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第7話 わからないことだらけ

 渡辺が南米に行ってから1週間、樹は毎日を忙しく過ごすことにした。そうでもないと、寂しくて心が折れそうだったから。  仕事のない日は掃除と洗濯に熱中した。家中のカーテンやソファカバーなど布類を全て洗う。そして換気扇から排水溝まで隅々を掃除した。時間になるとジムに行き、外で夕食を食べて家に帰り、ウィスキーを少し飲んで寝る。  そんな毎日が過ぎ、1週間目の今日は久しぶりに雑誌の撮影のためスタジオに向かった。 「あれ、樹、顔色悪くない?」 「そうかな?」 「ちょっと、やつれてる気が…」  事情を知らない西岡が心配そうに頬を触った。  一日一食では足りないのかもしれない。 「潤いがないな…撮影終わったら病院行くか?」 「大げさだな。撮影してる僕を見てから言って下さい」  落ち込んでいても、疲れていても、カメラの前に立つと全てを忘れる。いつも通り撮影を終えると、西岡はホッとした様子だった。 「さすがプロだね」 「当然でしょう」 「これなら、あと10年はやっていけるかな」 「だといいんですけど」  着替えを終え、駐車場に向う途中で再び西岡と顔を合わせた。 「お疲れ様でした」 「お疲れ。あ、そうだ。この前の話だけど…知り合いが写真欲しいって言ってて…どうかな?」 「写真だけですか?」 「うん。何枚か宣材用の写真、見せていいかな?」 「ええ、すぐには決められませんけど」 「それはいいよ。まだ5年はやっていけるからさ。お疲れ」 「お疲れ様でした」  そうだった…この問題が残っていた。渡辺のことで頭がいっぱいで、ゲイポルノの話は忘れていた。その他の転職先は調べてもいなかった。  自分はいったい、どうしたいんだろう…自分は渡辺をどう思っているんだろう…自分のことなのに、わからない。どうすればわかるかも、わからない…  渡辺とはメールでやり取りをしていた。文明の利器の発達で、ネットを使えば顔を見て話せるツールもあったが、渡辺の宿泊先はネット環境が悪かった。メールを見るのがやっとだというので、毎日メールを送り合った。  ただ…内容は無難なもの。  “ちゃんと飯食ってるか?”  “食ってるよ”  “体に気をつけろよ”  “渡辺さんこそ”  こんな感じのやりとりばかり。では他に何を送りたいのかと聞かれると…本当に送信したい言葉は送れない。  じゃあ本当に送りたい言葉って?  何もかもわからなくなった樹は、何もせずボーっと毎日を送るようになっていた。  *** 「樹…1週間前より状態悪くなってないか?」  1週間後、撮影のためスタジオを訪れた樹に、西岡が心配そうに言った。 「そんなことないですよ」 「ちゃんと飯食ってんの?」 「はい」  食べているというより、買い溜めてあったゼリー状の栄養補助食品を飲んでいた。 「目も死んでるぞ。終わったら病院行くか?」 「大丈夫。撮影が終わったら必要なくなります」  今日は大人向けの男性誌の撮影。いつもより落ち着いた雰囲気を出さなければいけない。少し疲れた感じがよかったのか、クライアントの反応は上々だった。 「この調子なら、あと20年はいけるかもな」 「期待させないで下さいよ」 「ちょっと、いいか」  西岡が小さな会議室に樹を案内した。 「お疲れ様でした」  そこには今日のカメラマン、伊藤が座っていた。 「今日の撮影、すごくよかったよ」 「ありがとうございます」 「あれ、ちょっと疲れてる?」 「ええ、まあ…」 「このまま、僕のスタジオでヌード撮らせてもらえないかな」 「はい?」 「実は俺の知り合いって伊藤なんだ」 「その、ちょっとやつれた感じがエロい」 「はあ…」  話の内容のせいなのか頭が朦朧としてきた。 「樹君なら、かなり稼げると思うけどな」 「伊藤が言うには、樹さえその気になれば、あっちの世界で20年は十分やってけるって」 「まずは写真だけでいいからさ」  写真…写真…伊藤と西岡が立て続けに自分に話しかけてくる。だけど…内容が頭に入らない… 「樹!おい、樹!」  ***  気がつくと、そこは病院だった。 「飽食日本で栄養失調って何?って感じだよ…」  樹は栄養失調と疲労で倒れてしまったらしい。 「食べてるって何食べてたの?紙?草?ヤギじゃあるまいし」 「すみません…」  呆れて言葉も出ないといった様子の西岡に、体を起こした樹が申し訳なさそうにうつむく。 「これが終わったら、点滴もう一本だって」 「終わったら自分で帰れますから…」 「樹!」  病室のカーテンをガバッと開けて、血相を変えた渡辺が入ってきた。 「おまえはバカか!今の時代に栄養失調で倒れるヤツがどこにいる!あれだけ、しっかり飯を食えと言ったのに…おまえは何を聞いてたんだ!!」  樹の肩をつかみ、ガクガクと揺さぶる。 「ちょっと…渡辺さん、ここ病室ですから…」 「…え、ああ…すみません」  周りを見渡し、ペコペコと頭を下げた渡辺がゆっくりと椅子に座る。 「もう一本点滴を打つそうなので、終わったら私がお送りします」 「いえ、私が責任を持って連れて帰ります。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」  二人は互いに頭を下げ、西岡は“じゃあ、またね”と、樹の顔を見て病室を出て行った。  西岡を見送った後、厳しい目つきで渡辺が樹を睨んだ。  ―怒られる…  身をすくめた樹を…渡辺がギュッと抱きしめた。  包み込むように強く優しく抱きしめる腕が樹の中から不安を消していく。無言で抱きしめ合っていた二人が体を離すと、すでに点滴が終わっていた。 「看護婦さん呼ぶね」  もう一本の点滴が終わり、タクシーで家に着くまで二人は無言だった。  *** 「座れ」  リビングに入ると渡辺が口を開いた。樹が恐る恐るソファーに腰を降ろすと、距離をとって渡辺も腰をかける。 「ちゃんとやっているというのは嘘だったのか?」 「ごめんなさい…」 「一人でもちゃんと食事できるだろう?」 「ごめんなさい…」 「…俺のせいだな」 「え?」  渡辺が整った顔を歪め、額に手をあてている。そしてしばらく考え込んだ後、ゆっくりと口を開いた。 「…一人暮らし…してみないか?」 「え?」 「樹も一人で暮らしてみないか?そうすれば俺に心を乱されることがない」  突然の提案に、樹はパニックになってきた。 「樹は自己管理をしっかりできるプロ意識の高いモデルだ。これまで俺が家を空けても、きちんとしてきたのに…今回だけできなかった。理由はわかっている。俺が樹の心を乱してしまったからだ」 「違うよ…」 「俺も一度箍が外れてしまったから、いつ何をするかわからない」 「でも…」  ―イヤだ。渡辺さんと離れて暮らすのは絶対にイヤだ。だけど、この気持ちをどう説明したらいいのかわからない。  戸惑う樹に目を向けず、苦しそうにうつむいたまま渡辺が話を続けた。 「二度と樹を傷つけたくない。樹も一人の方が自分のすべきことに集中できるだろう。すぐにとは言わない。だが一度よく考えてみてくれ。おまえにとって何が最善かを」  立ち上がった渡辺は最後に“すまない”と言って、部屋に入ってしまった。  ソファーに残された樹は、頭を整理しようと必死になった。だけど整理しようとすればするほど、わからなくなる。なぜ渡辺は突然こんなことを言い出したのか…いつ何をするかわからないって…どういう意味なのか。  一つはっきりしているのは、渡辺がこの間のことを後悔しているということ。  樹はこれまで、これほど真剣に悩んだことはなかった。ただ目の前にあるものを一生懸命追いかけ、必死でこなしてきただけ。  自分にとって最善は何か、自分にとって一番大切なものは何かを考えたことはなかった。考えなくても目の前に目標があったから。  だけど今は違う。自分はどうしたいのか、答えを出さなければならない。  わからないことだらけの中で、はっきりしているのは、渡辺と離れたくないということ。  それから…職業の転換期が近々やってくるということ。  そして誰かに愛して欲しいということ。  だけど全ては自分の思い通りにはならない。  渡辺が自分と暮らしたいと思ってくれなければ、自分ではどうしようもない。  職業の転換も…限られた転換先から選ぶしかない。  そして自分を愛してくれる誰かも、探したところですぐに見つかるわけじゃない。  途方にくれた樹は…しばらく全てを放置することにした。

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