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 スーパーには主任のマカンで行った。助手席に乗り込んで、シートベルトを締めると(スイ)は頬がゆるむ。  かすかに漂うウッディ系の香り、柔らかで張りもあるベージュの革のシートは身に馴染んだもの。  主任のこの車が好きだった。  ポルシェだけど主張するような華美さはないのにちゃんと上質で洗練されていて、柔らかい質感があって、でもアクセルが踏まれると静かに力強く加速する。  ステアリングを握る主任の横顔も好きだった。  助手席に乗って外に連れ出されると、肌にさわられているより近くにこの人を感じる、気がする。 「外、あったかいですねぇ」 「もう桜も咲いたしね、すっかり春だ」 「桜……。桜なんてしばらく、ゆっくり見た記憶ないな……」 「そうなの? 会社でお花見とかしない?」 「内輪のやつ誘われましたけど、忙しすぎて断りましたねー……」  ああ、翠くんぽいね。主任の横顔が笑っている。その向こうには幹線道路沿いの街並みが流れていく。  ユキさんは?  来週の夜にチームでやるよ。  そうなんですね、金曜日?  ううん、水曜日。  へえ、週ナカにお花見。  課長がそこしか空いてなくてさ。だから金曜日は、いるからね、大丈夫。  ……はい。  助手席に乗ると翠は少しだけおしゃべりになる。ずっと頬と目がゆるんでいるのは、自覚していなかった。 ◇◇◇    大きなスーパーマーケット。  輸入食品や目利きの産地直送品、オリジナルのデリカテッセン、少し値が張るけど週末の食卓がちょっといいものになるので、ここは主任のお気に入り。翠もこれまで何度か連れて来てもらったことがある。  主任に似合う場所だった。チーク材の床はノーワックスで素朴な凹凸が表情を作っている。インダストリアルなチャコールグレーの天井にエジソンランプがたくさん吊されて、広々と落ち着いた売り場はスーパーというよりおしゃれな雑貨店に近い雰囲気。  実際、インポートの食器や生活用品、観葉植物なんかのテナントも入っていて、コーヒー豆と紅茶の販売コーナーにはカフェも併設されていた。 「ユキさん、帰りにコーヒーフラッペ買ってもいいですか?」  カゴを持つ主任の横で翠は上調子に聞いてきた。野菜コーナーで、ロメインレタスってどこかな、と主任は先ほど言ったはずだけど、売り場には目を遣らず主任のほうばかり見ている。 「いいよ」 「やった。あそこのコーヒーフラッペ、すきです」 「でも、コーヒーは飲んできたでしょ?」 「コーヒーとコーヒーフラッペは別物じゃないですか?」 「別物だねぇ」  主任が軽口を返すとうれしそうに目を細める。それを見て主任も、ふ、と息で笑った。  翠はうれしくてしょうがない。  一緒に並んで、2人で食べるものの買い物をして、なんでもない会話をして、主任が笑いかけてくれる。  うれしくてしょうがない。そうとしか表現できない。この胸の高揚と少しばかりの締め付け、これらの複雑な感情は。  私服の主任はスーツ姿と違ってまた格別のかっこよさがある。柔らかなコットンのスタンドカラーシャツ。仕立てのよい紺のセンタープレスのテーパードパンツ、こっくりしたブラウンのデッキシューズ。それらにまったく似合う柔らかい笑顔。かっこいい、ユキさんは誰がどう見たってかっこいい。  そんな主任が外で、自分を見て笑いかけてくれると安心する。外でも主任の「いい子」でいられている、という実感が持てるから。  首輪を外してもおれはあなたの「いい子」でいたい。  そんなことを考えている自分に、気付いているので、胸の奥の小さいところがきゅう、と縮むのだ。  気付いていて無視をする。  そして、そんな自分を主任はすべて見透かした上で微笑んでいるのだろうなと思うと、自己欺瞞に満ちた胸の締め付けだって「いいもの」に思えてくる。だってユキさんが笑ってすべて受け止めてくれているのだから。  分かって受け止めて、その上で連れて行ってくれる。主任の世界に。  目を細めて見つめてくる翠を一瞥して、「ロメインレタスはベーコンサラダにしよう、パンチェッタはあるからね」と主任は自然に顔をそらした。微笑む唇。すべて知っている唇。  翠はふふ、と笑い、「おいしそう」と呟いてから前を向いた。  うれしくて、たのしいお買い物。ずっとこうしていたいな、と思う。   ◇◇◇ 「で、結局、メインは何にしようか」  精肉コーナーに移ったあたりで、主任は独り言みたいに呟いた。翠はくりっと目を開いて主任を見上げる。どうしましょうねぇ。交わす視線は本気で困ってなんかいない。これも軽口みたいで、一緒にうんうん悩んでいるのがたのしくて翠は、へへ、と笑った。 「あ。」  そのとき。主任が前を向いて立ち止まる。 「千代(ちしろ)主任?」  澄んだ声が向けられる。翠も立ち止まった。 「ええ~こんなところで! やだぁ」  若い女の人が買い物カートを引いて立っていた。  ネイビーのペンシルスカートに淡いレモンイエローのハイヒールを履いている。緩くウェーブを付けた栗色の髪。ボートネックブラウスの鎖骨下で、細いゴールドチェーンのネックレスと一緒に揺れる。  きれいなひと。 「ああ、松永さん。こんにちは」  主任は笑顔でその女性にまっすぐな声を向けた。松永さん、という若い女性はうれしそうに目を輝かせる。 「こんにちはぁ。びっくりしたぁ、こんなところで千代さんに会うなんて。休みの日のスーパーで~」  松永さんは浮ついたしゃべり方をしながら、でもその声は自信を滲ませた明晰な響きがあった。賢い女性なのだろう。 「千代さんもここ、来るんですねぇ、おうち近くなんですか?」 「いや、車で来たよ。買い出しなんだ、松永さんはこの近くなの?」 「そうなんですぅ、だからこんなテキトーなカッコで……恥ずかしい~」  恥ずかしい、と言いながら松永さんは十分きれいな格好をしている、と翠は思った。ひとりで、きれいなハイヒールで、高級スーパーに買い物。自立した女性だ。 「千代さん、私服も素敵ですねぇ、カジュアルって新鮮」 「あは、ありがとうって言っておくね。松永さんこそテキトーなんて言って。いつも通り素敵だよ」  ええ~もう~、と笑顔で口元を隠す松永さん。親しさと近しさを空気に振りまく。主任はいつも通りの笑顔。  翠は主任の半歩後ろで、そのまま靴裏が床にくっついてしまったようだった。  会社での『主任』を、翠はあまり知らない。  誰からも好かれる主任。  仕事ができて人当たりが良くて、そんなことは肌で分かっていたけど、実際同僚からこんなふうに接せられる人なんだと思うと、とたんに別人のように感じてしまう。  ユキさん、じゃない、千代主任。  翠は表情が固くなる。主任の後ろで目を伏せて黙っている。  居心地の悪さ。  気まずさとか困惑とか、そういうものが漏れ出ないようにしなくては、ということばかりに頭が囚われた。  そのとき、恥ずかしそうに笑っていた松永さんが上向いた睫毛の大きな瞳を上げて、 「あ、そちらの方は、お友達ですか?」  と聞いてきた。  明晰な声。顔を覗き込まれるように目を向けられて、翠は背筋がぴきりと強張った。  見られてる。  ユキさんの後ろに隠れる自分を。  千代主任の知り合いに。  何か言わなきゃ。でも喉が一瞬つぶれてしまった。  何か、言わなきゃ。ああ、挨拶。  とっさに口を開こうとしたとき、主任の柔らかい声が先を越す。 「そう、飲み仲間。これから宅飲みするんだ」  笑顔の主任。  翠は引きつった頬をなるべくごまかして、ぎこちなく笑った。 「……こんにちは」  頑張ったのに、出て来たのは思ったより低くて小さい声。翠は恥ずかしくなって耳先がじわりと赤くなるのを感じた。逃げるように目を伏せる。  うまく挨拶できなかった。  『千代主任』の『飲み仲間』として、なんでもないように、明るく笑うのが正解だったのに。  松永さんの大きな目が、不思議そうに一拍、間を空ける。それからニコリと笑顔になって、 「……こんにちはぁ。宅飲み、いいですね~」  浮ついた調子を続けた。 「じゃあ、楽しんでください。千代さん、また来週」 「うん。またね、松永さん」  松永さんはカツカツときれいなレモンイエローのハイヒールを鳴らして行ってしまった。  翠は自分のスニーカーのつま先を見つめていた。主任が振り向く。 「……緊張した?」  少しだけ潜められた声はやさしいからかいを含んでいて、いつもの『ユキさん』の声だった。翠は顔を上げる。 「……べつに」  苦々しく呟くと、主任は軽い息で笑って「そう?」とだけ言った。翠の腰に手を添えて、そっと前に促す。温かな大きい手のひら。 「あ、ねえ、あれどう? シンガポールチキンライス。あっさりしててちょうどよくない?」  翠を横に置いて、見下ろすやわらかい茶色の瞳。それに見つめられるとじわりと胸の中がほどけてしまう。  すぐに離れた手のひら、でも感触が服を越して肌に淡く残る。  翠は固くなっていた頬が少しゆるんで、眉を下げた。 「パクチー入れないでください」 「入れないよ、きらいでしょ」  頷いて、小首を傾げた。口元が勝手に笑う。 ◇◇◇ 

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