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第87話

 思わずビクッとなってしまう音に、ルカが目を覚ましちゃうかなって心配したけれど、今日も一緒にたくさん踊ったからかぐっすりな様子だ。  僕はルカの部屋を抜け出して慌ててリビングに向かうと、肩を落としてくたびれ果てたようなトーマがぼんやりと立ち尽くしていた。 「おかえりなさいませ!」 「……ああ」  昨日の朝には見られなかった目の下のクマと、疲労でやつれて見える頬の様子に大慌てで駆け寄る。 「今すぐにお風呂の準備をして参ります!」 「あぁ、いや、食事を……いや、待て、そうじゃない。そうじゃない」  トーマの言葉は口の中で繰り返されてから消え、どうしたんだろうと様子を窺っているとふらふらしながら僕の方へと向いた。  服は出かけた日のままで、アイロンを当ててあったシャツはクタクタになっているしシミまでできている。洗濯する時にシミをなんとかしないと……って思っている間に、トーマは何を思ったのか僕の手を握りしめてきた。  大きくて指の長い手で包まれると、小さくない僕の手がすっぽりと覆われてしまう。 「あ? えぇ?」 「まずは……申し訳なかった。突然スケジュールを変更してしまって、困っただろう?」 「いえ、予約は変更できましたから、お気になさらないでください」 「結局、連絡も遅くなったし、代わりのシッターを手配することもできなくて……」 「お気遣いありがとうございます」 「その……」  僕の手を握りしめたトーマの目は虚ろで、極限まで精神をすり減らして帰ってきたために変な行動をとってしまっているのかも? って僕に思わせた。  疲れが天井を突破してしまってるんだろうなって理解した僕は、トーマの言葉に反論はせずに丁寧に一つ一つの言葉に頷いていく。 「そもそも、君一人にすべてを任せすぎて……」 「仕事ですからね、当然ですよ」 「だが、病院にだっていかせてあげられていない」 「予約変更しましたからいいんですよ」  同じ言葉を繰り返しても、丁寧に丁寧に対応すると、言葉の最後がわずかに鼻にかかるような甘みを帯びた。 「都筑くんも、こんな俺を見捨てるのかな?」 「え⁉︎ いえっそんなことしませんよ! お給料もいいし! ルカくんも可愛いし! 辞める気はないです! 僕の料理を美味しく食べていただけているの、嬉しいので!」  他の返答よりも力を入れて答えたからか、少し朦朧としていたトーマの目がハッと焦点を取り戻した。 「そ……そうか…………ありがとう……」 「トーマさま、老婆心かもしれませんが、まずは横になられた方が良くありませんか?」  いつもは夏のソーダ色の瞳がどんよりと濁り、そこには光らしい光が見出せない。  トーマは僕の言葉を飲み込むのに時間がかかったのか……少ししてから「うん」と可愛らしい返事を返してくれた。  ルカは「あい(はい)」と返事をしてくれるのに、トーマは「うん」と子どものような返事をすることが面白くて笑いが溢れてしまう。  

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