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第88話
「では二階に参りましょうね?」
「……笑ってくれるのか?」
「はい?」
「都筑くんの笑顔は、…………と 」
と? きょとんと続きを待ってみたけれど、トーマはその先を言わずに唇を引き結んでしまった。
けれど雄弁なトーマの瞳が僕を見つめて、ゆらりゆらりと物言いたげに表情を変えて……いつまでも覗き込んでしまいたくなるその両目は、ルカとはまた違った魅力で僕を虜にする。
「ぅ……お、お着替えをお持ちしますね」
「……いや。…………甘い匂いがするな」
すんすん とフェロモンを探す時に出てしまう鼻を鳴らす動きをしながら、トーマは一歩歩き出す。
思わずどきりとして、今日の夜の分の薬をまだ飲めていないことと頓服を使い切ってしまっていたことを思い出していた。
「あ…… アップルパイ! ですっ! 約束通り、アップルパイを焼いたんですよ?」
「甘い……あぁ、君の作るお菓子の香りか…………」
「少し食べられますか? その方が空腹のままよりも休みやすいと思いますし」
「…………」
トーマはじっとキッチンに置いてあるアップルパイの辺りを見つめていて、甘いリンゴの香りに夢中なのだと側で見ててわかる。
そんなに好きなら今度、トーマが家にいる時に焼きたてのアップルパイをおやつに出そう! バニラアイスも添えたら、きっと目をキラキラさせて喜ぶはずだ。
「切り分けて参りま…………っ」
キッチンに行こうとした体が後ろから引っ張られて、何事かと思う間もなく男らしい筋ばった腕が僕の体に回される。
背後からトーマの気配と匂いが強く立ち上って……「君がいてくれると、ほっとする」って言葉と共に、肩に軽い重みがもたれかかった。
筋肉量はともかく、身長はトーマの方が高いので、そうされてしまうとなんだか囚われの身になったような気分がしてくる。
αがこんなふうに僕を求めてくれることってなかったから、トーマが極限の疲労の中で癒しを求めているだけなんだってわかっていても、離さないとでも言うように抱きしめられるとちょっと胸がドキドキした。
「都筑くんは……甘くていい匂いがする」
「あは、は……今日、アップルパイを三つも焼いたからでしょうか?」
場の雰囲気を壊そうと、できる限り明るい声で言ってみるも……すん と首元の匂いを嗅ぐ行動にすべてが返り討ちに遭ってしまう。
「ぁ のっくすぐったいので……」
離して欲しい の言葉は押し付けられた鼻先に押し流された。
なんとなく……経験のない僕でも、今のこの状況っておかしいんじゃないか、もしかしたらまずいんじゃないかって気持ちが湧き出してきて……
「すごく、魅力的だ」
トーマの鼻の頭が項をくすぐるようにしてスンスンと匂いを嗅ぎながら、鼻先を髪に埋めてくる。
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