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第2話

 いまでさえ多少コミュニケーションが得意にはなったが、楓に出逢うまでの雪兎は引っ込み思案で他人との付き合いがとにかく苦手だった。友人と呼べるのは近所に住んでいた幼馴染の折原 央基(おりはら ひろき)くらいで、高校で別々になってからは友達もできずにずっとひとりだった。クラスにとっては空気のような存在で、認識はされていても積極的に話しかけてくる生徒はいない。そっちのほうが雪兎にとっても気楽だったし、面倒ごとに巻き込まれない日々は平和で、すこし退屈だった。  昼休みは隣接棟の屋上で過ごすことが日課だった。どうせ教室にいてもひとりなのだ。普段はカギがかかっている場所だったが、一年生のとき、運よく偶然差しっぱなしになっていたカギを手に入れた。原則立ち入り禁止の場所なのでだれもいないし、静かで居心地がいい。かつては使われていたのだろう、ボロボロになって錆びたベンチが弁当を広げるには丁度よかった。  そうして過ごしていた初夏のある日、突然屋上のドアが開いた。カギを掛けたのか、記憶が定かではなかった。最初のころこそ用心していたが、教師たちでさえ存在を忘れているような場所だったので最近はおざなりになっていた。どこかに隠れようかと辺りを見回したがあいにくと屋上は開けている。息を詰めて開く扉を見つめるしかなかった。教師の誰かであればきっと大目玉を食らうだろう。なにせ雪兎は三年もの間、紛失したと思われていた屋上のカギを隠し持っていたのだから。  幸い、入ってきたのは教師ではなかった。ドアをくぐるように身を屈める必要がある背丈に、陽に透けてきらきらと光る色素の薄い髪。雪兎に気づいてこちらに向けられた顔は、随分と見目麗しいことが窺える。ひと目で印象づける容姿はいかにも女子生徒の視線を集めそうだ。というか、集めているのを知っている。いくら人間関係に疎い雪兎でも知っているくらい、彼は目立つ存在だった。  ――森宮 楓。  はっきり言って、だれとでも仲良くなれる彼のような人間は苦手だ。いますぐにでも逃げ出したい気持ちが湧き上がってきて、広げたばかりの弁当をしまおうか迷った。あとから来たのはあっちだし、まさか追い出されたりはしないだろうが、馬が合うわけではない。接点を持つなんて夢に思うことさえ烏滸がましい。  楓はそういう人だった。 「あれ?どうやって入ったの?」 「それはお互い様だろ」 「え? よく聞こえない」  そう言って、楓はにこやかな様子で近づいてくる。つい身構えた雪兎の前にしゃがみ込んだ楓に、先輩ですよね? と顔を覗き込まれた。おそらく雪兎の声が小さかったせいでほんとうに聞こえなかったのだろう。 「ここ、先輩の秘密の場所なんですか?」 「どうして?」 「だって普段は開いてないでしょう? 俺、時々逃げたくなってすぐそこの踊り場まで来るんですよ。いつもこのドアが開かないのは残念だなって思っていたから。もしかして先輩が開けたんですか?」  その問いには肯くのが精一杯だった。遠くで見かける分にはよくても、間近で笑みを向けられると眩しい。央基以外の同世代と言葉を交わすのが久しいというのもあって、上手く話せる気もしなかった。早く昼休みが終われとさえ願う。 「お昼、いつもここで食べているんですか?」 「ひとりでいる方が楽だから、」 「へぇ、美味しそう。ひとつ貰っていいですか?」 「へ、ぇっ?」  言うが早いが、雪兎が戸惑っている間に長い指が卵焼きをひとつ摘まんだ。そのまま口に頬張ると、美味しい! とその頬が笑みにとろける。 「先輩のお母さん、料理上手なんですね。それとも彼女とか?」 「そんなの、いるわけないってわかるくせに」 「どうして?」 「友達を作るのも苦手なのに、彼女なんてできるわけないよ。あと、これは自分で作ったんだ」  ついさっきまで上手く話せないと思っていたのに、口を開くと不思議なほどすらすらと言葉が出た。楓が雪兎の返答を待って、話しやすい空気を作ってくれているからかもしれない。こういうことを自然とやってのけるところが、その容姿以上に人気者になる秘訣なのだろう。 「本当に? 先輩お料理上手なんですね。ひとり暮らしなんですか?」 「ううん。家族で暮らしているけど、母さんは美容室だけで手一杯だから。自分でできることは自分でって」  雪兎の母親が営む美容室は近所の主婦や学生たちにそこそこ人気がある。祖母のあとを継ぎ、本来は父と母がふたりで切り盛りしていたのだが、父は雪兎が幼い頃に母と姉と雪兎を残して不慮の事故で逝ってしまった。そのあとは母が女手一つで姉と雪兎を育てながら、店を切り盛りしている。五つ上の姉はすでに美容学校を卒業し、母の跡を継ごうと都会のサロンで修行中だ。雪兎もふたりの背中を追いかけて美容師の道を目指すつもりでいる。地味で引っ込み思案の自分が美容師なんて、笑われてしまうかもしれないけれど。 「偉いなぁ、頑張ってて。俺だったら絶対無理だ」 「あの、お昼はもう食べたの? なにも持ってないけど」 「あー、学食も売店も騒がれて、静かにご飯食べられないんですよ」 「あの、よかったら食べる? お弁当」 「いいんですか? でも先輩お腹空いちゃうでしょ?」 「なんだか胸がいっぱいで。食べてくれたらうれしい」  そう言うと、楓がうれしそうに弁当を挟んで座った。雪兎から箸を受け取ると、いただきますと手を合わせた。弁当箱を持ち上げて食べる仕種さえ丁寧で好感が持てる。 「本当に美味しいです。今日、ここに来てラッキーだったな」 「きみだったら美味しいお弁当を作ってくれる女の子は山ほどいると思うけどな」  きっとこんな人気のない場所にふたりきりで、雪兎のお手製弁当を楓が食べていたことが知れたらとんでもない羨望と嫉妬を向けられるだろう。彼の隣に並びたい女の子は数えきれない程いる。ほぼ空気として扱われている雪兎が係わり合える人間ではけしてない。勝手なイメージで塗り固めていた楓よりは随分話しやすくて、居心地がよかったとしても、だ。 「まぁ、そうかもしれませんけど」 「そこは否定しないんだね」 「でも俺、だれかわからない相手が作ったご飯って食べられないんですよ。手作りのお菓子とかも駄目です」 「え? でも、このお弁当も誰だかわからない相手が作ったご飯、じゃない?」 「これは先輩が作ったお弁当でしょう? だから美味しいです、すごく」  そう言う飛び切りの笑みに心が持っていかれてしまった。不意打ちにときめいてしまった鼓動を抑え込んで、熱くなる頬を隠すように俯く。本当かお世辞かもわからない言葉に踊らされるのは、身の程を知ったあとで傷つくだけだ。  ごちそうさまでした! と手を合わせた楓が、お弁当箱を仕舞って包みで包んでくれた。ありがとうと礼を言うと、俺の方ですよと笑われた。午後の始まりを告げる予鈴が鳴る。ついさっきまで早く終われと願っていたくせに、いまはもう名残惜しい。 「また来ていいですか? ここ」 「うん、いいよ。なんならカギを預けておこうか?」 「それだと先輩が来なくなるでしょ? お昼はここにいるんですよね?」 「うん」 「じゃあ、また来ます。あ。俺、森宮 楓です。一年の。先輩のお名前は?」 「三年の香川 雪兎、です」 「いいお名前ですね。じゃあ、また」  そう言って、授業へ向かう楓を見送った。今し方起こったことが信じられずに、雪兎は本鈴が鳴り終わったあともその場を動くことができなかった。楓が向けてくれた笑みは遠くから見かけていたそれとは違うような気がした。思い出すだけで、知らない感情がじわりと心に染み入ってくる。  それが、森宮 楓との出逢いだった。

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