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読めば、読むほど
芹は診察室へ椅子へ腰を下ろす。
いつもなら体調や睡眠時間から聞き始める。
けれど今日は違った。
机の引き出しへ視線を落とす。
「望月さん」
「はい」
翠は一度言葉を選ぶように間を置く。
「新刊、読みました」
その瞬間だった。芹の顔がぱっと明るくなる。
「本当ですか!」
診察室とは思えないほど嬉しそうな反応だった。
翠は小さく頷く。
「感想の前に、ひとつだけ聞いてもいいですか」
芹は少しだけ首を傾げる。
「……あの主人公はあなたですか」
診察室が静まり返った。
数秒後、芹はようやく口を開いた。
「俺以外、他に誰か考えられます?」
頬杖をつきながら、口元を緩める。
予想はしていた。それでも本人の口から聞くと、妙な現実味があった。
「そうですか」
翠は一度だけ頷く。そして静かに続けた。
「じゃあ、主人公が出会う精神科医は僕ですか」
芹は返事をしない。
ただ楽しそうにこちらを見ている。
その沈黙が何よりの答えだった。
「……診察しないんですか」
芹がそう聞くと、翠は芹の目を真っ直ぐ見た。
「そういう気分じゃなくなりました」
思わずこぼれた言葉だった。
芹はきょんと目を丸くすると、首を傾げた。
「どういう意味ですか」
翠はしばらく芹を見つめた。
「この本を読んで分かりました」
静かな声だった。
「あなたは僕に会うことで安心している」
一度、言葉を切る。
「どうやら僕自身が、あなたの精神安定剤になってしまっているみたいです」
診察室が静まり返る。
芹は何も言わない。翠も続けなかった。
精神科医としてそれは決して、いい状態ではない。
患者が治療ではなく、医師という存在そのものに安心を求め始める。
本来なら、修正しなければならない関係だった。
「そうですね。どうしたらいいですか?」
芹は困ったように笑う。
「そのままでいいんじゃないですか」
気付けば、そう答えていた。
その言葉に、芹は驚いたように目を見開く。
精神科医として、言ってはいけない言葉だった。
患者はいつか主治医の手を離れていく。
それが治療の終着点だ。
それなのに今の自分は、その終着点を自ら遠ざけようとしている。いや、もしかしたら最初からそうだったのかもしれない。
「……それ医者として、どうなんですか」
静かな問いだった。
翠はすぐには答えられなかった。
患者と適切な距離を保つこと。依存を生まないこと。精神科医として何度も学び、何度も患者に向き合ってきた。
「いいわけないでしょう」
それが正しい答えだった。
「あと」
小さく息を吐く。
「ファンとしての感想が欲しいんですよね」
「はい、お願いします」
翠は一度だけ、本の表紙へ視線を落とした。
「一番、大作なんじゃないですか」
芹は一瞬だけ、目を丸くする。
いつもなら軽口を叩いてくるはずのに、今日は静かに黙って聞いていた。
「文章も構成も今まで呼んだ作品の中でいちばんまとまっていました」
一拍置いて続ける。
「でもすみません。僕に今更、ファンとしての感想聞いても無駄ですよ」
「え?」
翠は小さく息を吐く。
「作品を読めば読むほど、もう純粋なファンでいられないので」
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