタワーマンションに到着した瞬間、杏の目が大きく見開かれた。
「え、ええっ!? イベント会社の社員さんが、こんな高級タワマンに住んでるんですか!?」
当然の反応だった。
俺は苦笑しながら、できるだけ自然に言う。
「特別に報酬が良かった案件でな。……まあ、たまにあるんだ」
「たまに?」
「たまにだ」
「イベント会社って、夢がありますね……」
「そうだな」
「今の間、ちょっと怪しかったです」
「気のせいだ」
杏はまだ半信半疑の顔をしていた。
それでも、雨で冷えた身体の方がつらかったのだろう。
おずおずと部屋の中へ入る。
「ソファ、ふかふかすぎて沈みそう……照明もおしゃれで……すごいですね」
杏は部屋の中をきょろきょろ見回していた。
高級バスローブ。
温かい飲み物。
軽食。
さらにテーブルには、有名店の高級菓子まで並んでいた。
「……彰さん」
「なんだ」
「これ、本当に彰さんの部屋ですか?」
「……仮住まいだ」
「仮住まいでこれ?」
「案件による」
「また便利な言葉を使った」
杏がくすっと笑う。
その笑顔に、俺は完全に目を奪われていた。
杏の前では、いつもの威圧的な態度が出せない。
なぜか、声が柔らかくなる。
言葉を選んでしまう。
杏もまた、初めて会ったはずの俺に対して、少しずつ警戒を解いているようだった。
「なんか……彰さん、初めて会ったのに、変に安心しちゃうんですよね。不思議」
「俺もだ」
杏が顔を上げる。
俺は自分でも驚くくらい素直に言っていた。
「お前といると、妙に落ち着く」
杏は少し照れたように目を逸らした。
「……変なの」
「そうだな」
「彰さん、怖そうなのに、意外と変」
「初対面で言うことか」
「だって、本当だから」
その時、杏の視線がテーブルの高級菓子の箱へ釘付けになった。
目が明らかに輝いている。
「……食べていいぞ」
「本当に!? やった!」
杏は嬉しそうに箱を開けた。
その顔を見ているだけで、胸の奥が温かくなる。
どうやら杏の趣味は高級菓子店の食べ歩きらしい。
話しているうちに、それが原因で金銭的に苦労していることも分かってきた。
「オレ、製菓の勉強してるから、いろんな味を知りたくて」
「それで食べ歩きか」
「うん。でも、食べたいものが多すぎて、財布が追いつかない」
「正直だな」
「甘いものは裏切らないので」
「俺は?」
「彰さんは、まだ分かりません」
「厳しいな」
杏は菓子を頬張りながら、少し得意げに笑った。
それから、ふと手を止める。
「でも、結局一番安心するのは、クリームパンかも」
「クリームパン?」
「うん。高級菓子も好きなんですけど、ふわっとしたパンに優しいクリームが入ってるやつって、なんか落ち着くんです」
杏の声が、少し柔らかくなった。
「ふあふあベーカリーのクリームパン、好きで。いつか、オレもああいう、でもオレだけの味のクリームパンを作りたいんです」
俺はその言葉を、なぜか胸に強く刻んだ。
「杏のクリームパンか」
「まだ作れませんよ。理想だけはあるんですけど」
「作ったら、俺に食わせろ」
杏が目を丸くする。
「彰さん、甘いもの好きなんですか?」
「今、好きになった」
「何それ」
「杏が作るなら食う」
杏は頬を赤くして、菓子の箱へ視線を戻した。
「……変な人」
「さっきも言われた」
「でも、嫌じゃないです」
その一言で、俺の胸は完全に熱くなった。
この子をもっと知りたい。
もっと近くに置きたい。
その気持ちは、もう止められなかった。
****
その夜。
俺たちはソファに座り、温かい飲み物を飲みながら少しずつ話した。
杏は製菓の専門学校に通っていること。
駅前の“ふあふあベーカリー”でバイトしていること。
一年だけ上京中で、その後は実家に帰らなければならないこと。
ぽつぽつと、話してくれた。
「一年だけなんです」
杏はカップを両手で包みながら言った。
「その後は、実家に戻る約束で」
「戻りたいのか?」
「分かんない」
杏は少しだけ困ったように笑う。
「でも、約束だから」
その横顔が、妙に寂しそうに見えた。
俺の胸の奥が熱くなる。
この子をもっと近くに置きたい。
そう思った時、杏の様子が急に変わった。
頬が赤く染まり、息が少し乱れる。
「……っ」
「杏?」
「すみません、急に……体調が……」
杏は自分の胸元を押さえ、苦しそうに息を吐いた。
「その、オレ、実は雄女で」
俺は杏を見つめた。
雄女とは、“子宝の実”を体内に取り込むことで、妊娠出来る体になった男性の事。
男性は、成人後に雄女化を行うかどうかの選択肢が与えられている。
女性の負担軽減のほか、地方の嫁不足解消、上流階級での政略結婚の道具として利用される事もある。
雄女の特徴は、発情期の症状があらわれる一方で、中性的な美しさが増す事が知られている。
とはいえ、杏が美しいと思った理由が、“雄女”だけで説明できるわけではない。
ただ、杏がいま不安そうにしていることだけは分かった。
だから、俺は声を落とした。
「変じゃない」
「でも……」
「無理するな」
杏の肩が小さく震える。
「熱くて……彰さんが近いと、余計に……」
その言葉で、理性が揺れた。
我慢できなくなった俺は、杏の頬に触れ、唇を重ねた。
「ごめん……我慢できない」
「彰さん……」
杏は最初、少しだけ身体を強張らせた。
でもすぐに、力を抜いて俺を受け入れた。
「オレも、変なんです……熱くて……♡」
キスが深くなる。
熱い吐息が混ざる。
杏の指が、俺の服をぎゅっと掴んだ。
「んっ……♡」
俺は杏を抱き上げ、ベッドへ運んだ。
****
ベッドの上。
俺は杏を優しく抱き寄せ、焦らすように何度もキスを繰り返した。
「彰さん……ぞくぞくする……おかしくなっちゃう……♡」
「まだだ。杏の全部、じっくり味わわせてくれ」
「そんな言い方……ずるい……♡」
杏の頬は赤く、目は潤んでいた。
俺は首筋、肩、胸元へゆっくりキスを落とす。
触れるたびに、杏の身体が甘く跳ねる。
「あっ……んっ♡ 彰さん、優しすぎて……変になっちゃうよ……♡」
「杏、こんなに感じてる……初めてか?」
「うん……こんなに、愛してくれる人、初めて……もっと、触って……お願い……♡」
その声に、胸の奥が焼ける。
俺は杏を抱きしめたまま、ゆっくり熱を重ねた。
「我慢しろ。まだ、絶頂は許さない」
「彰さん……意地悪……♡」
「可愛い声でねだるお前が悪い」
「オレのせいにする……♡」
「そうだ」
杏は涙目で俺を見上げる。
その顔が、どうしようもなく可愛かった。
俺は深く口付け、ゆっくりと奥まで熱を満たしていく。
「あっ……♡♡ 彰さん……深い……♡」
「大丈夫か」
「うん……でも、奥が……熱い……♡」
杏の声が甘く震える。
俺は焦らず、ゆっくり奥を擦るように抱いた。
「あっ♡ んっ……♡ 今の……♡」
「今ので震えた」
「言わないで……恥ずかしい……♡」
「可愛い」
「彰さん、見すぎ……♡」
「見たい」
何度も絶頂の寸前まで追い詰めるたび、杏は俺にしがみついた。
「彰さん……もう、ダメ……いっちゃいそう……あっ、あっ♡」
「まだだ。杏が俺の名前を泣きながら呼ぶまで、焦らしてやる」
「彰さん……お願い……もう、限界……いっちゃいたい……♡」
杏の声が甘く途切れる。
俺の理性も限界だった。
さらに深く抱きしめ、何度もキスをする。
「杏……すごい、熱い……可愛すぎる」
「あんっ♡ 彰さんで、いっぱい……♡」
奥を擦られるたび、杏の身体が甘く震える。
「あっ♡ はぁ……♡ 彰さん……そこ、好き……♡♡」
「いいぞ、杏……俺を感じろ」
「あっ……いっちゃう……彰さん……いっちゃうよ……あっ、ああっ♡♡」
最後は強く抱き締めたまま、二人同時に甘い絶頂へ溶けていった。
「杏……♡」
「彰、さん……♡♡」
****
事後。
俺たちはベッドで寄り添っていた。
雨の音は、まだ続いている。
杏は少し赤い顔で、俺の胸に頬を寄せていた。
俺は杏を抱きしめながら、小さく息を吐く。
「……ごめん。急に襲うような真似をして」
杏は赤い顔で首を振った。
「オレも……発情期のせいもあるから。悪くなかったよ……むしろ、気持ちよかった」
その言葉に、胸がさらに熱くなる。
「杏」
「ん?」
「そんな顔で言うな」
「どんな顔?」
「可愛い顔」
「彰さん、さっきからそればっかり」
「事実だ」
杏は照れくさそうに笑い、それから再び高級菓子の箱に手を伸ばした。
事後なのに、幸せそうに頬張る姿が可愛い。
「……これ、やっぱり美味しい」
「さっきまで泣きそうな顔してたのに、もう菓子か」
「甘いものは大事なので」
「そうか」
俺はその姿を見ながら、自然に微笑んでいた。
そして、言った。
「杏……やっぱりここに住め」
杏の手が止まる。
「え?」
「一年間でいい。俺が全部面倒を見る」
「全部って……」
「住む場所も、食事も、必要なものも。お前が勉強に集中できるようにする」
杏は戸惑ったように俺を見る。
「でも、そんなの……」
「俺がそうしたい」
「彰さん……」
「お前を近くに置きたい」
言ってから、少し強すぎたかと思った。
けれど杏は、菓子を口に運びながら、照れくさそうに頷いた。
「……うん。1年だけなら、お願いします、彰」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が満たされた。
「決まりだな」
「でも、甘いものの食べすぎは怒らないでね」
「場合による」
「えー」
「健康には気をつけろ」
「もう保護者みたい」
「俺は重いからな」
「自覚あるんだ♡」
杏が笑う。
俺はその笑顔を見つめながら、強く思った。
絶対に手放したくない。
一年。
杏が口にした期限を、俺は胸の中で反芻した。
父親からの見合い話をかわし続けるにも、そのくらいが限界かもしれない。
だが、その一年で手放せる気はしなかった。
むしろ、もう無理だと分かっていた。
こうして、俺と杏の期限付きの甘い同棲生活が始まった。
****
現在。
ベッドの中で、オレは彰の胸に顔を埋めながら小さく笑った。
雨の音は、あの日と同じように窓を叩いている。
「結局、あの時から彰は重めだったよね」
彰はオレの腰を抱き寄せ、耳元で低く囁いた。
「ああ。お前を一目見た瞬間、絶対に手放したくないと思った。……今も変わらない」
胸が甘く締め付けられる。
オレは彰の首筋にキスを返した。
「……そういうところ、ほんと重い」
「嫌か?」
「嫌じゃないよ♡」
彰は満足そうに、オレをさらに強く抱きしめた。
オレはその胸の中で、心の中でそっと願う。
この甘い日々が、ずっと続けばいいのに。
しかし、オレも彰も、まだ互いの本当の素性を知らないままだった。
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