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第1話
「香川さんって、付き合っている人いるんですか?」
鏡越しの上目遣いに、雪兎はどうにか愛想笑いを貼りつけた。美容師という職業柄コミュニケーションが得意だと思われがちだが、生憎雪兎はそういう類の人間ではなかった。特にこの手の話題は苦手だし、異性との会話も得意分野ではない。それでも一人前のスタイリストとして仕事を任されるようになってからは、積極性を持とうと努力はしている。
働いているのは業界でも指折りの美容師たちが在籍している人気店だ。そのお陰か、原宿の裏通りから一本入った人気のない立地の割に客足が途絶えたことはない。香川 雪兎 は美容師になって四年目で、店の中ではまだまだ下から数えた方早い。最近ようやく指名率も上がってきて、固定の客もついてきた。美容師を目指す者ならだれもが憧れるこの店に入れたのは相当運がよかったといっていい。
「いないですよ?」
「でも香川さん格好いいから、きっとモテますよね?」
「どうだろう。言われたことがないから」
そう苦笑うと、彼女が納得しかねるような微妙な反応を寄越した。モテる人はみんなそう言うんですよぉ、と拗ねたような甘い声を出されても、本当のことなのだから返答に困る。いまは相当垢抜けたといえるが、数年前までは地味で目立たない存在だったのだ。新入社員としてこの店に入った時も同期の中で群を抜いてダサかった。そのことを彼女に伝えたところで納得してはもらえまい。
「じゃあ、気になる人とかいます?」
「うーん、今は仕事が楽しいので。それに出逢う機会があまりないから」
「でもお客さんでかわいい人とか、たくさん来たりするんじゃないですか?」
「素敵な方はたくさんいらっしゃいますよ。結城さまも素敵です」
「え~、だれにでも言ってるんじゃないですかぁ?」
そう言って頬を膨らませる様子に、愛い子ぶっていると思われていそうだなぁ、と思う。そんなことはないですよ、と笑みを貼りつけながら、最後の仕上げを終えた。いかがですか? と合わせ鏡で髪形を確認してもらうと、理想通りですと弾んだ声が返ってくる。
会計を済ませる間も彼女のお喋りは止まらなかった。次回予約まで終えると、ようやく解放されてほっとした。
「ではまたお待ちしております」
「はぁい。次回は気になる人のこと、教えてくださいね」
「はは、いないって言っているのに」
「絶対いると思うんだけどなぁ。そういう感、強いんですよ、わたし」
そう言い残された言葉が、しばらく耳から離れなかった。ありがとうございました、と頭を下げながら心の奥に押し潰したはずの想いがじわりと滲み出す。彼女の言う〈そういう感〉とは、どれほど信憑性があるのだろう。口からの出まかせというには些か的を射すぎていた。
小さく溜息を吐いて店に戻ると、同僚たちが後片付けを始めていた。彼女が最後の客だったので、入り口を閉めてドアにCLOSEの札をかける。雪兎も締め作業に加わろうとしたところで、たったいま閉めたばかりのドアがカランと音をたてた。全員がつい顔を上げると、店長である椎木 疾風 がひとりの男を伴って入ってくる。
あ、と思った。疾風が連れている男のことはよく知っている。否、よく知っていたかもしれない、と言った方が正しいか。疾風も長身の方だが、うしろの男は彼よりも更に頭ひとつ分背が高い。人目を避けるためか目深に帽子を被り黒縁の眼鏡をかけてはいても、その整った造作を隠しきれてはいなかった。よくは見えない帽子の下の、色素の薄い髪が地毛であることを知っている。
触り心地がよくて、触れることすら自分には恐れ多いと思っていたころのことを知っている。
スタッフたちは疾風に挨拶をしたあと、各々の作業に戻りつつもそわそわと視線をふたりに向けていた。彼らに届かない小さな声で、ぶつぶつと囁き合っている気配もする。閉店後でよかったとだれもが思っていることだろう。もし営業時間中であれば大変な騒ぎになっていたかもしれない。いまだって疾風の店のスタッフだという矜持で、叫び出しそうな気持を抑えている者だって多いはずだ。
なぜなら彼は逢おうと思って逢えるような相手ではない。
「雪兎、ちょっといいか」
疾風に声をかけられてはっとした。どうやら目を奪われたままぼんやりとしていたらしい。慌てて返事をすると、ちょっと相手してやってくれ、とうしろの男を見やる。
「お前、楓と同じ高校なんだって? 積もる話もあるだろう?」
「えっ、でもまだ片付けが、」
「そんなの他の奴らに任せればいい。凪 が来るまででいいからさ。よろしくな」
にやり、と疾風に笑われた。彼がその笑みを浮かべたときは、なにを言っても覆すことはできないとこの数年間で学んでいる。雪兎が渋々頷くと、疾風は彼を残して奥へと引っ込んでしまった。ひとり残された男はおもむろに帽子を脱ぐと、お久しぶりですと綺麗な形の目を細める。
「うん、ひさしぶり、」
逢いたかったと、逢いたくなかったが鬩ぎ合っていた。なんとか声を絞り出すと、好奇の視線から逃れるように彼を奥にある打ち合わせ室へと連れていく。ドアを閉めてしまうとそれほど広くない室内にふたりきりとなった。すこし気まずい。
「あ、飲み物淹れてくるよ。なにがいい?」
「なんでもいいよ。先輩が淹れてくれるものなら」
そう言って微笑うのを見ると、易々とあの頃に引き戻されるような錯覚に陥った。その物言いはあのころの彼のまま、雪兎の心のうちに秘めた想いなど露知らず、心を甘く擽ってくる。
逃げるように部屋を出た。給湯室でコーヒーを淹れながらようやく一息を吐いた。
心臓が止まるかと思った。もう二度と向けられることはないだろうと思っていた笑みを、あんなに間近で見てしまった。このままでは、心の奥に押し込んだ気持ちをそのままにしておくことができなくなる。けれどこれはきっと一度きりの偶然だ。
そうに決まっている。
「香川、なに考え込んでんの?」
片付けを終えたのか、先輩が雪兎を押しのけるようにして冷蔵庫を開けた。中から水のペットボトルを出すと、入り口に肩を預けてこちらを伺うように見てくる。なんでもないですよと誤魔化すように笑っても、頬が引き攣るのがわかった。ふぅん? と面白そうな顔をする彼のことは少し苦手だ。
「お前、森宮 楓 と知り合いだったの?」
「知り合いっていうか、ただ同じ高校だっただけです。少しくらい話したことはありましたけど」
「へぇ。お前ってほんと控え目だな。あんな有名人と知り合いだったら、普通は自慢するもんだぜ?」
「でも、友達だったわけでもないし。向こうは俺のこと、大して覚えていないと思います」
たぶん、それは嘘だ。先輩は再びふぅん? とにやついてから、おつかれと言葉を残して帰っていった。ひとりになった解放感で、息を詰めていたことに気づく。少し自分を落ち着けてから、コーヒーを淹れた紙コップをひとつトレイに載せた。
彼、森宮 楓は高校時代の後輩だった。そのころから大変な人気者だったが、それがいまや、見ない日はないくらいの人気俳優に昇り詰めている。雪兎はその様子を追いながら、画面越しに応援するだけで満足してきた。心の奥に押し込んだ気持ちをファンとしてのすきに押し込んでいれば、いつか風化するだろうと思っていた。今日あの子に気になる人がいるのかと聞かれなければ、あるいは楓と再会などしなければ、おそらくはきっといつか忘れられたはずだ。
――神様って残酷だな。
どうやら神様は、この想いを忘れることを許してくれないらしい。叶うことなどないとわかっている気持ちはどこへ向かうのだろう。普通は新しい相手を見つけて、焦がれる気持ちを上書きしていくのかもしれない。けれど雪兎にはそれができなかった。卒業後一切連絡を取らなかったのに、いつの間にか楓の活躍が目に入るようになって日常の隙間を埋めていった。ファンのひとりとしてならば想うことが許される。そう、気づいてしまった。
部屋に戻るとまだ疾風も凪も戻ってきていなかった。楓は椅子に座って台本を読んでいる。その前にどうぞ、とコーヒーを置いた。それで手持無沙汰になってしまったが、疾風に相手をしてやってくれと言われた手前出ていくわけにもいかない。少し迷って、楓の向かいにある椅子に座る。
楓が台本を閉じてカップに口をつけた。美味しいと零れる声が、じんわりと心に染み入ってくる。
――だめだ。
これ以上ここにいたら雪兎が押し込めた気持ちなど簡単にこじ開けられてしまう。もう二度と逢えないかもしれないのに、それはあまりにも残酷だ。
「店長と凪さん、すぐ来ると思うから」
「兄さんにも逢ったことあるんだ?」
「え? うん、凪さんは疾風さんとよく仕事で一緒になるから。お兄さんだったんだね」
「気づいてなかった? 苗字一緒なのになぁ」
ふふっ、と笑う、その笑みがすきだった。つい見惚れそうになって目をそらすと、苦しい胸の内をどうにか落ち着けようと試みる。あのころはこんな風ではなかったはずだ。どうやら離れていた間に、随分と抱えていた気持ちを拗らせてしまっていたらしい。
凪は疾風のビジネスパートナーだった。ヘアメイクアーティストでもある疾風とスタイリストの凪は共に仕事をすることが多いので、自然と雪兎とも顔を合わせる機会が多かったが、まさか楓の兄だったなんて思いもよらなかった。楓と同じ苗字だなと思ったことはあったが、随分と年が離れているし偶然だろうと済ませてしまっていた。そう言われてみればなるほど、整った容姿はよく似ている。
早く来てくれと願うほど、待ち人は来ないものだと思い知る。積もる話があるだろうと言われても、いざ本人を目の前にするとなにも思いつかない。そんな雪兎に楓が助け舟を出してくれた。
「先輩、卒業してからどうしてたの?」
「どう、って?」
「連絡取り合ってない間、なにをしていたのかなって。うっかり連絡先聞き忘れたことに気づいたときには、だれも先輩の行方を知らないし」
「そう、だったんだ、?」
「そうだよ。でも先輩は俺に逢いに来ることもできたわけでしょう?」
拗ねたようにそう言われると、すこしくらいは彼にも雪兎に対する気持ちがあったように思えてしまう。彼はこういう人間だからこそだれからも好かれるのだ。整った容姿だけではなく人懐っこい内面があるからこそ、いまの地位にまで昇り詰めることができた。
だから、絆されてはいけない。
「専門に通うためにこっちに出ちゃったし、色々と忙しくて。それに、きみの方こそ忙しくて俺のことなんて忘れていたんじゃない?」
「忘れていたら、わざわざ逢いに来たりしないよ」
「え?」
「そういうところが放っておけないんだよなぁ、先輩は。放っておくとすぐ、俺の前からいなくなる。忘れられないようにボタンまで交換したのに」
「そうだっけ、」
そうだよと言った楓が、忘れちゃったの?とわざとらしく拗ねる。ごめんと苦笑った雪兎は果たして、ちゃんと誤魔化せているだろうか。心臓がいまにも口から飛び出しそうな勢いでどくどくと鳴っている。楓が思わせぶりな言動をするたびに、どんどんと呼吸が苦しくなる。
けれど、逃げ出すこともできない。
「先輩は俺に逢いたくなかった?」
そう問われて、言葉が詰まった。どう答えたらいいかわからなかった。ただ遠くからその活躍を見守るだけで満足していたはずだった。けれどそんな真摯な瞳をまっすぐに向けられたら、自惚れが勝ってしまいそうで怖くなる。
楓と過ごしたあのころは雪兎にとってきらきらと光り輝く大切な宝物だ。交換したボタンの約束だって忘れられるわけがない。逢ってしまってから、ずっと逢いたかったのだと気づいた。立場の違いをまざまざと見せつけられても、雪兎は楓に逢いたかったのだと思い知った。
「逢いたかったよ。俺はきみのファンだもの」
だから、そう言うことでこの気持ちを押し止めようとした。あのころ抱えていた気持ちといま溢れ出した気持ちは同じようでいて違う。あのころはこの気持ちに名前をつけることが怖かった。けれど逢えない年月を経て拗れた想いをいまなら確実に初恋と呼ぶのだろう。
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