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第3話

 そうはいってもどうせ来ることはないだろうと思っていた雪兎の予想を裏切って、楓は本当に来た。少なくとも週一回、たまに二日続けて来ることもあった。ちゃんとお昼を持ってきていることもあれば、持ってきていない日もあり、雪兎は自然ともうひとつ弁当を作っていくようになった。次の約束をすることはなかったが、そうした日々を過ごすうちになんとなく来る予感が当たることの方が多くなってきた。学年が違うので屋上以外ではすれ違う程度だったが、相変わらず女の子や友達に囲まれる楓の周りは賑やかなようだ。あれではつい息抜きしたいと思ってしまうのも頷ける。そうしている楓は雪兎とは住む世界が違う人間のようだった。  テスト期間が明けて終業式を待つだけの数日間、授業は午前中しかない。学校内は数日後に迫る夏休みに向けて、そわそわとした期待感に溢れていた。テスト期間中、楓は屋上を訪れなかった。それを寂しいと思っている自分の心が擽ったくて困る。  今日も学校は午前中で終わりだった。それでもなんとなく楓が来るような気がして雪兎は屋上を訪れていた。すこし待って来なかったら帰ればいい。そう思う雪兎をよそに、やってきた楓は雪兎がいたことにちょっと驚いたように、お久しぶりですと頬を笑みに崩した。 夏真っ盛り間近の陽射しが強く、屋上で過ごすのは大分厳しい。ここ最近は手前の踊り場で弁当を広げることが増えていた。室内は日陰なので、リノリウムの床がひんやりとしている。  いちばん上の階段に並んで、一学期最後かもしれない昼食を共にした。隣接棟は主に特別教室が連なっているので、いつもは静まり返っている。けれどいまはテスト期間を終え、部活動に勤しむ生徒たちの微かなざわめきが伝わってきていた。 「先輩は夏休みなにしてるの? 受験勉強とか?」 「美容師の専門学校に行くつもりだから大学受験はしないんだ。いくつか学校を見に行くつもり」 「そうなんだ。お母さんの背中を追いかけるなんて素敵だね」 「向いてない、って言わないの?」 「どうして?」 「だって、俺はきみと違って人と話すのも苦手だし、」 「そう? 俺とはちゃんと話せてるし、そんなことで夢を諦める必要はないよ」 「そうかな?」 「そうだよ。きっと素敵な美容師になれるよ」 「ふふ、ありがとう。森宮くんはなにをするの?」 「俺は友達と遊んだり、あとバイトするかな」 「なんのバイト?」 「兄さんがスタイリストなんだけど、その手伝いとか。あとはたまに頼まれて読者モデルやったり」 「きみにピッタリだ。そういえば、クラスメイトが森宮くんが載ってる雑誌を見ていたかも。将来はそういう仕事をするの?」 「続けるかはわからないけど、楽しいなとは思ってる。もし俺がモデルになれたら、ヘアメイクは先輩にお願いしようかな?」  そう言って笑う楓に、本当にそうだったらいいなぁと思いながら笑い返す。いつの間にか敬語をやめた楓は、砕けた口調で雪兎の心の隙間にどんどんと入り込んできていた。迷惑かもしれないから口には出さないけれど、友達と呼べる程度には親しくなれたのではと思っている。少なくともここへ来てくれるのだから、嫌われてはいないはずだ。 「先輩はバイトとかしてないの?」 「たまに母さんの店を手伝うくらいかな。夏休みも用事がない日は毎年駆り出されるし」 「へえ、偉いね。先輩も髪いじったりするの?」 「ううん、俺は雑用とかレジとか、たまにシャンプーをやらせてもらったりとか」 「じゃあ、俺を最初のお客さんにしてくれる?」 「え?」 「俺の髪、切ってくれませんか?」  何気ない、まるで天気の話をするような気軽さだった。えええ! と思わず叫びそうになって、慌てて声を飲み込む。こんなところで大声を出すわけにはいかない。見つかったら、ふたりだけの時間が台無しだ。 「む、無理だよ! 失敗したら大変だし、それにモデルやってるって今さっき、」 「大丈夫だよ。ちょっと切るくらいなら。それに失敗したら美容院で切ってもらえば大丈夫」 「でも、」 「練習台だと思ってくれたらいいから。俺、先輩に髪切って欲しい。どうかな?」 「どうって、」  上手く断る口実が見つからなかった。このままでは押し切られてしまいそうで、手が震えてくる。もし失敗して、とんでもない髪形になったらどうしよう。いくら美容師を目指していると言っても雪兎はまだ誰かの髪を切ったことはない。ましてや楓の髪など、恐れ多くて触れもしない。せめて学校に通ってカットの仕方を学んだあとでなら、話は違うかもしれないけれど、 「じゃあ、こういうのは? 夏休み中にお母さんにやり方を教えてもらうのは?」  雪兎の様子に気づいたのか、楓が押し切るのを止めてそう提案してくれた。そう言われると、たしかにその方法はこれから美容師を目指すうえでも役立ちそうだ。実のところ何度か教えて欲しいと言ったことはあったのだが、母が忙しさにかまけて後回しにされがちだった。今年は手が空いたときにもう一度お願いしてみよう。 「上手く切れなくても怒らない?」 「大丈夫、怒ったりしないから。きっと上手くできるよ。楽しみにしてるね」 「そう言われるとすごいプレッシャーが、」  そう言う雪兎に大丈夫だと楓が笑ってくれた。彼が喜んでくれるのなら頑張ってみようかな、と思える自分に驚く。今までの雪兎だったらきっと絶対にできないと逃げ出していただろう。その気持ちの大半を楓のためなら、と思う心が占めていることには、そっと気づかないふりをした。  夏休みに入ると雪兎は予定通りいくつかの専門学校を見学しに行き、その合間を縫うように実家の手伝いに勤しんだ。学校選びには姉の意見を参考にして彼女と同じ学校に願書を出すことに決め、試験についてのアドバイスを求めた。幸い学校からの推薦が受けられそうだったので、大学受験組の央基と比べたら勉強する必要はあっても、気持ちは随分と気楽だ。  繁忙期のお盆を過ぎると店が少し落ち着いたので、客足が途絶えた夕方、雪兎は母に思い切ってカットの仕方を教えて欲しいと申し出た。鋏の手入れをしていた母は驚いたように顔を上げて、すぐにいいわよとうれしそうに破顔する。その笑みに安堵して、母にお願いするだけなのに随分と緊張していたことに気づいた。 「来年から専門学校に通うんだもんね。もう学校は決めたの?」 「うん、姉さんと同じところにしようかと思って。色々受験のアドバイスも聞けるし」 「そう、いいと思う。雪兎なら問題なく受かると思うし。母さんの息子だもの」  ふふっと笑う母は年の割にはお茶目で若々しく見える。若い頃は都内の美容室で人気美容師だったらしいが、雪兎は父と結婚したあとの母の姿しか知らない。少々楽観的で自信家な面を持っているので、姉などはたまに辟易としているが、雪兎は母のこの性格の欠片でも自分にあったらいいのにと思っている。  母は仕事の合間や店を閉めたあとに時間を作って、雪兎にカットを含めた美容師の技術を教えてくれた。カット練習用の首だけのマネキンは昔両親が使っていたものが納戸の奥に眠っていたので、ありがたく使わせてもらう。ひと通り母から教わったあとは、ひとり黙々と練習した。時折夜中まで練習していて、母から程々にするようにと苦笑われた。  毎年夏休みが終わるころ、地元の神社で夏祭りが開かれる。参道にはずらりと屋台が並び、終いには花火まで上がる、地元では有名な盛大なお祭りだ。周辺の町からも人が大勢集まり、いつもは静かな田舎町がその日だけは俄かに騒がしい。祭りの日は母の美容室も少し早めに切り上げる。閉店時間までは浴衣の着付けやヘアメイクを頼む子供たちで賑やかで、雪兎も僭越ながらヘアアレンジの手伝いをさせてもらった。祭りの日は毎年混むとわかっているから、姉が休みを合わせて実家に帰ってくる日でもある。都会のヘアサロンで働いている姉の噂は町内でも広がっていて、彼女を目当てに来るお客さんもいるくらいだ。 「へぇ、母さんにカットの仕方教えてもらったんだ。道理で手際が昨年よりいいわけね」 「雪兎は筋がいいわ。流石わたしの息子」 「はいはい、わかったから。わたしも雪兎も母さんの自慢なのよね」  母の言いようをさらりと交わした姉は、しかし満更でもなさそうだった。閉店後の片付けを手際よく捌きながら、姉は母と久々の女子トークに花を咲かせている。そういうとき、雪兎は割って入らないようにしていた。自分の話題に触れたときだけ受け答えができる程度には聞き耳を立てる。 「でも雪兎はどうして突然カットの仕方なんて覚えようと思ったの? 学校でいくらでも教えてもらえるのに」 「少しでも早く身につけておいた方が有利かなって。それに突然ってわけでもないよ。何度か教えてって言ったことあったし」 「雪兎は切ってあげたい子がいるのよ。ねぇ?」  打ち明けたつもりはないのに、母が突然そんなことを言い出したものだから、姉の目が光った。慌てて誤魔化そうと口を開いたが間に合わず、母に畳みかけられる。 「じゃなきゃ、あんなに熱心に練習したりしないわ」 「そうなの? 彼女でもできたの?」 「違うよ!」 「じゃあ友達?」 「そ、そう! 友達!」 「よかったじゃない雪兎! ヒロくん以外の友達ができて!」  そう言う姉の言葉に悪気はない。彼女は引っ込み思案でコミュニケーションが苦手な雪兎に友達がいないことを、真剣に心配してくれていた。歳が離れているので小学校以来同じ学校に通うことはなかったが、友人たちと遊びに行くときは雪兎も一緒に連れて行ってくれた、弟想いのよき姉だ。つい勢い余って肯定してしまったが、実はそう呼べるかわからないことを知ったら、きっとがっかりするだろう。楓には申し訳ないけれど、姉の前では友達だということにしてもらおう。

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